その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は金田章裕さんの『 地形で読む日本 都・城・町は、なぜそこにできたのか 』です。
【はじめに】
幕末の倒幕と明治維新の主力となったのが、「薩長土肥」の四藩だったことはよく知られている。島津氏の薩摩藩と毛利氏の長州藩、そして山内氏の土佐藩と鍋島氏の佐賀(肥前)藩だった。この四藩はいずれも、徳川幕府と近い親藩や譜代大名ではなく、外様大名だ。領地も九州や四国あるいは本州西端といった、幕府所在地の江戸から最も遠い遠隔地にあった。
四藩が外様大名だったことは、徳川政権の成立に際して敵対勢力だったり、非協力だったりするなど、それぞれの歴史的背景を背負っていたことに関わるだろう。
さらに、江戸から離れた領地もこれに関わる面がある。とりわけ幕末の激動の時期、これら四藩出身のきわめて多くの人々が活躍したことには注目される。非常に多いので異論もあろうが、各藩出身者から象徴的に一人ずつあげるとすれば、薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允(桂小五郎)、土佐の坂本龍馬、佐賀の江藤新平だろうか。
しかし外様大名であることや、これらの人物の活躍だけが、倒幕・明治維新の推進力となった理由ではない。大きな理由はほかにもあると思われる。
地図を広げてみたい。この四藩の位置の共通性は、江戸から離れた遠隔地だったことに加え、いずれも海に面していることだ。島国の日本で、多くの地域が海に臨んでいること自体は珍しくはないが、幕末の時期においてはこの共通性に大きな意味が加わった。
薩摩藩は城下の鹿児島が錦江湾に臨み、また藩内の坊津が直接東シナ海に開いているだけでなく、琉球とも貿易を行い、西欧近代技術の導入が可能だった。藩主島津斉彬は集成館(現尚古集成館)を設置して反射炉・溶鉱炉・蒸気船などを建造し、近代化の先駆だった。
長州藩は西廻り航路の拠点だった下関(赤間(馬)関、馬関とも)を擁し、さらに城下の萩は日本海に、御船手組(水軍)の拠点を置いた三田尻(防府)は瀬戸内海に臨んでいた。下関は、文久三年(一八六三)の下関事件はじめ、元治元年(一八六四)に英・仏・蘭・米の連合軍と戦った下関戦争の舞台でもあり、近代装備の列強との武力抗争における最初の接点でもあった。
土佐藩も直接太平洋に臨んでいるが、脱藩した坂本龍馬は、当時最大の海外窓口だった長崎において活動した。日本最初の商社ともいう「亀山社中」を設置し、それがやがて「海援隊」となった。
有明海に臨む佐賀藩もまた、福岡藩(この四藩に入っていない)とともに長崎警護に当たっていて、文化五年(一八〇八)に英艦船フェートン号が侵入した事件に遭遇するなど、ヨーロッパの動向に実際に接していた。それが、近代技術の導入を進め、日本最初の蒸気船の建造や反射炉の建設などに結び付く契機だったと思われる。
以上はよく知られた状況だろう。鹿児島・下関あるいは長崎が、倒幕・明治維新を推進した四藩における、経済力の獲得あるいは近代化の窓口だったことが理解され、改めて幕末の動向の基盤の一つが知られる。
しかしこの事実は、各藩の歴史的な経緯だけからもたらされたものではない。その背景には各藩の位置や対外交易が絡んでいた。周知の手法だが、地図を読み解いて立地状況を理解し、また地形環境を知ることが、このような理解を導く一つの重要な手がかりとなろう。これは歴史地理学において最初に試みる、いわば初歩的・基礎的な手法だ。
もとより地図には、古地図から現代の地形図に至るまで、さまざまなものがある。しかし、情報が不十分で、測量や表現の技術が未発達な時代の古地図であっても、人々がどのように土地や場所を理解していたのかを、かえって明瞭に読み取ることができる場合がある。また古地図から近代地図へと発達したことにより、地表のいろいろな事象の位置や地形の表現が豊かに、しかも正確になった。
国土をどのように認識してきたのか、なぜしばしば古代の宮(みや)や都(みやこ)の位置が遷ったのか。なぜある時は山に、ある時は平地に城郭が築かれたのか。どのようにして城下の町がつくられ、また都市が発達したのか。これらの疑問には、当然さまざまな要因が絡んでいる。
古地図や地形図など、いろいろな地図を読み取り、また地形を観察することによって、この疑問に接近できる場合がある。本書では、位置や地形に注目しつつ私たちがたどってきた歴史を振り返り、その構造と底流の一端に迫りたい。
【目次】