法律を知れば、見える景色がきっと変わる。町中やビジネス、話題のニュースなど、私たちの日常にひそむ「ふしぎな法律」。そのモヤモヤを解き明かしていきます。今回は、ニュースでよく耳にする「あのセリフ」の真偽について。「訴状が届いてないのでコメントできない」って、言い訳じゃないの? 弁護士描き下ろしのイラストも添え、『世にもふしぎな法律図鑑』(中村真著/日本経済新聞出版)から抜粋・再構成してお届けします。
訴状、常に届いてなくない?
社会的に注目度の高い事件では、原告が「本日、私○○は、××に対して名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を東京地方裁判所に提起いたしました」などと発表し、それがニュースで大きく取り上げられることがあります。
訴状が提出されたという情報は、わざわざ原告が言わなければ分かりません。こうした場合、原告には「報道を通じて社会を味方につけたい」という思惑があります。関係者の固有名詞をマスキングした訴状写しがメディアに配布されることも少なくありません。
訴訟が提起されたとの情報を得たメディアは、その事件のニュースバリューが高いと見るや、被告と名指しされた個人や団体の元へこぞって駆けつけ、「訴えられたみたいですが今のお気持ちを」とマイクを向けることになります。
ところが、こうした場面で被告は「訴状が届いていないのでコメントできない」と答えるのが様式美のようになっています。こうした、芸のない紋切り型の答えが好んで用いられるのはなぜでしょうか。
実際、送達までには時間がかかる
訴状は、受理した裁判所の書記官が被告に送達するものとされており、原告は被告に訴状を直接送ることができません。このため原告は被告用の訴状の副本も併せて裁判所に提出するわけですが、実際にこれが被告の元へ届けられるまでには結構な時間がかかります。
受け付けた裁判所では、その事件に番号をつけ、審理をする部・係に配点し、書かれている内容を精査します。法律家が作る訴状に間違いなどなかろうと考える人は裁判所の中にはただの一人もいません。
事実、誤記や計算間違い、法律で定める記載事項の漏れなどはかなり多く、ひどいときには原告と被告を逆に書いている訴状もあるくらいです。裁判所は、うんざりした態度をできるだけ表に出さずに、そうした間違いや問題を修正するように原告に指示します(これを「補正の促し」といいます)。そして、訴状の記載に必要な修正・変更が行われ、第1回期日の日程が決定されて、ようやく訴状の副本が被告の元に送達されるというわけです。
訴状の提出から被告への送達までの期間はまちまちで、早ければ1~2週間ほどですが、訴状の全体を通じて大がかりなミスや問題があると、フルモデルチェンジに近い抜本的な修正が必要になり、訴え提起から1~2カ月たってようやく被告の手元に届くということもあるくらいです(その送達が遅延している期間も原告が請求している限り遅延損害金は発生し続けますから、待たされる被告の心境は複雑です)。
「いったん出し直し」は許されない
あまりに間違いがひどい場合はいったん取り下げてきちんと書き直し、再度提出すればよさそうなものですが、訴状を出した時点で受付印が押されますし、取り下げると訴え提起による時効完成猶予の効果も消えてしまいます。そのため、どれだけ誤記・脱字・誤計算をちりばめ悪文を極めた訴状であっても、取り下げることなく、柱と屋根を除いた全面的なリフォームを施して生かそうとするのが普通です。
その結果、被告の手元に来たときには、記者発表で配布された訴状写しと似ても似つかない内容だったということもありうるのです。

「防御は最大の防御」である
当事者間での交渉が決裂したためにやむなく裁判に至るというケースが圧倒的に多いので、お互い、相手が裁判でどのような主張をしてくるかは、訴状や答弁書を見ずともある程度予想がつくのが普通です。
とはいえ、裁判所の補正の促しによって、実際に送達された訴状の内容が当初の内容から大きく変貌を遂げていることもありますから、メディアにコメントを求められた被告としても、配布された訴状写しだけを手がかりに不用意に答えることはできません。また、そうするメリットもありません。
そうした事情から、マイクを向けられた被告としては、「訴状が届いていないのでコメントできない」と返すのが、最も美しく、隙のない、完成された守りの回答になるというわけです。
訴状が届いてから取材すればよいのでは?
ここでふと頭をよぎるのは、「メディアもわざわざ取材に行くのなら、訴状が送達されたタイミングで行けばいいのに」ということです。ニュースの鮮度を気にしなければ、至極真っ当な疑問であるように思えます。
もっとも、仮にその段階で取材に来られても、被告の多くは「訴状の精査ができていないためコメントできない」「今後、裁判手続の中でしっかりと主張していきたい」と答えるのが関の山ではないかという気もします。
メディアを通じて世論や社会的評価を味方につけたい原告に対し、被告はそうした場外乱闘を避け、ニュースの陳腐化を待ちつつ訴訟手続の中で粛々と冷静に対処することが利益となるというケースが多いからです。
原告が訴訟提起の記者発表をする事案には、いわゆる政策形成訴訟のように、訴訟提起の事実を大々的にアピールすることが有益・効果的なケースがある一方で、訴訟での主張立証上必ずしも有利でない状況に置かれており、訴え提起後、続報がないままひっそり請求棄却や敗訴的和解で終わるケースも見られます。
(職権送達の原則等)
第98条1項 送達は、特別の定めがある場合を除き、職権でする。
2項 送達に関する事務は、裁判所書記官が取り扱う。
中村真著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)
