私たちは無意識に「基準」を設定しており、一度決めたことは変えたくないと考えがち。ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンは、著書『 ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか? 』(村井章子訳/ハヤカワ・ノンフィクション文庫)でこう解説します。この名著を、慶応義塾大学大学院経営管理研究科の清水勝彦教授が読み解きます。『 ビジネスの名著を読む〔戦略・マーケティング編〕 』(日本経済新聞出版)から抜粋。
「基準」がくせ者
連載第1回「 『ファスト&スロー』 なぜ人は間違ってしまうのか 」では、「正しいことを言っても分かってもらえない」という組織人なら必ず経験する悩みから始めました。今回はこの問題に正面から取り組んでみたいと思います。
カーネマンのノーベル経済学賞受賞の原動力は、同僚の故エイモス・トヴェルスキーと提唱した「プロスペクト理論」です。同理論で特に重要なのは、(1)人間の損得に対する反応は対称ではない(2)そもそも損得を決める基準(reference point)がカギ、の2点です。
「良い意思決定」をすることは重要ですが、「良い」「悪い」の「基準」に関して深く考える機会がないのではないでしょうか? 実はこの「基準=reference point」がくせ者なのです。
システム1(直感。連載第1回参照)のおかげで、私たちは「無意識」にこの「基準」を設定しています。その「無意識の基準」で最も多いのが「すぐ目に見える現状」、つまりデフォルトです。一度決めたことは変えたくないというのがその代表例です。現状維持は低リスクで、何だかんだ言って楽なのです。
損得の非対称性ということで、コイン投げを考えてみましょう。「裏が出たら100ドル支払う、表が出たら150ドルもらえます。やりますか?」というものです。筆者のクラスでも時々聞くのですが、やるという人は多くて1割程度です。
カーネマンは多くのテストを通じてこの「損失は利得より強く感じられる」ことを立証しました。このギャンブルの期待値はプラスなので、「合理的」に考えればやる価値はありますが、多くの人は損の2倍の得が見込めない限りギャンブルに乗りません。
そう考えると、じり貧の企業で改革ができないのも納得がいきます。現状ではダメだと分かっているが、今は大丈夫だし給料も出ている。もし、新戦略を打ち出して、大失敗したらどうするの……と、偉い人たちは思うわけです。デフォルトの魔力を解かない限り、新たな一歩は望めません。
デフォルトと後悔の関係
デフォルトの魔力を示すもう1つの例があります。次の問題を考えてください。ポールとジョージ、どちらがより後悔したと思いますか。
ポールはA社の株を持っており、A社を売ってB社の株に乗り換えようか昨年1年間迷っていましたが、結局やめました。ところが今になって、そうしていれば1200ドルの利益が得られたことが分かりました。
ジョージはB社の株を持っていたのですが、昨年売ってA社の株に乗り換えました。ところが、今になってB社の株を持ち続けていたら、1200ドルの利益が得られたはずだと分かりました。
実験結果は極めて明らかでした。なんと92%がジョージと答えたのです。客観的に見れば、2人ともA社株を持っており、1200ドルもうけそこなったというまったく同じ結果であるにもかかわらずです。
一般には「行動した場合と、行動しなかった場合では、前者の方が後悔が大きい」と言われるのですが、カーネマンは本当の要因は「デフォルトを維持したか、デフォルトから離れたか」であると指摘します。デフォルトは常に頭にあるので、それから「わざわざ」乖離(かいり)した行動をとって失敗すると、デフォルトとの比較でより後悔が高まるのです。
組織の中で考えてみれば、それは「後悔」だけではなく「非難」であったりします。既存路線を取って今一つ業績が上がらない場合と、わざわざ新戦略を(反対者を説得して)実施したのに業績が上がらない場合、どちらの経営者が責められるかは容易に想像がつくところです。
「リスクをとれ」なんてよく言いますが、人間の行動様式に埋め込まれているシステム1(直感)が「デフォルトから離れる」ことにどう反応するかを考えなくてはなりません。当然システム2(知的活動)にお出まし願う必要があるのですが、そのためには当該問題に集中できる環境をつくらないと、すぐに疲れるシステム2は連載第1回で申し上げたように、注意力のいらないデフォルトにすり寄ってしまいます。
生死のかかった医療の場面でもそうしたデフォルトの影響力が強く出るそうです。「革新的な治療法のほうが患者には効くと考えていても、うまくいかないかもしれないし、失敗すれば後悔するし、訴えられるかもしれない」「一般的には治療はうまくいくものと考えられているからである」という指摘は、ミスをしないことがデフォルトになっている、例えば企業のIT(情報技術)部門の方には深くうなずいていただけそうです。
めったに起こりそうもない出来事の重み
プロスペクト理論のもう1つの大きな貢献は、私たちが「めったに起こりそうもない出来事は無視されるか、または過大な重みをつけられる」ことを実証的に示したことです。特に後者を考えてみると、私たちの肌感覚でも、「100%安心」と「99%安心」の1%に大きな意味があることは日常よく感じるのではないでしょうか。だからこそ家電の「延長保証」なんていう話があるとついつい契約したくなります。たとえ、そうした保険が家電小売店に莫大な利益をもたらしているとしても(少なくとも米国ではそうです)。
「めったに起こりそうもない出来事」が無視されるか、過大に重視されるかの境目は、鮮明にイメージできるか、そして経験しているかであると指摘されています。その一例が、カリフォルニアでの地震への関心と日本での地震への関心の違いです。過激派組織「イスラム国(IS)」の人質事件についてもそうでしょう。脳裏に焼き付いたイメージは、めったに起こらないとしても、「もし誘拐されたらどうしよう」という心配を海外在住の方々の間で増幅していたのではないでしょうか?
合理的である方がよいのか、安心である方がよいのか、どちらがよいという「基準」は何なのか、人間というものは複雑です。そして、そこにビジネスチャンスや、企業としての差別化のカギがあったりします。
ポーターら巨匠の代表作から、近年ベストセラーになった注目作まで、戦略論やマーケティングに関して必ず押さえておくべき名著の内容を、第一線の経営学者やコンサルタントが独自の事例分析を交えながら読み解きます。
日本経済新聞社編/日本経済新聞出版/2640円(税込み)