その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は田家康さんの 『気候で読み解く人物列伝 日本史編』 です。
【はじめに】
あの日、雨が降っていたから一生の伴侶と会うことができた。あの朝、大雪となってしまい試験会場に到着するのが遅れ合格がかなわなかった。あの夜、高原のキャンプ地で突然に霧が晴れ、満天の星を眺めて新たに生きていく力がわいた。私たちがこれまで生きてきた道を振り返るとき、気象現象が大きな役割を果たしたというケースは少なくない。いずれの思い出も、歓喜やほろ苦さとともに、空の情景まで鮮明に心に映し出されてくる。
これまで、『気候文明史』(日経ビジネス人文庫)や『気候で読む日本史』(同)において、天気や気候が歴史を大きく変えてきた事例を紹介してきた。この視点は近年、高校の歴史の教科書でも強調して語られている。山川出版社の『詳説世界史B』では、導入部の「世界史への扉」の冒頭で「気候変動と私たち人類の生活」として事例を挙げている。これから世界史を学ぶ高校生がひとりでも多く関心を向けるよう、執筆陣の願望が込められている箇所だ。[1]
本書は日本史で著名な人物を取り上げ、気象現象が人生の画期となった事例を集めたものだ。歴史の大きな流れが気候変動と関わっているとすれば、それぞれの時代を生きた人々も気象現象と無縁ではない。司馬遷の歴史書『史記』の構成を読み物としてみれば、支配者を軸とする本紀(ほんぎ)、諸侯の系譜を追う世家(せいか)、そして個人の生き方を叙述する列伝の3つに分けられる。その意味で、本書は『気候文明史』あるいは『気候で読む日本史』に対して列伝に相当するものかもしれない。
気象現象にはさまざまなものがあるが、水平スケールと時間スケールという尺度で区分すると理解しやすい(図0―1)。数メートルの大きさでほこりが回転する「つむじ風」は1分も経たずに終わってしまう。竜巻となると数百メートルの地域を巻き込むが、それでも持続時間は30分程度だ。雷雨やゲリラ豪雨などの局地的な大雨は、10キロメートル以上の範囲で1時間程度降り続く。そして、温帯低気圧に伴う温暖前線・寒冷前線による降水は数百キロメートルの地域で半日程度、台風による大雨は長いと丸一日雨を降らせる。冬将軍とよばれるシベリアからの寒波は2週間程度続くことがあるが、これは北極振動による偏西風の蛇行に由来する。さらにエルニーニョ現象の影響となると、異常気象は世界各地に及び1年以上続くこともある。巨大火山噴火の影響となると数年、太陽活動の変化では数十年から数百年という期間で地球全体の気候の傾向を変える。全体としてみれば、図では左下から右上に並ぶように、水平スケールが小さく時間スケールも短い現象から、水平スケールが大きく時間スケールも長い現象という関係にあることがわかる。
それでは、水平スケールが広く時間スケールが長い気象現象がより大きく歴史を動かしてきたかというと、そうとは限らない。ローマ帝国初代皇帝のアウグストゥスは、ガリアからライン川を越えてゲルマンの地域まで植民地を拡大しようと侵略を試みた。ところが、紀元9年にローマ軍がトイトブルクの森に進軍したときに突然の雷雨となり、雷を恐れたことでアルミニウス率いるゲルマン諸族の軍隊に敗れてしまう。このため、ローマ帝国は国境をライン川に定め、以後2000年近くにわたってヨーロッパの西部と中部を政治的にも文化的にも分断することになった。日本史を振り返っても、蒙古襲来の弘安の役での台風は、何とも日本にとって都合の良い時に訪れたものだ。このように、比較的小規模で短時間の気象現象でも歴史を変える役割を果たすことがあるのも、気象が歴史に影響を及ぼした事例の妙といえる。[2][3]
本書の最初の4章は、水平スケールが小さいものから大きいものへ、時間スケールが短いものから長いものへという順に並べている。
第1章では、太平洋沿岸の梅雨の時期での風向きの変化、そして秋が深まっていく季節での木枯らしの動向という2つの気象現象を取り上げる。それぞれ季節外れの天気をもたらし、八幡太郎義家を先祖に持つ上野国の由緒正しい武将の運命は翻弄される。
第2章は、戦国大名の中でも領土を広げ強大になった2人の武将が激突する場面で、梅雨の動向が果たした役割を示す。梅雨といっても各年によって降水量の多い少ないがある。決戦の年はどうであったか。そして、その年の梅雨の傾向をもたらした背景にどのようなものがあったと考えられるか。
第3章では、数年単位での気候変動によって日本全土で飢饉が広がった時代を扱う。奈良時代末期の辛酉の年に即位した天皇は、自分自身を革命家として意識した。彼は激しい異常気象の中にあって、強い意志で二大事業を貫徹していった。
第4章は、10世紀に何度も流行した天然痘を取り上げ、気象と疫病の関係と平安社会の惨状を振り返る。天然痘の流行により、藤原氏長者の家柄とはいえ五男であった人物に政権が転がり込んだ。一方で、天皇の寵愛を独占していた聡明な女性の人生が暗転する。
第5章では、江戸時代中期の虫害による飢饉が発生した原因を探る。果たして、元凶はどこからやってきたのか。そして、徳川幕府の中興の祖とされる名君は、再び改革に向けて重い腰を上げねばならなくなる。
第6章は、南岸低気圧による関東平野での降雪がテーマとなる。気象現象というのは、ひとつが原因とは限らない。2つの原因が同時に起きることで、顕著に発生する場合がある。赤穂浪士の討ち入り、桜田門外の変、2・26事件は江戸東京三大大雪事件とよばれるが、気象状況で共通するものはあったのだろうか。
司馬遷の『史記』の列伝には、登場人物の叡知と悲哀が深く刻まれているが、もとより本書は到底及ぶべくもない。気象をめぐるエピソードとして、お楽しみいただければと願っている。人間の生き方は、自己の能力と環境の相互作用によって思いもよらない方向に流れていく。そうした機微を感じていただけたら、これにまさる喜びはない。
本書執筆において、日本気象予報士会の濱野哲二氏に貴重な助言をいただいた。濱野氏は長年、戦国時代から太平洋戦争に至るまでの戦争と気象の関係を研究されている。この場を借りて御礼申し上げたい。また、いつもながらざっぱくな私の手順に対し、丁寧に応対していただいた日経BP日本経済新聞出版本部編集者の野崎剛さんにも感謝したい。
2021年2月 田家 康
1.本書において、地名および人名は一般的に用いられている表記によった。
2.年月日について、和暦を漢数字、グレゴリオ暦を算用数字で示した。
3.各人物の年齢について、存命当時の慣例に従い数え歳とした。
4.以下の文献については、国立国会図書館デジタルコレクションに依った。
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本紀略』『類聚国史』『公卿補任』『本朝世紀』『百錬抄』『信長公記』『徳川実紀』『盤錯秘談』『春雪偉談』『阿部正弘事績』『桜田義挙録(雪)』
【目次】