時価総額世界一を2024年6月に達成した米エヌビディアだが、創業当初には破綻寸前の状況を経験している。戦略ミスから資金枯渇を招く恐れがあったが、同社の最高経営責任者(CEO)のジェンスン・ファン氏が直談判に向かったのは、ある日本人だった。『NVIDIA(エヌビディア)大解剖』(島津翔著、日経BP)から一部を抜粋してお届けする。
創業して初めてグラフィックス・チップを開発した当時から、エヌビディアに興味を示したのはセガの米国法人だった。セガは当時の売れ筋ゲーム機だったセガサターンのソフトをパソコンゲームとしても利用できないかと考えており、エヌビディアとのライセンス契約を結んだ。エヌビディアによれば、セガとの契約は1995年7月。最初のチップの発売からわずか2カ月後だ。チップの販売は思うように伸びなかったが、セガはエヌビディアの実力を買っていた。
1994年に発売されたソニーのプレイステーションが驚異的な人気を集める中、セガが次世代ゲーム機として開発していたのが「ドリームキャスト」だった。セガはドリームキャスト向けのグラフィックカードの開発をエヌビディアに委託。最初のチップが失敗に終わった今、エヌビディアにとっては絶対に失敗できないプロジェクトだ。
当時の3Dグラフィックスは黎明期であり、業界標準はまだ定まっていなかった。3次元の物体をコンピューターが描写する際には、その最小単位を三角形にする手法と四角形にする手法がある。エヌビディアは四角形を採用していた。
ところが、ウィンドウズ95を発売して破竹の勢いを続ける米マイクロソフトが、時を同じくしてパソコンを使ってゲームをする際に必要なプログラムである「ダイレクトX」を発表する。そしてマイクロソフトは、三角形を最小単位とする手法しかサポートしないと表明した。平面を構成できる最も頂点が少ない多角形である三角形を利用して立体を描写するほうが理にかなっており、かつウィンドウズ95の勢いとも相まって、他のメーカーはこぞって三角形の手法に流れる傾向にあった。エヌビディアの手法はダイレクトXと互換性がなく、廃れていくのは決定的だった。結果だけ見れば、エヌビディアの戦略は誤っていたわけだ。
エヌビディアを救った日本人
エヌビディアは判断を迫られた。業界標準ではない手法で開発を続けるか、それともセガとの契約を打ち切るか。ただし、セガとのプロジェクトを完遂したとしても、自分たちが持つ技術は主流ではない。その遅れを挽回するのは不可能に思えた。一方で契約を切れば、資金枯渇が待っていた。「プロジェクトを完了させてから死ぬか、プロジェクトを打ち切ってすぐ死ぬか。そんな状況に直面した」。エヌビディアCEOのジェンスン・ファン氏は後に、どちらもいばらの道だったと振り返っている。
ファン氏は開発を進めていた四角形方式を捨て、マイクロソフトの三角形方式に切り替えることを決意した。しかし、それは同時に、セガとの契約破棄を意味していた。
一方のセガも、エヌビディアとの契約を破棄する決断を下していた。
当時、セガ米国法人のトップを務めていたのは入交(いりまじり)昭一郎氏。ホンダの副社長からセガ副社長に転じ、製作総指揮したゲームソフト「サクラ大戦」をセガサターンの大ヒットシリーズに育て上げたセガのキーパーソンである。
セガはエヌビディアに、グラフィックボードの契約を打ち切る判断を伝えた。それは死亡宣告とほぼ同義だった。それでも生き残らなければならないファン氏は、入交氏のオフィスに詰めかけて、こう訴えた。「契約金額を全て支払ってもらえないだろうか」。箸にも棒にもかからない提案である。契約金額を支払っても、セガには何の得もない。しかも、そもそも契約が打ち切られたのはエヌビディア側の技術戦略が誤っていたからなのだ。笑止千万、即却下が妥当だった。

それでも入交氏は悩んだ。米ウォール・ストリート・ジャーナルの取材に、入交氏はこう答えている。「私は彼をまだ信じていた」。日本に帰国すると、セガ上層部にこう提案した。「エヌビディアに出資すべきだ」。たった数日前に契約を不履行にした米国の無名スタートアップに出資するよう仕向けるのは、副社長である入交氏でも難儀だったに違いない。それでも入交氏は資金を確保した。セガによる500万ドルの出資。それが当時のエヌビディアのほぼ全資産だった。
完璧なチップが完成した
ファン氏は市場を詳細に分析した。PC用チップはまだ発展途上であり、「最速」を求めていた。そしてファン氏は、PC市場には既存製品の10倍の性能を出すことでユーザーが熱狂する潜在的なチャンスがあると踏んだ。何度も何度も議論して、ようやく完璧なチップが完成した。
エヌビディアは1997年、第3世代に当たる「RIVA 128」を発売した。ダイレクトXと互換性を持ち、当時の競合が抱えていたレイテンシー(遅延時間)などの課題を克服したチップだった。
七転八倒は続く。生産を委託していたメーカーの歩留まりが低く不良品が大量に発生するという異常事態が発生。エヌビディアの従業員全員が昼夜を問わず全ての製品をテストする羽目になった。ファン氏は「気の遠くなるような作業だった」と当時を回顧している。
それでもRIVA 128は発売から4カ月で100万ユニットを売り上げた。エヌビディアにとって初めての成功と言えるだろう。長年、シリコンバレーで半導体調査会社を率いるジョン・ペティ氏は「処理エンジンは当時最高レベルであり、エヌビディアはコンピューターグラフィックスのリーダーとしての地位を確立した。RIVA 128は転機だった」と分析する。
瀕死状態からの起死回生。そして、セガの入交氏による投資には後日談がある。米メディア「トムズハードウエア」によれば、米セガは後に、500万ドルの出資で手にしたエヌビディア株を1500万ドルで売却。1000万ドルのキャピタルゲインを得た。それは入交氏がセガの社長を退任した後での出来事だった。

[日経ビジネス電子版 2025年3月24日付の記事を転載]
島津翔(著)、日経BP、1980円(税込み)
