その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は金田章裕さんの『 なぜ、日本には碁盤目の土地が多いのか 』です。
【はじめに】
人は土地に居住し、村落や都市を形成してきた。人はまた、農業を営み工場や商店・オフィスを設営するのにも土地が不可欠であった。そのために人は、土地に所有権を設定したり、利用のための用益権を獲得したりした。その際、何らかの形で権利の範囲を区画する必要がある。日本では、このような土地区画のほとんどが正方形や長方形である。本書の目的は、日本にはなぜ碁盤目の土地区画が多いのかを探ることにある。
現代の私たちが目にすることのできる日本の農地には、とりわけ方形(正方形や長方形などの四角形)のものが多い。市街地でも、多くの街路が碁盤目のように直角に交差しているのが普通である。街路に区画された街区はもとより、すぐには目につかないが一つ一つの宅地や施設の敷地もまた、方形の土地区画であるのが一般的である。方形でなければ、むしろなぜかと考えることがあるかもしれない。
例外はあるものの、日本ではほとんどの場合、大小の土地区画は基本的に方形を志向している。狭小な国土をくまなく区画するのであれば、蜂の巣状や三角形など、ほかの形状もあり得るのである。どうして、このような碁盤目の区画への志向性が中心となったのであろうか。
例えば京都の中心市街が、東西方向と南北方向の方格状の街路網で構成されていることは広く知られている。斜交する道路がないので、目的地が出発点と同じ東西あるいは南北方向の道路沿いでなければ、必ず大小の交差点を直角に曲がりつつ、直角三角形の二辺をたどる形で進む必要がある。しかしその一方、東西方向と南北方向の街路の間隔がほぼ一定(東西道路の南北の間隔が約一二〇メートル、南北道路の東西の間隔はその半分の約六〇メートル)なので、これを承知していれば、ほぼ間違いなく、容易に目的地に歩き着くことができる。
この街路パターンの場合、基本的に八世紀末の平安京の方格プラン(方形の外形と碁盤目状の街路網)に由来することは、すでによく知られているところであろう。平安京以前の長岡京や平城京でも類似の方格プランであった。京都の場合、豊臣秀吉の政策によって南北方向の街路が加えられ、東西の街路間隔が南北のそれの半分となっている場合が多いことが特徴である。
代表的な他の大都市を眺めてみたい。大坂(大阪)は豊臣秀吉による一六世紀末の都市建設に由来するが、上町台地西側の平地にある船場・島之内などの中心市街は、やはり碁盤目状の街路パターンである。
一七世紀初めごろに徳川家康によって建設された名古屋もまた、平坦な熱田台地上の中心市街は碁盤目状の街路パターンで構成されている。大阪・名古屋の中心市街は、ともに碁盤目状街路を基礎としているのである。
ただし名古屋と同様に、やはり家康が建設した江戸(東京)の場合は、これらとは様相が異なっている。江戸の中心市街の特徴を一言で表現するのは難しいが、あえて言えば、さまざまな方格街路網からなった、複雑な単位のパッチ状(つぎはぎ)の集合である。
例えば五街道の起点であった日本橋から、北への街道沿いの室町一~三丁目付近の両側はほぼ長方形の街区からなり、南への南一~四丁目付近は菱形にゆがんだ長方形の街区からなる(元禄三年「江戸御大絵図」など)。各パッチ内では、ややゆがんでいる街区群の場合があるが、街路は直交ないし平行を志向した形でつくられていることは確認できる。
このようなパッチ状の集合には、台地と低地が複雑に入り組んだ地形と、江戸に多かった大火による被災と復興がかかわっている側面もあろうが、それでも方形街区への志向は見られる。
ところが、私が初めてフランスのパリを訪れたとき、これらとは全く異なった街路パターンと街区の形状に驚いた。まっすぐなシャンゼリゼ通りの西北端にある凱旋門へ行くと、その周囲の広場から放射状に直線の街路が延びていた。また、オペラ座の南側前面の広場や、イタリア広場からもそれぞれ、やはり放射状に街路が延びていた。その結果、中心広場に沿って湾曲した建物があり、広場付近には鋭角となった街角が存在した。オペラ座の付近などでは、ほぼ三角形の街区や、三角形の街路に沿った一つの大きな建物さえ存在する状況が見られた。
しかもパリにおける、これら放射状の広い直線街路に接続する小街路には、さまざまな方向の短いものや、さまざまに湾曲したものが極めて多かった。市街図を見ると、旧市街はむしろこれらの小街路が不規則につながり、網目状に広がっている状況である。
もともとパリ市街は、周囲を取り巻いていた囲郭(城璧)の中に、湾曲した街路が網目状に広がるのが一般的であったが、都市の発達とともに囲郭を外側へと拡張して市街地を拡大し、一層複雑な街路網となっていったのである。
現在見られる放射状の直線道路や、それらに沿って並ぶ、高さのそろったビル群は、近代になってからの都市改造の結果である。一九世紀中ごろ、第二共和制のフランス大統領に当選したナポレオン三世の下で、セーヌ県知事であったG・E・オースマンによって実施された市街再編によるものであった。オースマンが新設した街路は八〇〇キロメートル以上に及ぶという。
このようなパリにおける、網目状街路に放射状街路が加わった街路パターンと、三角形を含む多様な形状の街区は、京都における方格状街路と方形の街区とは極めて異なった形状である。しかも日本の場合、京都ほど典型的ではなくても多くの都市が、さまざまな時代に碁盤目状の街路を志向してきたことは、大阪・名古屋などの例を挙げたとおりである。地形的制約の多かった江戸でさえ、各パッチ内では類似の志向があった。
さらに日本では、水田に代表される耕地もまた碁盤目状に区画されているのが普通である。歴史的にその志向が強いのみならず、現代でもその傾向は続いている。日本では、市街であるか農地であるかを問わず、土地区画には碁盤目の形状、方格の形状となっている場合が圧倒的に多いのである。
このように見ていくと、私たち日本人はこのような方形の土地区画が当たり前だと感じているように思える。逆に方形でなかったり、ゆがんでいたりした場合に、なぜかとその理由を考えることになるようだ。それがどうしてなのかについて考えてみるのが、本書の目的である。
第1章では、「さまざまな土地区画」を改めて取り上げて、土地区画が、何のためにどんな役割を果たしてきたかを探りたい。土地の区画にかかわるいろいろな表現を振り返り、「土地区画」「土地計画」などの用語を使用する意図についても取り上げたい。
第2章では、本書の主題の基礎となる、日本の「碁盤目区画の成立と展開」の過程をたどってみたい。
第3章では世界に目を転じて、古代中国・ローマ以来の「旧世界の多様な土地計画」の存在について、方格の土地計画と土地区画の例や、多様で不規則な土地区画の展開について考えたい。
第4章ではさらに、北米・オーストラリアなど「新世界の土地計画と碁盤目」の展開の様相を見渡し、その発生の過程と特性について考えるとともに、伝播の状況をたどりたい。
第5章では日本の場合に戻り、いろいろな企図のもとに、さまざまな形状の「近現代の方格地割」が形成される過程を眺めたい。
第6章ではこれらの検討を踏まえ、「なぜ碁盤目を志向するのか」について、改めて考えてみたい。
【目次】