「ビジネスと人権」という言葉が日本社会に浸透してきていますが、そもそも「人権」とは何を指すのでしょうか。意外と説明できない「企業と人権」の関係について、日本政府の「ビジネスと人権」に関するガイドラインの立案に携わった塚田智宏弁護士が解説します。塚田氏が執筆した入門書、日経文庫『ゼロから学ぶ ビジネスと人権』から抜粋・再構成してお届けします。

そもそも「人権」とは

 人権は、本来、国家による行動に制限を課し、市民一人ひとりの自由や権利を保障するものです。なぜ、国家ではない(私人である)企業に、その事業活動において人権を尊重する(侵害しない)ことが求められるのでしょうか。そもそも「人権」とは何か、そして、なぜ企業に人権を尊重することが求められるのかを解説します。

 そもそも「人権」とは何でしょうか。今の日本社会では、「人権」に意味があるのか実感を持たないビジネスパーソンが多いかもしれません。しかし、私たちの「当たり前」の生活は人権なくして維持できません。

 例えば、自らの思いや考えを好きなようにSNS(交流サイト)で発信すること(憲法21条)、自らの望む職業に就くこと(憲法22条)、自らの選んだ場所に住むこと(憲法22条)は、今日の日本社会では「当たり前」のことですが、こうした日常は、憲法が人権を保障しているからこそ「当たり前」であり続けることができています(図表1)。

図表1 人権により保障される私生活の例
図表1 人権により保障される私生活の例
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 例えば、かつてハンセン病患者を本人の意思にかかわりなく強制的に隔離できるようにする法律が制定・施行され、ハンセン病患者には、子どもを生ませないための断種手術や中絶手術がほとんど強制的に行われていたとされています(国立ハンセン病資料館ウェブサイト)。こうした場面において、人権(身体の自由)は、強制隔離といった侵害行為を止めるための権利です(図表2)。

 大病なく健康の大切さを理解することが容易ではないように、自らの人権が危険にさらされていない状況で人権の意義を真に理解することは難しいかもしれません。しかし、国内外で人権リスクは無数に存在しています。

図表2 「当たり前」の日常を守る権利としての人権
図表2 「当たり前」の日常を守る権利としての人権
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 人権は、「全ての人々が生命と自由を確保し、幸福を追求する権利であって、人間が人間らしく生きる権利であるとともに、生まれながらに持つ権利」とされるとおり(人権尊重ガイドライン1項)、「当たり前」の日常を保つために必須の権利であるのです。

ビジネス上の全関係者の人権を尊重する

 前述のとおり、人権は、元来、私たち市民が国による干渉を排除する権利(自由)と捉えられていました。しかし、企業が社会において大きな役割を果たすようになるにつれ、国家ではなく企業が人々の人権を危険にさらす場面が増えてきました。こうした中で、企業(ビジネス)と人権の関係について議論をする必要性が高まっていきます。

 「ビジネスと人権」(business and human rights)は、後述する国連指導原則の文脈では、企業がその事業活動全体(製品の原材料の調達から販売・消費に至るまでの一連の流れであるサプライチェーンを含む)を通じて人権を尊重する(侵害しない)ことを意味します。

 ポイントは、サプライチェーンを含む「事業活動全体を通じて」というところです(図表3)。すべての企業が他社と協働して製品・サービスを生み出し、それらは消費者によって消費されますが、そうした活動に関連するすべての関係者を含めて、人権侵害が起こらないように取り組む必要がある点が「ビジネスと人権」の本質です。

図表3 サプライチェーンのイメージ図
図表3 サプライチェーンのイメージ図
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 他方で、サプライヤー(仕入れ先や供給元のこと)を含めて資本関係にない第三者の意思決定や行動を、自社が常にコントロールできるわけではありません。にもかかわらず、「ビジネスと人権」の概念の下では、第三者による人権侵害について自社も責任を問われることになります。

 これはなぜでしょうか。このことを理解するために、「ビジネスと人権」を考える上で最も重要な国際文書である国連「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下「国連指導原則」といいます)の成立の背景に遡って見ていきましょう。

国連指導原則の誕生

 国連指導原則は、2011年に国連人権理事会において全会一致で支持された、企業の人権尊重責任(すなわち、企業はサプライチェーンを通じて人権を侵害しないようにする、言い換えれば、人権DDを実施する責任を負うこと)を初めて明記した国際文書です。

 誕生の背景の一つには、20世紀後半のいわゆる搾取工場(sweatshop)に対する批判と反省がありました。例えば、アパレル産業では、先進国で販売される多くの製品の製造がアジアをはじめとする発展途上国のサプライヤーに委託されてきましたが、そうしたサプライヤーにおいて、不当な労働条件(例:低賃金や適切な保護具のない危険な労働環境)の下、労働者が(時にその意に反して強制的に)働かされたり、学校に通うべき年齢の児童が労働に従事させられたりするといった事態が生じていました。

 多国籍企業が経済合理性の観点から製造コストの安い発展途上国に低価格で製造工程等をアウトソースする中で、そうした発展途上国における人権保護のための法制度の脆弱さとあいまって、労働者に深刻な人権侵害が発生してしまっていたのです(図表4)。

図表4 国連指導原則の成立の背景
図表4 国連指導原則の成立の背景
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 こうした課題は、発展途上国の政府やサプライヤー企業の問題ではないかという指摘もありますが、人権保障のための法制度が脆弱な発展途上国や経済的なリソースに乏しいサプライヤーに対応を委ねていては解決が難しい問題でした。加えて、多国籍企業の購買価格・外注コストの低さが、サプライヤーにコスト削減の大きな必要性を生じさせ、結果としてサプライヤーの労働者の賃金が低額に抑えられたり、また、児童や外国人を搾取したりする労働慣行が生じてしまうとも考えられていました。

 こうした状況を踏まえ、国連の場で長期にわたって議論が行われ、最終的に、2011年、企業に対して、そのサプライチェーンを通じて人権を侵害しないように対処する責任を課す国連指導原則が成立したのです。

発展途上国のサプライヤー企業の労働環境が問題になってきた(写真はイメージ)(写真:Frederick/stock.adobe.com)
発展途上国のサプライヤー企業の労働環境が問題になってきた(写真はイメージ)(写真:Frederick/stock.adobe.com)
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これからの社会では特に、時代に適合した人権感覚を持つことはビジネスパーソンにとって必須と言えるでしょう。「自社の取り組みをどこから始めよう?」と考えたとき、最初に読むのに最適な入門書。

塚田智宏著/日本経済新聞出版/1430円(税込み)