広島G7サミットの前日2023年5月18日、東京・永田町の首相官邸に次々と到着する世界の半導体トップ企業の重鎮たち。日本は彼らにどのような要請を行ったのか。日本の魅力とは何か。半導体企業誘致を急ぐ日本の思惑を明らかにする。『2030 半導体の地政学[増補版] 戦略物資を支配するのは誰か』(太田泰彦著/日本経済新聞出版)から抜粋・再構成してお届けする。
首相官邸に集った半導体トップ企業の重鎮
1人、2人、3人……。広島で開いたG7サミットの前日2023年5月18日、永田町の首相官邸に次々と到着する外国人の姿があった。
台湾積体電路製造(TSMC)会長の劉徳音(マーク・リュウ)、インテル最高経営責任者(CEO)のパット・ゲルシンガー、マイクロンCEOのサンジェイ・メロトラ、サムスン電子のCEO慶桂顕(キョン・ゲヒョン)、アプライドマテリアルズ半導体部門の社長プラブ・ラジャ……。世界の半導体トップ企業の重鎮たちである。
岸田文雄首相との車座の会合は、当日まで秘され、各社のCEOらは隠密で来日していた。日本政府は首相との電撃的な会合を演出し、世間を驚かせたかったのだろう。これほどの面々が一堂に会する場面は今までに見たことがない。全員が並んで撮った記念写真は、確かに壮観だ。
政府は米台韓欧を代表する企業を説得し、多忙な経営者たちに無理を頼んで訪日の時間を割いてもらった。G7の議長国の役目は7年に一度しか回ってこない。広島サミットは半導体をめぐり日本の存在感を内外に示す絶好のチャンスだった。
一方、企業の側にも岸田と会うべき理由があった。日本の国内に投資して工場や研究施設を設ければ、補助金や優遇税制などで日本政府に厚遇してもらえるかもしれない。現に熊本に進出した台湾のTSMCと、広島に工場がある米国のマイクロンは、巨額の補助金を手にしているではないか。
この2社にならわない手はない。折しもの円安。いまこそが日本に乗り込む時だ。各社は日本への投資拡大を経営戦略に組み入れていた。
会合の後に岸田は記者団にこう語った。
「本日は、半導体やコンピューティングに関する海外トップ企業のみなさま方から、日本企業と連携した投資、あるいは次世代半導体開発への協力、こうしたことにつきましてご説明いただきました。貴重なお話を聞かせていただきましたことに、心から感謝申し上げます」
だが、この部分は会談の意味の半分しか表していない。企業の側から岸田に「説明」しただけでなく、岸田の側も対日投資への「期待」を伝えたからだ。いや、期待というより依頼というべきかもしれない。
会談は大きなテーブルを置いた会議室で開かれた。CEOたちの側から見て岸田の左に座ったのが官房副長官の木原誠二。ギョロリとした目で訪問者のCEOたちをにらみつけるかのような表情だ。補助金を求める企業の陳情を「聴取する」という気持ちがあったのだろうか。
対照的に、岸田の右側に座った経済産業相の西村康稔は、身を乗り出してCEOに語りかけるような様子だった。こちらは何としても日本に来てほしいという外国企業に対する願望の表れだといえる。
たとえ外国企業であろうとも、日本の国内で生産や研究開発をしてくれるのであれば、政府として支援を惜しまない。日本の経済安全保障を高めるには、外国企業の対内投資が欠かせない。西村はそう考えていたに違いない。
木原と西村のどちらかが正しいというわけではない。外国企業は日本政府からの優遇を受けたい。日本政府は外国企業に来てほしい。両方とも真実だ。どちらの側にも与えるものがあり、どちらの側にももらいたいものがある。日本政府と外国企業、それぞれの期待が交じり合った官邸での半導体サミットは、日本の立ち位置を象徴的に表していた。
インテルの計算
では、企業の目には岸田の姿はどう映っていたのだろう。岸田の真正面に座ったサムスン電子CEOの慶の姿が印象的だった。慶は居ずまいを正し、背筋を伸ばして岸田の言葉に耳を傾けていた。サムスンはこの時点で神奈川に研究開発の拠点を置き、次世代の半導体チップを開発する試作ラインを新設することを決めている。投資額は300億円から500億円にのぼるとみられる。このうち100億円以上を日本政府が支援するとささやかれていた。サムスンと日本政府のディールは、官邸での会合の際には既に実行段階に移っていたということだ。
一方、半導体で世界の雄であるインテルのCEOゲルシンガーは、複雑な表情をしているように見えた。同社は日本の半導体工場の買収計画を進めてきたが、ここにきて雲行きが怪しくなっていたからだ。
インテルはイスラエルの半導体メーカー、タワーセミコンダクターを傘下に収めることで2022年2月に同社と合意していた。買収金額は約54億ドルにのぼる。円に換算すると8100億円を超える大型買収である。
タワーのビジネスモデルは、規模こそ異なれTSMCと同じような半導体を受託製造するファウンドリーである。そのタワーは、実は日本国内に2つの生産拠点を持っている。かつてはパナソニックのものだった富山県の魚津市と砺波市の工場だ。
