人の意思決定の大半は、直感に委ねられている。こう指摘するのが、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの著書『 ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか? 』(村井章子訳/ハヤカワ・ノンフィクション文庫)です。この名著を、慶応義塾大学大学院経営管理研究科の清水勝彦教授が読み解きます。『 ビジネスの名著を読む〔戦略・マーケティング編〕 』(日本経済新聞出版)から抜粋。

システム1とシステム2の関係

 本連載ではカーネマンの(行動経済学の、と言ってもいいでしょう)集大成の著作『ファスト&スロー』を見ていきます。人間の非合理性に関する書籍は連載「 名著を読む『予想どおりに不合理』 」でも取り上げました。私がこれにこだわるのは、「正しいこと」は企業や個人の成功に「必要条件」ではあっても「必要十分条件」ではないと思うからです。

 「正しい戦略」を立案したのに上司らの協力が得られなかったり、「合理的な意見」を言っても分かってもらえなかったりした経験は多くの人がしているはずです。そうした不思議を理解し、組織を成功に導く「十分条件」に対するヒントが本書にあると思うのです。

 カーネマンは2002年にノーベル経済学賞を受賞しました。当時のアメリカ心理学会は「心理学が科学と認められた」といったプレスリリースをしています。彼が証明した意思決定にかかわるバイアス(先入観や偏見)は、「愚かな人間の問題」ではなく「普通の人間の性向」であることが公に認められたのです。

 タイトルの「ファスト」とは直感(システム1)を、「スロー」とは時間をかけて熟慮する知的活動(システム2)を指します。合理的で「考える葦(あし)」のはずの人の意思決定の大半は実はシステム1に委ねられています。その方がエネルギーを使わず効率的なだけでなく、「おおむね正しい」のです。が「時には決定的に間違っている」のです。

 その間違いをシステム2がチェックできればいいのですが、人間の注意力は有限なので簡単になくなってしまうのです。カーネマンはそれをやゆして「システム2は怠け者だ」と言います。

 システム1でも専門家が長年の訓練と経験で得た「直感」は別です。ただし、専門的直感が意味を持つのは一定の規則性のある事象に限られ、株などの予測ではあまり役に立ちません。ウソだと思われる方は、毎年1月上旬に日本経済新聞に掲載される予想を年末に確かめてみてください。

直感の間違いは気づきにくい

 システム1は、自動的に努力なしに発動します。一方でシステム2は怠け者です。結果として、システム1が間違いを犯しても、システム2が気づかないということが起こります。例えば次のような問題を考えてください。

 バットとボールは合わせて1ドル10セントです。バットはボールより1ドル高いです。ではボールはいくらでしょう?


 当然10セントだ!とひらめいた方、残念ながら間違いです。なんとなく直感でいくとそうなるのですが、だとすれば1ドル高いバットは1ドル10セントで合計1ドル20セントになるからです。

 「こんな簡単な問題、何言っているの?」と思うかもしれません。しかし実際の調査ではハーバード大学、マサチューセッツ工科大学、プリンストン大学という超エリート大学の学生の50%以上が直感的な答えを出した、つまり間違ったというのです。

簡単な問題でも、間違ってしまうことがある(写真/Shutterstock)
簡単な問題でも、間違ってしまうことがある(写真/Shutterstock)
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 何が問題かと言えば、ちょっと検算すればすぐ間違いだと分かるのにしないという事実です。システム2を少しだけ発動させればよいのですが、「簡単」と思う問題に対して私たちはそれをしないでシステム1に任せることが多いのです。そして、間違っていることにも気づかないのです。

 考えてみると、こんなことは結構ありませんか。会議をしたり、部下に指示を出したりするのも「ルーティン」になってしまって、ちょっと考えればもっといい指示ができるのにしないとか、部下の様子が変なのに気づかないとか。問題がどうしようもないくらい大きくなってから、振り返ると「そういえば」ということはないでしょうか。無意識のうちにシステム1に支配されていて何の疑問も持たないことは、日常生活でも、組織にでも多いのです。

人の注意力には限りがある

 注意力、意志力には限界があります。人によってその量は違っても、上限があることには変わりません。実際に、難しい仕事と簡単な仕事をランダムにアサインして、その終了後に「ケーキを何分待てるか」なんていう実験をすると、前者の方が待てないという結果が出ています。仕事で意志力を使い果たしたからです。

 また、本書ではイスラエルで行われた「仮釈放審査」の例が載せられています。8人の判定人の結果を見ると、「休憩直後の許可率が最も高く、65%の申請が認められた(平均は35%)。

 その後は次の休憩までの2時間ほどの間に比率は一貫して下がっていき、次の休憩直前にはゼロ近くになった」のです。疲れておなかのすいた判定人は、申請を却下するという安易な「初期設定」に走ったのです。

 これには2つの示唆があります。1つは、もし上司の許可を得ようとか、顧客企業に競合から当社に変えてもらおうと思っているのであれば、意思決定者の「注意力」あるいは「知的エネルギー」がちゃんと残っているタイミングを見計らうことが重要です。午前中最後とか、夕方遅くとかはやめた方がいいということです。もちろん、食事しながらということであれば、全く話は変わってくるでしょう。

 もう1つは、自分が意思決定者だった場合、どの課題に有限な注意力を払うのかに気をつけなくてはなりません。イスラエルの判定人も、手を抜こうとしてやっていたわけではなく、注意力が下がってしまった結果、システム2からシステム1に知らない間に切り替わってしまったのです。もちろんそういう状況でしなくてはならない場合もありますが、しなくてもよいように資源配分(つまり注意力配分)を常日ごろから考えることが大切です。

「炭鉱のカナリア」をなぜ見るのか

 さらに注意力の有限性は、時系列だけではなく、現在でもそうです。時々「マルチタスキング」などといわれ、うちの二男はテレビゲームの画面をモニターに出したままで勉強をしていました(しているふりをしていた?)が、注意力が散漫になります。

 1つのことに集中している場合、そこに明らかに別の話やモノが出てきても気づかないということもあります。例えば、ある本にも書いたのですが、「炭鉱のカナリア」という話があります。

 有毒ガスが出る可能性のある炭鉱では、敏感なカナリアがどうふるまうかがガスの有無を示しますので、みんな真剣に見ます。しかし、日常、例えば通勤途中にスズメやカラスが元気かどうかなんていうことを気にする人はほとんどいないでしょうし、いたのかどうかすら気づかないでしょう。ところが、今まで気にしなかったのに、一度カラスにごみを荒らされたりすると、今度はちょっと鳴き声がしただけで気になったりします。

 要は、「見ようとしなければ見えない」のです。会社の中でも、問題意識、あるいは会社をもっと良くしようとする意識がなければ、たとえそうした可能性がどれだけあっても「見えない」でしょう。注意力は、今日のデートだとか、子供の成績に使い果たされているかもしれません。

 そうした「見ようとしなければ見えない」例として使われるのが「Invisible Gorilla(見えないゴリラ)」というビデオです。インターネットで検索すれば簡単に見られますので、ご自分でぜひご覧になってください。

『ファスト&スロー』の名言
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