次世代チップ開発を目指す新会社ラピダス(Rapidus)を電光石火のごとく設立した日本。ラピダスはIBMの技術を使って、未到の2ナノ半導体の量産に挑む。日本の半導体のカギを握る新会社ラピダス設立の舞台裏に迫る。『2030 半導体の地政学[増補版] 戦略物資を支配するのは誰か』(太田泰彦著/日本経済新聞出版)から抜粋・再構成してお届けする。
地下鉄の乗客は幸せなのか
「地下鉄に乗って座ると、向かい側に何人います?」
普通につめて座れば7人でしょうか。
「で、その7人は何をしていますかね」
みんなスマホをのぞき込んでいますね。スマホを見ていない人の方が少ないですね。
「そうでしょう。では、その人たちは幸せな顔をしていますか?」
きょうは半導体の技術が話題なのに、ラピダス社長の小池淳義は、おかしな質問を投げかけてくる。半導体が人の幸せの話にどうつながるのだろう。だが、小池はなぞ解きの冗談を言っているのではない。真剣な目で、こちらの答えを待っている。
そう言われてみれば、東京の通勤電車で会う人たちは、みな無表情で疲れた顔をしている。スマホの世界に没入して、まわりに気持ちが向いていない。お年寄りが前に立っても、気がつかない人もいる。リラックスして窓の景色を眺める人も少ない。幸せかと問われれば、確かに幸せそうな顔の人は多くないかもしれない。
「それは半導体のせいなんです」
小池はそう言って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
技術が進み、半導体チップが小さく、高機能になったおかげで、スマホの性能は上がった。友達といつでもつながっていられるし、ネット検索もできる。買い物の支払いや銀行口座への振り込みもできる。写真も撮れるし、ビデオ通話もできる。スマホの登場で、人々の暮らしが格段に便利になったのは間違いない。
しかし、その半導体の進歩で、果たして人間の幸福度は上がっただろうか。小池が問いかけているのは、半導体の機能をどれだけ高めるかではない。半導体が社会を豊かにできるかどうかである。
「これまでの価値観で半導体の技術をいくら高めても、私はそんなのはダメだと思いますね」
2ナノ半導体量産に込めた意味
ラピダスは2022年11月に設立された日本の半導体メーカーだ。世界で誰も到達していない2ナノメートルという超微細加工の量産技術を確立し、顧客となる企業から受託してカスタムメイドのチップを製造することを目指す。社長は日立出身の小池、会長には東京エレクトロン元会長の東哲郎が就いた。既に日本政府が数兆円の規模で補助金を注ぎ込む路線も決まっている。
小池の言葉を借りれば、「とんでもない製品やサービスを構想する顧客企業と一緒に考えて、その夢を実現するためのチップを創造する」のが、ラピダスが目指す会社像だ。「とんでもない製品」とは、それによって便利になるだけでなく、人間が本来持っている能力や価値を引き出す工業製品のことを指す。だが、それがどのようなものであるかは、まだ分からない。
突然、国産半導体の新会社が姿を現したことに世間は驚いたが、その奇想天外な経営方針は、半導体の技術を知る人々をもっと驚かせた。3年後の2025年4月までに試作ラインを完成し、27年の初めには量産に入るのだという。
現時点の日本のメーカーの技術レベルは、ようやく28ナノあたりにたどり着いた程度である。いきなり2ナノの地点に跳躍するのは夢のような話ではないか。世界の最前線にいる台湾積体電路製造(TSMC)とサムスンですら、実用化しているのは3ナノである。
とはいえラピダスは実は2ナノの技術をゼロから開発するわけではない。米国のIBMから技術を買って、それを土台に量産を目指す。ラピダスは会社設立の直後から、IBMの研究拠点があるニューヨーク州のアルバニーに100人単位でエンジニアを送り込んでいる。最先端の技術を習得するためだ。
IBMは半導体メーカーではない。研究はするが自分ではつくらない。2ナノで微細な回路を形成する新しい手法の開発に研究室レベルでは成功したものの、実際に製品にできるかどうかは未知数だ。
新技術を世に送り出すためにはモノをつくるメーカーと組む必要がある。それがラピダスだった。
ここにラピダス構想の2面性がある。日本の側から見ると、半導体産業の復興をかけて新会社をつくった。高度な加工に必要だから技術をIBMから持ってくる、という構図になる。
しかし米国の側から見ると、逆転した景色になる。メーカーではないIBMのビジネスモデルの特徴は、製品ではなく技術そのものを売る点にある。つまりIBMの商品は知的財産権である。
IBMは2020年に、開発した2ナノの技術を買ってくれる相手を探していた。その時に手をあげたのが、まだ会社として誕生する前のラピダスだった。これは、IBMにとってラピダスが第1号の顧客になったことを意味する。
