「ビジネスと人権」という言葉が日本社会に浸透してきていますが、自分の会社には関係がないと思っている人も多いでしょう。しかし、これからは、すべてのビジネスパーソンが人権課題を他人事としてではなく自分事として捉えることが必要です。企業に人権を尊重する責任が求められる理由について、国内外の企業の事例も踏まえつつ、日本政府の「ビジネスと人権」に関するガイドラインの立案に携わった塚田智宏弁護士が解説します。塚田氏が執筆した入門書、日経文庫『ゼロから学ぶ ビジネスと人権』から抜粋・再構成してお届けします。

人権尊重の取組が求められる理由とは

 前回解説した通り、国連指導原則は、特にいわば先進国と発展途上国との間の格差に起因して頻繁に生じ得る、多国籍企業のサプライチェーンにおける深刻な人権リスクを是正しようとしたものです。この目的を達成するために、国連指導原則は、サプライチェーンを通じて人権を侵害しないよう人権DD(デュー・ディリジェンス)を行う責任を企業に課しました。

 企業は、この責任を果たすために人権DDを実施する必要がありますが、そうした理由付け(のみ)では、企業社会から十分な理解を得られない場面もあります。端的には、深刻な人権リスクは深刻な経営リスクに直結し得ることから、持続可能な形でビジネスを継続していくために(言い換えれば、自社の利益のために)人権DDが必要であるといえます。

 企業がビジネスを行う際に人権を尊重すること(侵害しないこと)は、いわばSocial License(操業の社会的認可)とも呼ばれることがあります。これは、企業が深刻な人権侵害を起こし続けるような状況は、社会が許容せず、その結果として、法的な許認可の問題が生じるか、仮にそうではないとしても、企業のレピュテーションが毀損し最悪のケースでは事実上事業の廃止を余儀なくされる事態に陥る可能性があることを指しています(図表1)。

図表1 人権リスクに起因する様々なリスク
図表1 人権リスクに起因する様々なリスク
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 結局のところ、ビジネスも、その製品・サービスを購入し消費する消費者はもちろんのこと、原材料を供給するサプライヤー、その他の関係者から構成される「社会」との関わりの中で成立しています。そうした「社会」からの信頼を得られなくなったビジネスは、持続的に存続することができないといえます。

 このことは、次に紹介する赤道原則やレスポンシブル・ケアの発展からも示唆されています。人権尊重や環境保護の取組を積極的に進めるリーディングカンパニーは、国内外を問わず、持続可能な形でビジネスを続けることが究極的には自社の利益にもつながっていることを理解していると筆者は考えています。

金融機関における赤道原則:三菱UFJ銀行

 国連指導原則の成立前の2003年、民間の金融機関は、その採択金融機関が一定規模以上のプロジェクトファイナンス等の一定のサービスを提供する際には、その顧客に対して環境・社会配慮(環境・人権DD)を要請する赤道原則(Equator Principles)を採択しました。その背景には、国連指導原則同様に、大規模プロジェクトが環境・社会に対して深刻な負の影響を与えてきた歴史がありました。

 その例として、インド北西部を流れるナルマダ川に、灌漑(かんがい)や発電等に用いられる多目的の巨大ダム及び運河を建設する、世界銀行等が融資を行った「サルダル・サロバル・プロジェクト」が挙げられます。このプロジェクトは、4万世帯超、約20万人の住民移転を伴うものであったものの、移転を余儀なくされた住民とインド政府との間で、移転・補償問題に関して事前に十分な話し合いが実施されず、わずかな金銭補償で強制的に立ち退きが行われ、インド政府だけではなく融資を行った世界銀行に対しても非難の声が上がったというものでした(みずほ銀行・三菱東京UFJ銀行・三井住友銀行『 実務解説 エクエーター原則/赤道原則 プロジェクト融資の環境・社会リスク管理 』(一般社団法人金融財政事情研究会/2016))。

 例えば、株式会社三菱UFJ銀行(以下「MUBK」といいます)は、赤道原則が策定された2003年6月から間もない2005年12月、赤道原則に署名した後、MUBKの社内規程の一つとして、赤道原則の内容を踏襲した「赤道原則運用ガイドライン」を制定し、赤道原則に基づく取組を進めてきました。

