その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は池田新介さん、岡田克彦さんの『 金融市場の行動経済学 行動とマーケットに見る非合理性の世界 』。「まえがき」をお届けします。
【まえがき】
私たちの社会が経済的に成長し、各人が豊かな経済生活を営むうえで、金融・証券市場の存在は不可欠である。今利用できる資源を将来のより大きな資源と交換したり、リスクをとることでより大きな資源を獲得したりすることが、金融取引によってはじめて可能になるからである。金融・証券市場のこうした資源配分機能がうまく発揮されるには、取引者である市場参加者たち自身が可能なかぎり合理的に将来を予想しリスクを評価する必要がある。市場参加者の合理性を前提にして、ファイナンシャルな意思決定を記述し、金融・証券市場における価格決定のメカニズムを解明するのが従来「ファイナンス」と呼ばれてきた学問領域である。ところが、バブル現象やそれに続くマーケットの崩壊などの「市場の失敗(market failure)」を幾度となく経験するなかで、私たち投資家の限られた合理性──ハーバート・サイモン(Herbert Simon、1978年ノーベル経済学賞)のいう「限定合理性」──を前提として、金融・証券市場の振る舞いを再検討する必要性が指摘されている。
本書は、人びとの限定合理性の観点から、株式などの金融証券の価格決定とそのベースにあるリスク判断と選択を中心として、彼らの現実の金融・投資行動と金融・証券市場で起きている現象を読み解いていくことを目的としている。
行動経済学の知見にもとづいて金融・証券市場の現象を分析する学問領域は行動ファイナンスと呼ばれている。本書の内容はその行動ファイナンスの領域に属している(実際、本文中でもそのように記述している箇所がある)。にもかかわらずタイトルを「金融市場の行動経済学」としたのは、ファイナンスにおける意思決定の分析の多くが経済学の理論をベースにしているために、投資家の意思決定における非合理性を考える際には、経済学を修正した行動経済学の視点やロジックが重要になるからである。
本書の目的やねらいの詳細については序章で述べるが、本書の第一の特色として、金融・証券市場に見られる限定合理性を行動データとマーケットデータの両方向から分析する点を強調しておきたい。序章で述べるように、本書ではこれらのアプローチを行動アプローチおよびマーケットアプローチと呼んでいる。行動アプローチでは、アンケート調査や経済実験、あるいはさまざまなリスク関連商品についてのフィールドデータから、限定合理的な金融・投資行動を明らかにし、マーケット現象との関連性を明らかにする。マーケットアプローチは、逆に証券価格や取引量などのマーケットアウトカムのデータを調べることで、プレーヤーたちの限定合理性やそれに起因する市場の非効率性について考える。
行動アプローチでは、行動データを経済学や行動経済学の理論から演繹される知見に照らし合わせることで限定合理的な金融・投資行動を明らかにする。マーケットアプローチでもこうした仮説検証による演繹的な方法を使うが、それだけではなく、テキストマイニングや機械学習などの新しい情報処理技術を利用することでマーケットデータの特性を解明し、金融・証券市場の非効率性を明らかにする、いわば、データ駆動的で帰納的な方法を併用する。本書の副題に、「行動」と「マーケット」をキーワードとして入れたのはこのためである。
行動とマーケットの双方向からのアプローチという本書の特色は、私たち筆者の対照的な研究歴に関連しているかもしれない。筆者の一人(池田)が、経済主体の時間選好やリスク選好の形成と意思決定の関連性という経済学的なテーマから出発し、行動データを用いた限定合理性の探究に関心を向けてきたのに対し、もう一人(岡田)は、キャピタル・マーケットにおけるプレーヤーとして投資家が限定合理的に振る舞っているのを目の当たりにしてきた立場から、新しい情報処理技術を利用することで株式リターンの予測可能性を解明することに尽力してきた。
