その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は松岡真宏さん、山手剛人さん、首藤繭子さんの 『ESG格差 沈む日本とグローバル荘園の繁栄』 です。
【イントロダクション】
ここ数年、政官財挙げての後押しで、「SDGs」という言葉が広まり、その実現に向けた取り組みが各方面で進んでいる。しかし、このSDGsという言葉、他の主要先進国では、日本ほど使われていない。SDGsとは、「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称である。企業や自治体では環境や人権、公正(フェアネス)さへの取り組みが行われ、SDGsの徽章(きしょう)をジャケットに着用するビジネスパーソンも増えた。小・中・高等学校でのSDGs教育も盛んだ。NHKEテレの『ひろがれ! いろとりどり』という幼児向け番組では、SDGsが掲げる17の目標を、それぞれ1分で紹介する歌アニメも制作されたりしている。
環境や人権が重要なことは自明であり、それらを尊重する精神が日本で醸成されていること自体は喜ばしい。本書においてそれを否定する意図はまるでない。ただし、SDGsに関する世界の現実を直視することも必要だろう。
ある日のこと、素朴な疑問から筆者はGoogleを使って、SDGsやそれに類似する言葉がどの程度の頻度で検索されているかについて調べてみた(2022年7月13日時点)。すると、驚くことに主要先進国ではSDGsという言葉は、Google検索の対象にすらなっていないことが分かった。他の先進国ではSDGsよりも、「ESG」や「D&I」の検索数が多かったのだ。
ちなみに、ESGは「環境(Environment)」「社会(Social)」「企業統治(Governance)」の頭文字であり、企業に対してこの3つの視点に沿った活動を求める動きを指す。D&Iは「Diversity & Inclusion(ダイバーシティ&インクルージョン)」の略であり、人間の多様性を認識し、かつ各人を尊重して受け入れる社会環境を整備する動きだ。
そもそも社会の持続可能性(サステナビリティ)を理解するためには、我々はまずアルファベットの洪水に対する忍耐力を持つことが必要かもしれない。
検索の集計結果をまとめた次頁の表では、検索数が最も多かった国を100として、2位以下の検索数を指数化している。SDGsについて世界で最も検索数が多かったのは日本で、2位のジンバブエの3・6倍に達する。東アジアでは、台湾が8位、韓国が9位にランクインしているが、検索数は日本の10分の1以下にすぎない。
主要先進国は、SDGsの検索数ランキングで上位に入っていない。OECD(経済協力開発機構)加盟国で上位20位以内は、3カ国(韓国、オーストリア、アイルランド)のみだ。米国に至っては34位に沈んでいる。
ESGやD&Iではどうだろうか。
日本の検索数は、SDGsほどではないものの高水準にある。ランキングを見ると、ESGで8位、D&Iで5位と上位につけている。
日本を除いて上位20位以内にランクインしたOECD加盟国数は、ESGが10カ国、D&Iが9カ国だ。SDGsに〝冷たい〞米国も、ESGで16位、D&Iで7位と上位につけている。
SDGs、ESG、D&Iにおける優劣を議論することは本書の目的ではない。重要なことは、日本で盛り上がるSDGsについて、他国では異なる形で受容されているという状況を知ることだ。
主要先進国では、SDGsよりもESGやD&Iという言い方が主流となる。外国人投資家との会話で出てくる用語もSDGsよりもESGが圧倒的に多い。その理由や合理性については、これから本書において様々な角度で紹介したい。
日本で高い頻度で検索されているSDGsという言葉の前身は、2000年にガーナ出身のアナン国連事務総長(当時)が打ち出した「ミレニアム開発目標(MDGs)」だ。MDGsは15年後の2015年を目途(めど)に、8つのゴール項目を設定した。
それらは、「極度の貧困と飢餓の撲滅」「乳幼児死亡率削減」「HIV・マラリア等の蔓延防止」など、途上国向けのゴール項目が中心だった。MDGsの期限が到来した2015年、この流れを踏襲したSDGsが国連で採択された。こうした出自により、SDGsは途上国援助という骨格を内包している。だからこそ、SDGsの検索ランキングで、アフリカや南アジアの国々が上位にランクインしている。
