経済学の主役は、自らの満足(効用)を最大化しようとする経済人(ホモ・エコノミクス)。経済人の前提を問い直すことによって経済学の新たな地平を開くのではないか。「経済学の書棚」第8回前編は、「合理的経済人」の概念を突き詰めて考察する『経済学と合理性』と、ゲーム理論におけるプレーヤーの行動の合理性についても論じる『活かすゲーム理論』、経済学界の内側から経済人の概念を批判してきたアマルティア・セン氏の『合理的な愚か者』を紹介する。

「経済学の書棚」第8回は、経済学の主役である「経済人」(ホモ・エコノミクス)について紹介した6冊
「経済学の書棚」第8回は、経済学の主役である「経済人」(ホモ・エコノミクス)について紹介した6冊
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「経済人」がミクロとマクロの架け橋に

 経済学の主役は「経済人」(ホモ・エコノミクス)である。経済人はどのように行動するのかを理論やデータを使って描き出すのが、大方の経済学者の仕事だと言ってもよい。経済人の概念は明確で、経済人を出発点とする議論からは、分かりやすい結論が出てくる。経済学者たちは、経済人という便利な道具を使って経済学を発展させてきた。

 その一方、経済人は「現実離れしている」とか「人間の一側面を捉えた概念にすぎない」といった批判を各方面から浴びてきた。経済人はこれからどんな道を歩むのだろうか。

 早稲田大学の清水和巳教授は『 経済学と合理性 経済学の真の標準化に向けて 』(岩波書店/2022年3月刊)で、「合理的経済人」の概念はミクロ経済学とマクロ経済学の対立を乗り越える「標準的経済学」の基礎としての地歩を固めつつあるとの認識を示す。

『経済学と合理性 経済学の真の標準化に向けて』(清水和巳著)。近年の目覚ましい経済学の進化をトレースし、ミクロ経済学とマクロ経済学の両者の方法論的な対立を乗り越えた先に見える「標準的経済学」の現在と未来を「合理性」をキーワードに解説した1冊
『経済学と合理性 経済学の真の標準化に向けて』(清水和巳著)。近年の目覚ましい経済学の進化をトレースし、ミクロ経済学とマクロ経済学の両者の方法論的な対立を乗り越えた先に見える「標準的経済学」の現在と未来を「合理性」をキーワードに解説した1冊
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 経済学は、経済を構成する個々の主体(企業、家計および個人)の行動に焦点を当てるミクロ経済学と、経済全体の動き、とりわけ失業率、インフレ率、経済成長率、貿易収支のような集計された量の動きを見るマクロ経済学に分かれている。

 ミクロ経済学では、経済を分析する際の基本的な単位となる個人の行動規範として「合理性」を想定する。消費や生産といった経済行動は、希少な資源から何かを選ぶ営み(選択)と言い換えられる。人々の選択には何らかの一貫した基準があると考え、多くの選択肢の中から自分にとって最適な(主観的な価値を最大にする)選択肢を選び出す。

 著者によると、かなり最近になるまで、ミクロ経済学とマクロ経済学は共通の分析手法を持っていなかったが、近年の経済学の進化は目覚ましく、この奇妙な断絶状態は終焉(しゅうえん)を迎えつつあるように見えるという。

 ミクロ経済学は「合理的経済人」を保持しつつも、場合に応じてその枠組みを緩めたり、乗り越えたりすることに寛容になってきた。マクロ経済学は「合理的経済人」による「ミクロ的基礎付け」を様々な形でモデルに適用し、独自の進化を遂げつつある。マクロ経済学の側がミクロ経済学の手法を取り入れ、両者が接近して「標準的経済学」が生まれつつあると解説する。

 経済学の役割は現実の経済現象をよりよく説明することにある。「合理的経済人」仮説は当初から厳しい批判の対象となっていたが、現時点では、いくつかの留保条件付きで、「合理的経済人」を基礎とする理論・モデルから出発するのが最良だと強調する。

「経済人」仮説の条件を緩める

 「合理的経済人」仮説が非現実的だから最適化モデルを捨て去るのではなく、そのモデルの最適解が近似的にせよ現実の人々の選択結果(データ)にフィットする場合と、しない場合を細かく区分けして、その事実自体をデータとして蓄積する。データとフィットしない「変則事例」が無視できないほど蓄積されてきた場合には、まずは「合理的経済人」仮説を形成するいずれかの条件を緩めて新たに理論・モデルを作り、最適解を導き、それをまたデータと突き合わせる作業が必要になると指摘している。

 現代ミクロ経済学の柱となっているゲーム理論を総ざらいする『 活かすゲーム理論 』(浅古泰史、図斎大、森谷文利著/有斐閣/2023年3月刊)は、理論の活用に重点を置く入門書だ。