2ナノ技術の売り先は、日本のラピダス以外にも候補となる企業があったというが、IBMの技術開発部門のトップであるジョン・ケリーと、東京エレクトロンの東哲郎との縁が決め手となった。ケリーと東は長年の友人同士である。
9・11テロが生んだ縁
「恩返しの気持ちがあったのだと思う」
ラピダス設立に至る経緯を振り返り、東はこう述懐する。
話は米国で同時多発テロが起きた2001年9月11日にさかのぼる――。
当時のニューヨーク州知事ジョージ・パタキは、9・11のショックに打ちひしがれていた州に新たなハイテク産業を起こしたかった。そこでマンハッタンから車で2時間ほど北にある州都アルバニーに、半導体の微細加工技術を研究する一大施設をつくる構想を描いた。
ニューヨーク州に本社を置くIBMが協力することになり、先端技術を熟知するケリーがパタキと共に計画を練っていった。
だが、肝心のメーカー企業が集まらない。9・11が引き金となってITバブルが崩壊し、世界は米国発の深刻な不況に陥っていたからだ。
そこに「ひとつ手助けをしよう」と駆けつけたのが、東京エレクトロンの東だった。こうしてテロの翌年の2002年、ニューヨーク州、IBM、東京エレクトロンの3者が中心となり、「アルバニー・ナノテク・コンプレックス」が発足。それ以来、この地が米国の半導体研究の中心地となる。
ニューヨーク州は州都にハイテク拠点を築くことができた。世界から人材と知見が集まり、その中心にIBMが座った。東京エレクトロンは、アルバニーを舞台に多くの半導体企業と関係を深めることができた。9・11が生んだ縁だった。
2ナノ技術を使ってみないかとケリーから打診を受けたとき、東は即座に「日本の半導体産業が復活する最後のチャンスだ」と思ったという。千載一遇のIBMからの提案を逃すわけにはいかない。
IBMの技術供与は、アルバニーの拠点建設に恩を感じていたケリーから東への恩返しかもしれない。あるいは、アルバニーのおかげで世界にネットワークを広げられた東からケリーへの恩返しだったのかもしれない。
サプライチェーンの要衝になれるか
ラピダスは、カスタムメイドのチップを売る有望な顧客として、グーグルやマイクロソフトなど米国のGAFAMに狙いを定めている。膨大なデータを高速で処理するデータセンターが増え、そこに組み込まれる半導体チップの需要が級数的に増えると見ているからだ。
確かにChatGPTをはじめとする生成AI(人工知能)のクラウドサービスは、すさまじい勢いで普及している。21年から10年間で、世界のデータ通信量が30倍に増えるとの予測もある。
GAFAMが独自のクラウドサービスを打ち出すためには、自社のためだけの特注品の半導体がいる。とりわけAIチップの開発では、水面下で激しい競争が繰り広げられている。2ナノの微細加工でAIチップをつくる生産力を握れば、日本はサプライチェーンの要衝の一つになれるかもしれない。そう考えると、ラピダスは経済安全保障の戦略としての意味を帯びる。
経済産業省がラピダス構想に本腰を入れ始めたのは、ロシアがウクライナに侵攻した22年2月からだ。
起きるときには戦争は本当に起きる――。台湾の軍事的危機が現実となる恐怖感が、その時、霞が関を覆い始めていた。
それ以前の経産省は、熊本へのTSMC誘致で手いっぱいだった。東が経産省に構想を持ち込んだ際も、「二兎(にと)を追うわけにはいかない」と、あまり乗り気ではなかったようだ。だが、安全保障に関わる案件となると急がなくてはならない。最先端の半導体を日本国内でつくれることが、最重要課題となった。
東、小池の熱意と経産省の危機感が一体となり、会社設立と予算獲得までのシナリオが一気呵成(かせい)に進んだ。
この「ラピダス祭り」とも呼べる日本の熱気を、日米以外の第三国から眺めるとどうだろう。
台湾の工業技術研究院(ITRI)を訪ねた機会に、幹部に日本のラピダス構想への評価を尋ねてみた。ITRIはTSMCを誕生させた半官半民の研究開発組織である。そしてTSMCとIBMは、必ずしも関係が良好というわけではない。
ITRIの幹部は笑いながらこう言った。
「ラピダスという会社は、要するにIBMの工場でしょう?」
米国には半導体の核心を握り続ける戦略があり、その米国の手のひらの上で日本が踊っている。米軍と自衛隊の関係と同じようなものではないか――。
台湾の目にはそう映るのかもしれない。
ラピダスはIBMの技術を使って、未到の2ナノ半導体の量産に挑む。IBMはラピダスに対し、技術を「売ってあげた」のか、それとも「買ってもらった」のか……。その問いはコインの裏表にすぎず、どちらも真理だろう。
ただひとつ言えるのは、両社の提携が、米国の安全保障政策、そして日本の安全保障政策と合致しているということだ。
太田泰彦著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)