欧米ではSDGsは高頻度で検索されていない。SDGsが国連で採択され、国連主導で推進されているという事実が背景にあると類推される。日本には、国連への歴史的な強い憧れがある。一方、欧米先進国の国連観は異なり、社会の持続可能性という題目に限らず、国連を軸とした議論から降りている国も多い。SDGsへの無関心は合点がいく。
D&Iの検索数にはG7に代表される主要先進国、なかでもアングロ=サクソン国家である英米、カナダが上位にランキングされている。同じように社会の持続可能性に取り組んでいても、日本ではSDGsという国連由来の言葉を使って気候変動やCO2問題に焦点が当たりがちであるのに対し、主要先進国では人権や公正さ、ジェンダー平等や多様性という観点で多くの検索が行われているのだ。
世界経済フォーラム(WEF、通称ダボス会議)が2019年に発表した調査(世界28カ国の16〜74歳の計2万人が対象)によると、SDGsを「聞いたことがない」と回答した人は世界で26%だった。先進主要国では、米国50%、英国51%、カナダ49%、オーストラリア49%、フランス44%が「聞いたことがない」という散々な結果だ。
日本も調査が行われた2019年時点では、51%が「聞いたことがない」状態だった。ここ数年のSDGs検索数における日本の突出した状態は、2019年以降の政官財の巻き返し、大手広告代理店やPR会社の勝利なのだろう。
本書では、社会の持続可能性について、基本的にESGという言葉を使って議論したい。主要先進国と日本との比較や企業経営を議論する際には、ESGを軸に語ることが妥当と考えるためだ。
持続可能性という思想は、それ自体が崇高なものだ。しかし、この思想を「SDGsの5番目の達成を目標に頑張ります」などと、自己目的化し、日本に閉じた社会思想として深化させているのは少々残念なところがある。持続可能性という思想を、国際的な社会経済という文脈から能動的に活用していく姿勢こそが、ビジネスにおいても必要な態度ではないだろうか。
なぜならば、この思想は、国家・企業・個人がそれぞれの関係性を構築するうえで、有益な「プロトコル」となりうるからだ。ここで言う「プロトコル」とは、いわば外交儀礼で使われる「お約束ごと」を意味する。
外交の際、相手国の文化水準や一般常識の有無は、プロトコルと呼ばれる慣例や慣習への理解の有無で判断できる。例えば、列席者の序列や服装、国旗の取り扱い、話の論理展開や言い表し方などがプロトコルだ。
プロトコルは、いくつかの「お約束ごと」の総体として機能する。
「お約束ごと」のうち、特定の1つや2つがクリアできていれば、お付き合いをするに相応しい相手と認識してもらえるわけではない。服装はしっかりとした正装をしているのに、いざ議論を始めると論理構成が意味不明だったり、粗野な言葉を使ったりすると、外交相手として疑問符が付く。
〝総体〞として、〝まとまり〞として、「お約束ごと」を自文化として会得しているかどうかがポイントとなる。先進国であればあるほど、プロトコルへの理解度が低い国との外交は限定的かつ抑制的になる。場合によっては拒絶さえする。社会の持続可能性に対する深い理解の有無は、日本以外、特に先進国のグローバル企業から日本企業を観察する際の重要な視点となる。
その意味で、ESGは異なる共同体間のビジネスにおけるプロトコルになりつつあるのだ。決して否定するものではないが、SDGsの取り組みは、どうしても選択的な目標の達成にとどまりがちとなり、「総体」の会得が前提となるプロトコルにはつながらない場合もあるのではないだろうか。
SDGsには17の独立した目標がある。それぞれの企業、自治体、学校は、17の目標から特定の目標を選択し、その達成に向けた努力をする。選択した目標は達成したとしても、それだけではプロトコルを会得したことにならない。しかも、17の目標には、必ずしもビジネスと関係のないものも含まれる。
ESGは、Eだけ、Sだけ、Gだけを追求するという考え方ではない。ESG「総体」として社会の持続可能性を追求する運動である。だからこそ、ESGは新しいプロトコルになりうるし、主要先進国のビジネスパーソンにおいて高い認知度を持つ。