 MUBKの営業部門は、赤道原則の適用可能性がある案件を検討する際に、チェックシートを作成し、経営企画部サステナビリティ企画室環境社会グループ(以下「環境社会Gr.」といいます)に提出し、環境社会Gr.が赤道原則に基づいてその適否を判断します。

 そして、赤道原則適用対象案件については、環境社会Gr.が環境・社会レビューを行います。具体的には、環境・社会に対する潜在的なリスクと影響の程度に応じてプロジェクトにカテゴリーを付与するとともに、カテゴリーに応じて要求される環境・社会配慮が顧客によって実施されているかを確認します。その結果の共有を受ける与信所管部は、環境・社会レビューの結果を考慮した上で与信判断を行うこととなります(図表2)。

図表2 MUBKによる環境・社会配慮確認の体制・仕組み
図表2 MUBKによる環境・社会配慮確認の体制・仕組み
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 このように、国連指導原則の成立(2011年)前から、赤道原則を採択した日本の金融機関は、顧客における環境・社会配慮(環境・人権DD)に取り組んできています(MUBKによる赤道原則に基づく取組の詳細は、同行の「赤道原則 プログレスレポート」<2025年4月>において整理されています)。

 以上の取組を含め、株式会社三菱UFJフィナンシャル・グループによる「ビジネスと人権」の取組の例は、拙稿「『ビジネスと人権』 実務から理解する取組のエッセンス 第7回 株式会社三菱UFJフィナンシャル・グループ」(NBL1288号78頁)において紹介しています。

化学業界におけるレスポンシブル・ケア

 国連指導原則の成立の背景にある事案の一つとして、インド・ボパールにおける化学工場での事故が挙げられます。多国籍企業がインドにも子会社を設置して農薬の製造等を行っていましたが、その工場から高毒性の化学物質が漏出する事故が発生しました。

 死者は数千人、負傷者は50万人を超えるとされ、現地ではこの事故に起因すると疑われる子どもの先天性疾患も生じていると指摘されています(この事故の詳細は、『ボーパール午前零時五分(上)(下)』<ドミニク・ラピエール、ハビエル・モロ著/長谷泰訳/河出書房新社/2002年>を参照ください。)。

 ボパールにおける化学工場での事故をはじめ、化学産業が人々の生命や健康に大きな影響を与えてきた背景の下、1985年、カナダ化学工業協会は「レスポンシブル・ケア」を立ち上げ、現在では世界中で多くのグローバルな化学製品製造企業がレスポンシブル・ケア世界憲章に署名するに至っています。

 このレスポンシブル・ケア世界憲章によれば、レスポンシブル・ケアとは、「化学製品をライフサイクルにわたって安全に管理し、化学製品によって生活の質の改善や持続的発展に貢献するために、世界の化学産業が統合的に推進している活動」とされています(日本化学工業協会作成の邦訳より引用)。

 そして、レスポンシブル・ケアでは、図表3の要素を含む倫理基準が採用されています。このような内容を踏まえると、レスポンシブル・ケアは、国連指導原則同様に、企業の(社会的)責任を法律の(形式的な遵守)にとどめず、またサプライチェーン全体にわたって取り組むべきものとして拡大していると考えられます。

図表3 レスポンシブル・ケアの倫理基準(一部)
図表3 レスポンシブル・ケアの倫理基準(一部)
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持続可能な形でビジネスを展開することは、ひいては自社の利益にもつながることを理解しておきたい(写真:SHOKO/stock.adobe.com)
持続可能な形でビジネスを展開することは、ひいては自社の利益にもつながることを理解しておきたい(写真:SHOKO/stock.adobe.com)
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これからの社会では特に、時代に適合した人権感覚を持つことはビジネスパーソンにとって必須と言えるでしょう。「自社の取り組みをどこから始めよう?」と考えたとき、最初に読むのに最適な入門書。

塚田智宏著/日本経済新聞出版/1430円(税込み)