日本の半導体産業が衰退した時期、多くのメーカーが外国企業に半導体事業を売り渡した。パナソニックも例外ではない。2つの工場は2013年にパナソニックからタワーに譲渡され、いまそれをインテルが手にしようとしている。
インテルはゲルシンガーCEOの決断で、自己完結型のビジネスモデルを軌道修正し、他社から受託製造もするファウンドリー事業に大きく舵(かじ)を切っていた。
日本国内に製造拠点を持ちたいのは、自動車メーカーという巨大な顧客がいるからだ。自動車には1台当たり数十個、高級車では100個の単位で半導体チップが使われているという。自動車の生産台数といえば、トヨタ自動車1社だけを見ても2023年9月の時点で累計3億台。このうち半分以上が日本国内で製造されている。日産、ホンダ、マツダ、スズキなどと合わせれば、とてつもない数の車載用チップの需要が日本にある。
これから電気自動車(EV)が普及すれば、さらに大きな市場が生まれるだろう。パナソニックの技術の流れをくむタワーの工場を手中に収めれば、車載用チップの市場で日本のトップに立てる。ゲルシンガーはそんな皮算用をしていたはずだ。
日本進出頓挫の陰に中国
インテルとタワーの話し合いはとんとん拍子に進んでいるかに見えたが、合意から1年半後の2023年8月になってタワーが一方的に買収契約を解除することになる。この結果、インテルは3億5300万ドルもの違約金をタワーに支払う羽目に陥った。タワーの声明によると「必要な規制当局の承認についてインテル側から何の返答も得られなかった」のが破談の理由だ。
ゲルシンガーが官邸に呼ばれて岸田に会ったのは、買収計画が頓挫する3カ月前。計画の先行きには既に暗雲が垂れ込めていたはずだ。ゲルシンガーの表情がさえなかったのは、日本への進出が思い通りにいかないいら立ちがあったのではないだろうか。
インテルが日本進出に失敗した本当の理由……。陰の主役は中国である。
壁は中国の独占禁止法にあった。市場が特定の企業に支配される恐れがないかを調査する中国の独占禁止委員会が、インテルの計画が不当であると判断し、同社に買収を認めないと通告したとみられている。
買収される側のタワーは、中国を名指しこそしなかったが、声明に記した「必要な規制当局の承認」とは中国の独禁当局の承認にほかならない。日本を舞台とする米国とイスラエルの会社の買収案件に、第三国である中国がなぜ口を挟めるのか。その仕組みには若干の説明が必要かもしれない。
特定の企業が市場を独占すれば、価格やサプライチェーンを支配する力を握ることになる。そうならないように健全に市場原理を機能させるのが、いわゆる競争政策。つまり独占禁止の考え方だ。土台となる法律の名前は国によって様々で、日本では独占禁止法、米国では反トラスト法と呼ぶ。
中国は建前のうえでは共産主義の国だが、2007年に独占禁止法を公布し、その後、改定を重ねて市場調査や執行機関の力を拡充してきた。
もちろん中国の独禁当局が目を光らせ、法を執行できる範囲は、中国の国内市場に限られる。しかし、中国に製品を輸出する企業が中国の市場で独占的な地位に立つことは決して許さない。
仮にインテルが中国の独禁当局の判断を無視してタワーを買収すれば、どうなっただろう。インテルは1個たりとも中国で半導体を売れなくなるはずだ。
一方、企業にとっては中国の市場を失うという選択肢はありえない。つまり中国は、外国企業同士の買収や合併であろうと、それを差し止める事実上の拒否権を握っている。
おそらくインテルは中国政府との交渉に失敗した。見返りとなる中国への“お土産”を用意できなかったからだという見方もある。中国はインテルによる市場支配を恐れていたのか、あるいは日本、米国、イスラエルが半導体を通して連携するのを阻止しようとしたのか……。
日本は投資に値する場所か
23年5月18日、昼。米欧韓台の企業のCEOたちは官邸を出ると、来た時と同じように姿を消し、何事もなかったかのように自分の国に帰っていった。この会談に関する企業の発表やコメントは報じられていない。
日本は現代の戦略物資である半導体を生産する場所にふさわしい――。CEOたちは投資先としての日本の魅力を感じたに違いない。
だが同時に、顔色がさえないゲルシンガーの様子を見て、日本のすぐ隣にそびえ立つ中国の影に恐怖感も抱いたのではないだろうか。サムスンが神奈川に研究開発拠点を置く程度なら問題は起きないが、インテルのように製品の大量生産をもくろめば、中国は直ちに牙をむいてくる。東京には中国が放つ妖気が漂っていた。
中国は軍事力だけでなく、独占禁止法という最終破壊兵器を持っていた。2007年から駆け足で独禁法の国内法制を築いてきた理由の一つは、第三国での合併・買収に法的に「ノー」と言える拒否権を握るためだったのかもしれない。外から見える形で法律をつくれば、恣意的ではなく透明なルールに照らした判断だといって買収案件を阻止できるからだ。中国の独占禁止法――。それは伝統的な地政学の死角だった。
太田泰彦著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)