後述するが、近年、金融の世界で「ユニバーサルオーナー」という言葉が頻繁に使われるようになった。これは、特定の国や産業を対象にした投資ではなく、この世界に存在するユニバーサルなすべての投資対象を扱う投資家を指す言葉だ。
選択的なSDGsは、特定の国や産業を対象とした投資家と似ている。それに対して、21世紀半ばに向けて、我々はむしろ、この世界全体の持続可能性に貢献する「ユニバーサルオーナー」として、SDGsの特定の番号に限定せず、「総体」的にESGを理解し、会得していく必要がある。
企業や個人、特に国際的なビジネスに携わるビジネスパーソンは、他国で一般的に使用しているESGという観点で思考を深めておいて損はない。と同時に、ESGが自国の社会に及ぼす影響について網羅的に検証し、企業の経営戦略や個人のライフスタイルを熟考することは欠かせない。国家も経済政策構築のため、ESG視点で国際的な社会変容を観察しておく必要がある。各読者もまた多面的にESGを咀嚼(そしゃく)し、理解を促進することが重要だろう。
ESGをめぐる状況は常に動いており、単純な受容でなく、地政学的な視点でとらえることも欠かせない。そもそも、天然資源の有無で、国家・州にはESGのEを進展させる動機が一致せず、ESGへの態度に差が出ている。世界の国家間には不可避的に格差や分断が生まれ、日本は天然資源を持たない陣営に区分される。
加えて、企業のESG対応には追加的な投資やコストが必要だ。企業物価や消費者物価は引き上がる。高収益の大企業とそれ以外の企業の格差や分断も不可避的に生じる。消費者もESGにこだわって公正(フェア)な商品を選択できる人は大多数ではない。
ESGを推進する1つの大勢力は金融資本である。ESGに対応して力強い成長を続けるグローバル大企業には、世界中の金融資本から資金が流れ込む。有能な人材も世界から集まる。選ばれし一握りのグローバル大企業は、世界中から資金と人材を吸収し、さらに成長率を高めて、このスロープを駆け上がる。これらのグローバル大企業は、現代に蘇った中世の荘園(資本を持つ貴族・寺社によって開墾された私有地を基本とした経済システム)のようであり、一部の巨大企業は、中堅国家よりも大きな経済圏を持ち、所属する社員や周辺地域を魅了する。
この豊壌なる「21世紀の荘園」には、グローバルに伸長するIT企業群や、急成長するスタートアップと呼ばれる新興企業が含まれる。これら企業は圧倒的に米国やヨーロッパにあり、ESGの視点で取引先や社員を選別する。
自国に富裕な〝荘園〞があるかないかは、企業や個人の未来を左右する。各国の〝荘園〞と契約を結びたければ、彼らと同じプロトコルを獲得しておきたい。その意味でも伝統的な日本企業は、ESG対応が喫緊の課題となるのである。さもなければ、有能な人材ほど、伝統的な日本企業には入社せず、結果的に資金調達もおぼつかなくなる。取引先からも、ESG対応が不十分だと取引停止の通知を受けることさえあるかもしれない。
平成の30年間で国際的な地位を落とした伝統的な日本企業群は、ESG対応の巧拙でさらに沈む可能性もあるのではないだろうか。
本書は5つの章から成っている。
第1章は、金融資本がいかにESGという地平に辿り着き、どういう力学でこれを進めているかについて論じる。ESGが生み出すインフレーションについても紹介する。
第2章は、ESGが引き起こす格差や分断について詳述する。国家・企業・個人における格差や分断だ。ESGが持つイデオロギー性についても論じる。
第3章は、21世紀の荘園となったグローバル大企業やスタートアップ企業の実例を紹介する。この30年で大きく地盤沈下した日本の大企業の問題点にも触れる。
第4章は、1920年代の米国の禁酒法など、道徳性や規範性を求めるESGに類似する動きの歴史的道程を示し、逆回転し始めたESGの流れを紹介する。
第5章は、企業や個人の経済活動におけるESGの意味や、国ごとの受容の相違を述べる。そして、日本としての国家・企業・個人によるESGの超克法について論じる。
本書は、フロンティア・マネジメント株式会社に所属する3名による共著である。主に第1章を山手剛人、第3章を首藤繭子、第2章・第4章・第5章を松岡真宏が担当した。
それでは、日本の社会・社会思想に踏み絵のように迫る〝ESG〞を解剖してみよう。
2022年12月フロンティア・マネジメント株式会社 代表取締役 松岡真宏
【目次】