『活かすゲーム理論』(浅古泰史・図斎大・森谷文利著)。ゲーム理論を応用して実際に使えるようになるために、モデル化のコツを初学者に向けて分かりやすく解説した入門書
『活かすゲーム理論』(浅古泰史・図斎大・森谷文利著)。ゲーム理論を応用して実際に使えるようになるために、モデル化のコツを初学者に向けて分かりやすく解説した入門書
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 学校や会社、家庭など日常の中で解決が難しい問題に直面するとき、ゲーム理論の手法をあてはめて考えることで考えを整理し、原因を解明できるかもしれない。ゲーム理論を知るだけではなく、活かすことが重要だと説く。同書を読み終えた後、自分が直面したり、新聞やネットで見たりした問題を、ゲーム理論的に考え直して違った視点から捉えられるようになっているのが、執筆の目的だという。

 ゲーム理論の主役はやはり「経済人」だ。同書には、ゲーム理論における「合理性」と題する節がある。ゲーム理論では経済主体(プレーヤーと呼ぶ)は自己の利得を最大にするように行動する。「人々は利己的に自身の利益だけを考えて行動しているわけではない」と批判されることが多いとしながらも、ゲーム理論における「利得」の概念はプレーヤー自身の金銭的・物質的な利益とは限らないと反論する。

利他性や嫉妬を理論に取り込む

 ゲーム理論で仮定している合理性とは、利得を最大にする行動をとるという仮定と同じだ。利得を決めるうえで大切なのは、プレーヤーにとって好ましい選択肢ほど高くなるように利得を設定することだ。したがって、経済人は常に賢く正しい決断を下せる人を意味しない。利得の中に利他性や嫉妬といった感情を取り入れる分析も可能だという。

 清水氏や浅古氏らが活用する「経済人の前提を堅持しつつ、条件を緩めながら分析の対象を広げていく」手法は、ミクロ経済学を中心とする現代経済学の強力な武器となっている。

 一方、経済学界の内側から、経済人の概念を批判してきたのが、1998年にノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン氏だ。セン氏の1970年代の論文を収録した著書『 合理的な愚か者 経済学=倫理学的探究 』(大庭健、川本隆史訳/勁草書房/1989年4月刊)には、本の題名となった「合理的な愚か者 経済理論における行動理論的な基礎への批判」(1977)と題する論文が収録されている。

『合理的な愚か者 経済学=倫理学的探究』(アマルティア・セン著)。経済学界の内側から経済人の概念を批判してきたアマルティア・セン氏の1970年代の論文を収録した著書
『合理的な愚か者 経済学=倫理学的探究』(アマルティア・セン著)。経済学界の内側から経済人の概念を批判してきたアマルティア・セン氏の1970年代の論文を収録した著書
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 セン氏によると、多くの第一級の経済学者たちが、自己利益に動機づけられ価格シグナルによって導かれる分権的経済は、経済的資源の他の多くの処分方法よりも十全に定義された意味で優れている、と示そうとしてきた。経済学に接してこなかった人々が、「個人的な貪欲によって動機づけられ、厖大(ぼうだい)な数の行為者によって制御される経済はどんなものになるだろう」と問われれば、「混沌」と常識的に答えるだろう。

 セン氏が問題にするのは、想定されたモデルと現実の経済世界との関係ではない。モデルが一定の仮定によって厳しく制約されているとき、どこまで精確な答えが与えられているか、である。問いそのものの中に特定の人間観がすでに浸み込んでおり、その問いに答えようとしている限りは、その人間観を自由に離れて考えることはできないと警鐘を鳴らしている。

「コミットメント」に基づく選択

 セン氏はここで、「共感」と「コミットメント」という概念を提示する。他者への関心が直接に自分の厚生に影響を及ぼす道徳感情が共感であり、共感に基づく行動は、ある意味で利己主義的だと論じることができる。一方、その人の手が届く他の選択肢よりも低いレベルの個人的厚生をもたらすと本人が分かっているような行為を(他人への顧慮ゆえに)選択するのが、コミットメントに基づく行動である。

 経済学者たちは、人間は単一の選好順序を持つと想定し、必要が生じたときにはその選好順序が彼の利害関心を反映し、彼の厚生を表し、実際の選択と行動を描写する。「その人が(選好、選択、利益、厚生といった)まったく異なった諸概念の区別を問題にしないのであれば、その人はいささか愚かであるに違いない。純粋な経済人は事実、社会的には愚者に近い。これまでの経済理論は、単一の万能の選好順序の後光を背負った合理的な愚か者に占領され続けてきた」と批判し、コミットメントを人間行動の構成要素として適合させ、選好概念を構造的に拡大する必要があると唱えている。

(後編へ続く)

写真/スタジオキャスパー