イーロン・マスク、スティーブ・ジョブズ、ジェフ・ベゾス……。天才的なイノベーターが生み出したイノベーションはそれぞれ異なりますが、「思考の型」は共通しています。第一原理思考、アナロジー思考、パラノイア思考、物語思考、反逆思考、情熱思考、SF思考など、傑出したイノベーターに共通する「思考法」を、本人たちへの取材や100冊以上の書籍から得た知識を基に解剖した書籍『 天才思考 世界を変えるイノベーションを生む10の思考法 』から一部を抜粋・再編集してお届けします。連載の第17回では、さまざまなイノベーターが実践する自分自身と手がけるビジネスを物語化して伝える「物語思考」を取り上げます。 =敬称略
多くの天才的なイノベーターは、イノベーションを起こすうえで物語(ナラティブ)が重要であることを強く認識しています。それは「物語思考(Narrative Thinking)」とも言い換えられます。
物語思考とは、物事を単なる情報の集まりとしてではなく、「ナラティブ」という物語的な構造で理解しようとする思考法を指します。米心理学者のジェローム・ブルーナーによって提唱された概念で、論理・科学的な思考とは対照的な人間特有の認識スタイルです。
「人間は論理だけではなく、むしろ物語によって世界を理解している」とブルーナーは主張しました。人間は客観的な現実をそのまま受け取るのではなく、物語という「フィルター」を通して、経験に意味を与えます。例えば、失恋という事実は一つでも、「裏切られた」と語るか「成長の糧になった」と語るかで、本人の意味づけは全く異なるものになります。
ブルーナーは『心を探して ブルーナー自伝』で、物語の力について次のように説明しています。「物語、神話、戯曲など、さまざまな芸術形式は、人間の苦境を―それらがいかにうまく処理されたり、へたに処理されたりするか、それらをいかに笑うか、敬達するか、それらに圧倒されるかを―表現するための自然な様式を提供する。人間の文化は(芸術以外のどんなものでも)、人間の苦境に構造と意味とを与えるための『諸形式』の蓄積である」
多くの物語には、主人公が日常世界を離れて冒険に旅立ち、さまざまな苦境を乗り越えて成長し、世界や社会を救うような偉大なことを成し遂げるといった共通する構造があります。神話にもよく見られるパターンで、人間は「物語の形」を借りて、自分自身のアイデンティティーを形成していく、とブルーナーは考えました。
自分自身や会社、取り組んでいるイノベーションを物語化することは、イノベーターにとって重要です。優れたストーリーは、顧客や投資家を獲得する際に役立つことに加えて、社員の求心力を高めることにもつながるからです。
例えば、イーロン・マスク。2023年にウォルター・アイザックソンが書いた伝記『イーロン・マスク』が注目を浴びましたが、その10年ほど前にもアシュリー・バンスが『イーロン・マスク 未来を創る男』という別の伝記を書いています。
マスクの少年時代の壮絶ないじめ体験、貧しい中での最初の起業、ペイパルの前身企業の創業とCEO(最高経営責任者)の立場からの突然の解任、テスラ創業とEV(電気自動車)開発、宇宙ロケットの打ち上げを何度失敗してもあきらめない姿勢、環境破壊や戦争などによって地球が滅びる前に人類を複数の惑星に住める種族にすることに挑戦する、といったストーリーはドラマチックで引き込まれます。
「人間はほかの人間に共感する」と語ったアダム・スミス
「人間はほかの人間に共感する生き物だ」。「見えざる手」で有名な18世紀の経済学者で道徳哲学者でもあったアダム・スミスは『道徳感情論』でこのような指摘をしました。『道徳感情論』の中核となるテーマは「シンパシー(共感)」で、人間には他人の喜びや苦しみを自分のことのように感じる能力があり、それは単なる同情ではなく、他者の立場を想像する力であるとスミスは考えていました。他人の共感を得る一番の近道は自分自身の物語を知ってもらうことです。
破天荒で問題発言が多くても、マスクがどのような人生を歩んできたのか、どのような苦労をしているのか、何を目指しているのかを知ると、共感する人間が増えるのは当然です。自分自身が何者で何を目指しているのかは、製品発表会や投資家向けの説明会で語ったり、メディアのインタビューを受けたりするだけでは、どうしても伝えきれません。
もちろん自分自身で物語をつくることも可能ですが、優れた作家が書いてくれるなら、そのような機会を利用しない手はありません。だからこそアップル創業者のスティーブ・ジョブズもマスクも現代最高の伝記作家とされるアイザックソンの密着取材を受けたのでしょう。
多くの伝記作家は、長期間にわたって本人と関係者を取材します。とりわけ本人は、何度も取材に応じ、自分自身がどのような生い立ちで何を考えているのか、どんな思いで事業に取り組み、何を目指しているのかを繰り返し伝える必要があります。この過程で自分自身の幼少期からの記憶をたどり、関係者の証言も知ることで、自己理解が深まり、物語の解像度は飛躍的に高まります。
一流の伝記作家は、取材対象となる人物のプラスの側面だけでなく、マイナスの部分にも目を向けます。アイザックソンはマスクの浮き沈みが大きい感情面や部下に厳しいところを含めてあますところなく描いています。そうでなければ、真に迫る伝記にならないからです。書かれる側にはリスクもありますが、自己理解が深まり、自分自身の物語を多くの人に伝える能力が鍛えられることは、イノベーションを推進する強い力になります。
マスクは自身の物語を多くの人に届けることを強く意識しています。例えば、世界的な著名人や専門家が登壇するスピーチイベント「TED」に13年、17年、22年の合計3回も出演。マスクがテスラやスペースXで何を目指しているのか、ツイッター(現X)の買収提案の狙いなどについて詳しく語りました。
21年には米NBCの「サタデー・ナイト・ライブ(Saturday Night Live)」に出演し、自らが「アスペルガー症候群である」と告白したことも有名です。26年1月には世界経済フォーラムの年次総会(ダボス会議)でも登壇し、AIとロボットの未来や、宇宙開発と火星移住などについて熱弁をふるいました。マスクを嫌う人も少なくありませんが、このような機会に、発達障害や深刻ないじめを受けた経験など自分の弱みもさらけだす姿勢は共感を呼んでいます。
自分自身と手がけるビジネスを物語として語ることで、顧客、従業員、投資家などの支持につなげる「物語思考」は多くのイノベーターに共通しています。新刊『天才思考』で詳しく説明したように、アマゾン創業者のベゾスやアップル創業者のジョブズも、物語の力を巧みに利用し、経営に役立ててきました。
人類は何万年も前に洞窟で暮らしていた時代から、さまざまな物語を聞いて暮らしてきました。マスクのようなイノベーターに限らず、自分が伝えたいメッセージを多くの人に記憶してもらいたいなら、物語=ナラティブを語るスキルを磨くことは極めて重要です。

[日経ビジネス電子版 2026年6月9日付の記事を転載]
山崎良兵(著)/日経BP/2640円(税込み)