ただ、こうした本書の特色は、筆者らの研究歴の違いを単純に反映しているというよりも、そもそも本書の企画が、そのような対照的で補完的な関心をもつ筆者らが協力することで新しいタイプの「行動ファイナンス」を書きたい、という戦略的な動機から始められた結果という方が適切だろう。そのシナジー効果が期待どおりに本書に発揮できているかどうかについては読者の判断を仰ぐほかはない。
第二の特色として、本書では、筆者らの過去の研究をベースにまとめるスタイルではなく、分析や検証を含めた大きな部分をオリジナルに書き下ろすスタイルをとっている。そのために日本でアンケート調査を実施したり、新しい情報処理方法を取り入れたりすることで、従来の行動経済学や行動ファイナンスで提示されている結果をオリジナルなデータで再検証し、さらに金融現象に関連するいくつかの新しい知見を示している。
たとえば、認知能力の限定性、プロスペクト理論的なリスク態度、自信過剰などの限定合理的な要因が人びとの投資行動に及ぼす影響について、日本のデータを用いて新しい結果を示している。また、自然言語処理や深層学習の機械学習的なアプローチを利用することによって、データから識別される市場センチメントや、株価のチャート画像情報から探索される利益機会を利用した有効な投資戦略の可能性について分析し、そこから市場の非効率性についての新知見を明らかにしている。終章では、さらにその結果にもとづいて市場効率性の新しい概念を提案している。
分析と執筆にあたっては、筆者間で綿密に議論を重ね修正を繰り返した。最初こそそれぞれの担当章を決めて粗稿を執筆したものの、時間をかけて幾度となく検討し改訂を繰り返したので、当然のことながらどの部分も共同執筆と考えていただきたい。
本書が想定する主な読者は、(1)ファイナンスや経済学についてごく初級の知識をもつ、社会科学系の学部・大学院初級の学生、および(2)金融・証券市場の現場で活動するなどしてすでにファイナンス現象に関連する実際的な知識をもっていて、その現実を理論的に理解したいと考えている実務家やアナリスト、政策担当者などである。さらには、(3)ファイナンスや行動経済学などの関連分野の研究者にとっても関心をひくトピックが本書に含まれていると考えている。
行動ファイナンスの可能性(と問題点)をできるだけ多数の人たちに理解してもらうために、数学的な議論は簡単な等式にとどめ、高度な数学は一切使わずに説明するように心がけている。例外的に数式の展開が必要と判断した議論は、補論や付録など本論以外のところに集めることとした(そこでさえ微分はほとんど使っていない)。
ただ、たとえ数学的な議論が出てこなくても(むしろその場合余計に)、非合理的な行動を理解すること自体が合理的な行動を理解することよりも難しい。非合理的な行動を理解するには、合理的な行動とは何かを理解したうえで、そこから外れた非合理的な行動に規則性(バイアス)を見い出し、それを合理的(論理的)に理解しなければならないからである。金融・投資行動や証券市場に観察される限定合理性を理解するには、こうした2つの問題を考える辛抱強さがどうしても必要になる。誤行動の単なる事例集にならないように、本書では非合理的行動のメカニズムやそれらの相互関係をできるだけ端折らずに理屈で説明するように心がけている。読者のみなさんには、辛抱強くそのロジックを辿っていただくことで、行動経済学や行動ファイナンスの楽しさや深さを味わってもらいたい。
ファイナンスについての知識を持たない読者は、第1章の補論と第6章でその基本的な考え方を概説しているので、最初にそこを読んでいただければ以後の理解が容易になるはずである。行動経済学の知識については、それがなくとも読めるように配慮した。各章内の説明も章の並びも、全体として、基礎から応用へ、理論的な説明からデータによる検証へ、という流れで構成されているので、時間が許せば序章から終章まで順に通読していただきたい。とはいえ、とくにマーケットデータを用いた検証に関心がある読者は第6章以降の後半から読むのも一案だろう。逆に認知能力やヒューリスティック、自信過剰、リスク態度などの心理学的要因に関心のある読者にはとくに前半部分を読んでいただきたい。
