2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当する歴史学者、小和田哲男さんの「新しい家康」が見える3冊。3回目は『江戸幕府の誕生 関ヶ原合戦後の国家戦略』(渡邊大門編/文学通信)。17歳から74歳まで合戦に明け暮れ、身内やたくさんの家臣をなくしてきた家康は、平和への思いが強かった。「平和構築」「戦後処理」という現代にも通じるテーマとして読むこともできます。
「戦後処理」から家康を捉える
「新しい家康」が見える3冊の最後は『 江戸幕府の誕生 関ヶ原合戦後の国家戦略 』(渡邊大門編/文学通信)です。
前回までの2冊が「家康が天下を取るまで」に焦点を当てたものだとすると、本書は天下統一後、「江戸幕府の草創期」に注目した珍しい本です。江戸幕府誕生直後の諸問題について考察し、なぜ家康が約260年にもわたる天下太平の世を築けたかを掘り下げています。サブタイトルに「関ヶ原合戦後」とあるように、いかにして戦を終わらせたのかを詳しく解説しています。
勝者だけではなく、敗者をどう扱うのか。家康は負けた西軍の諸将たちに厳罰を処すとともに、温情をかけたケースも多かったようです。
新たな領地の配分をどうするのか。いかにして恨みや憎しみを静めていくのか。山積するこれらの問題解決に当たる家康の姿は、ビジネスパーソンにとっても学びとなります。今、ロシアとウクライナの戦争をどう終結させるのかが世界の大きな課題となっています。「平和構築」「戦後処理」という現代的なテーマとしても読むことができる1冊です。
これまで徳川家康の生涯や考え方に迫る本というと、家康の没後350年の1965年に書かれた『徳川家康公伝』(中村孝也著/東照宮社務所)が最も詳しく、基本文献になってきました。詳細な年譜や関連文書などが収められており、徳川家康の研究には欠かせません。
しかし近年、家康から大名へ宛てた書簡や古文書などが発見され、新たな研究が始まっています。『江戸幕府の誕生』でも、これまで語られてきた徳川・豊臣の「二重公儀体制」や、「一国一城令」などを深く掘り下げています。
身内や家臣を失い続けた家康
家康は「戦国争乱に終止符を打った」といわれますが、その原動力は何だったのでしょうか。それは身内や多くの家臣を戦で失ったことだと思います。
まず、家康の長男・信康は信長からの命を受け、家康が自刃させました。その母親であり、正室である築山殿(つきやまどの)も武田信玄側と内通していた容疑で、殺されました。通説では、織田信長の命を受けた家康が2人を処罰したといわれていましたが、現在は家康自らが率先して成敗したという説もあり、見解が分かれます。いずれにしろ家康は長男と正室を一度に亡くしました。
家康が信玄に大敗を喫した三方原の戦いでは、家臣の1割に当たる約800人を失いました。家康自身も、三河一向一揆の際に銃弾を2発受け、生きるか死ぬかの思いをしています。
17歳から74歳まで、合戦に明け暮れた家康は、おそらく早い段階から、「どうすれば戦のない世の中にできるか」を考えていたのでしょう。そして、関ヶ原後は、断固たる意志を持って実行していったのです。
また、徳川の世が長く続くための策も考えていました。家康には生涯で15人ほどの側室がいました。戦国大名では明智光秀や黒田官兵衛など側室を持たなかった人物もいるので、家康の側室の数はかなり多いほうです。そして、確実に世継ぎを産んでくれるように、一度誰かに嫁いで子どもを産んだ経験があり、未亡人となった女性を選んでいました。
豊臣秀吉は深窓の令嬢ともいうべき姫を側室に選び、名誉欲を満たしていましたが、家康は確実に世継ぎを残せる女性を選んだのです。女性の側から見れば、未亡人から家康の側室になれば、第2の人生が花開くわけですから、一生懸命に尽くしたことは想像に難くありません。子宝に恵まれたかどうかも、豊臣と徳川の明暗を分けた一因といえるでしょう。
また、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家、田安・一橋・清水の御三卿といった制度も、徳川家から将軍を出し続けて政権を永らえる、非常に考えられた制度だと思います。歴史的に有名な将軍を見ても、8代将軍・徳川吉宗は紀州から、最後の将軍・徳川慶喜は水戸から出ています。
平和な世の中が続いてほしい、家族が安心して暮らせるようにというのは、誰もが共通する願いです。家康の生涯は、現代を生きる私たちにとっても学び多いものだと思います。
取材・文/三浦香代子 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 撮影/木村輝