また本書では、データの処理や実証・検証の方法についても、詳しく説明している。読者が自分で用意したデータを使って、それらの方法が活用できるようにとの配慮からである。たとえば、プロスペクト理論や自信過剰に関連するパラメーターの推定、リターンの予想歪度の推定、意思決定ウェイト付け関数の計算、ファーマ=マクベス法、イベントスタディの方法、機械学習や深層学習を用いた投資戦略の設計などがそれである。大学・大学院や社会人研修で教材として使う場合には、これらの説明を利用して演習の要素をクラスに取り入れることを勧めたい。
本書を執筆するにあたっては、関西学院大学や大阪大学での同僚や元同僚、共同研究者の方々、学協会(行動経済学会、日本経済学会、日本経営財務研究学会、日本ファイナンス学会、日本証券アナリスト協会)でお付き合いいただいている方々、行動ファイナンスワークショップや資産価格研究会のメンバーなど、数多くの方々にお世話になった。とりわけ、本書の内容をテーマとして行った行動ファイナンスワークショップ(2020年11月開催)に参加された小川貴之氏、小島健氏、康明逸氏、坂本淳氏、高橋秀徳氏、中尾田宏氏、村宮克彦氏、山﨑尚志氏、資産価格研究会をオーガナイズされている福田祐一氏と堀敬一氏、そして本書企画の方向性についてご意見を伺う機会を頂戴した大垣昌夫氏に記してお礼申し上げたい。ただ、上記ワークショップに参加された平田憲司郎氏は2024年1月に急逝されたために、感謝の気持ちを伝えることができないのが残念でならない。
また、伊藤悟視氏、中筋萌氏、羽室行信氏、および村宮克彦氏は、共同研究の一部の結果を本書に利用することを快諾してくださった。中筋氏にはデータ処理や推定作業にもご協力いただいた。心からお礼申し上げたい。
本書で扱ったいくつかのトピックについては、とくにその分野で仕事をされている研究者の方々にこちらから個別に問い合わせをしたうえで、議論を通じて理解を深め正確を期すという方法をとった。曖昧さ回避については小川貴之氏と坂本淳氏から、後悔回避については秦劼氏から、そして会計発生高の問題については村宮克彦氏から数多くの貴重なご示唆とご指導をいただいた。ここに記してお礼申し上げたい。もちろんなんらかの誤りなどがあれば、私たち筆者の責任に帰されることはいうまでもない。
序章で詳しく述べるように、本書の議論の多くがNTTデータ経営研究所による全国ウェブ調査のデータに依拠している。その機縁をお作りいただいた萩原一平氏と、調査票作成からデータ利用に至るプロセスでご助力いただいた高山文博氏および中村友昭氏、そしてデータの利用をご快諾いただいた同研究所にお礼申し上げたい。
私たち2人が行動ファイナンスをテーマとする本書を共同執筆することになった背景として、この分野を長年リードされてきた加藤英明先生(名古屋大学名誉教授)、榊原茂樹先生(神戸大学名誉教授)、および筒井義郎先生(大阪大学名誉教授)のお三方に2人ともがこれまでなんらかの形でご指導いただいてきたことがある。このテーマの面白さと奥深さを教えていただいた先生方にこの場を借りて心からお礼申し上げたい。さらに、小野善康先生(大阪大学特任教授)には、本書出版の機縁となった日経BP 日経BOOKSユニットの田口恒雄氏をご紹介いただき、さらには池田が分担者として参加する科研費基盤研究(S)の代表者としてご協力とご鞭撻をいただいた。記して深謝したい。
本書の企画は、同一部局(関西学院大学経営戦略研究科ビジネススクール)のファイナンスコースに在籍する私たちが田口恒雄氏にご相談した2018年5月に始まる。氏は、6年を超える耐久レースに辛抱強く伴走してくださるとともに、内容と構成についての貴重な提案を数多くしていただいた。氏のご尽力に心からお礼申し上げたい。なお、本書のベースとなる研究に対しては、文部科学省科学研究費の助成(20H05631〈基盤研究S〉、24K00298〈基盤研究B〉)を受けている。
最後に私事ながら、普段から研究生活に協力してくれている家族に感謝したい。池田は妻恵子に、岡田は妻薫子に、この機会を借りて感謝の気持ちを伝えるものである。
2025年1月末日
池田新介・岡田克彦
【目次】



