その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は伊藤恵理さん、鈴木均さんの『 空の地経学戦略 日本の経済安全保障と航空サプライチェーン 』です。

【プロローグ】

 世界は、どこに向かっているのか。
 これは、世界を理解するための前提が揺らぐたび、繰り返される問いである。しかしいま、それを問うだけでは不十分だ。予見可能性が低下し、世界の進路が見えないなかで、自国の針路を選ばざるを得ない時代に入ったからだ。かつては、世界を読み解くための共通の前提があった。誰が秩序を支え、どこに力が集まり、どのルールに従えばよいか──しかし、その見取り図は、もはや通用しない。

 2012年、地政学の世界的第一人者であるイアン・ブレマーは、『「Gゼロ」後の世界』を世に問うた。彼が提示した「Gゼロ」とは、冷戦期の米ソによる「2極」でも、米国一強の「単極」でもない。どの国も世界を主導せず、ルールも責任も宙づりになった「無極」、すなわちGゼロへの移行を喝破したのだ。

 10年余りを経た現在、ブレマーの診断は、冷徹な現実として私たちの目の前に存在する。先進7カ国による協調的リーダーシップ、G7(先進主要7カ国)は冷戦期に世界経済のGDP(国内総生産)の6割を占めていたが、コロナ禍が明けた2023年時点では、7カ国合計で4割まで低下した(日本経済新聞、2023年5月16日付)。そしてブレマーが指摘したとおり、中国やロシアも参加するG20(金融・世界経済に関する首脳会合)はメンバーが多様すぎ、枠組みと呼べる一貫した成果を挙げていない。私たちはいま、極のない、混沌とした世界を生きている。
 この世界観は、ブレマーが著書の英語原題に込めたメッセージにも端的に表れている。原題は「すべての国家は自国第一へ(Every Nation for Itself)」、そして副題には、「Gゼロ世界の勝者と敗者」という挑発的な言葉が添えられた。興味深いのは、のちに米国のドナルド・トランプ大統領が選挙戦で好み、民主党にレッテル貼りをした「敗者(loser)」という言葉が、この時点で使われていた点である。中国やロシアによる軍事的・経済的な地政学上の脅威に直面し、米国が率先して経済グローバル化に背を向け、保護主義的「自国ファースト」な政策に傾いていく。そんな10年後の世界を、まるで予見したかのようだ。
 こうした「無極」状態のなか、自国の影響力を最大化するため、軍事的・経済的な覇を競う米中は、お互いをG2という「2極」として認め合う定義を試みてきた。2007年5月、中国海軍幹部は米軍幹部に対し、米中が太平洋の東西をそれぞれ「分割管理」するよう提案した。当時のバラク・オバマ大統領は2009年11月に訪中した際、胡錦濤国家主席に対し、米中の戦略的相互信頼の構築と強化のためのG2を提案し、中国により大きな国際的な責任と役割を負わせようとした。そして2期目のトランプ大統領は2025年10月、釜山で開かれた習近平国家主席との首脳会談を「G2」と称した。
 だが、これらの試みは、世界を安定した2極構造へと収斂させるには至っていない。理由は単純であり、同時に本質的だ。米中は、国家の成り立ちも、戦略の前提も、まったく異なる存在だからである。

 地政学の視点から見れば、米中は対照的な国家像を持つ。米国は領土こそ広いものの、海に囲まれている。中国はユーラシア大陸の東側に大きな領土を持ちつつ、近年は海洋進出も活発だ。両方の要素を含みつつ、米国は海洋国家、中国は大陸国家と整理されてきた。

 海洋国家は、争うのではなく、富を蓄積することに専念する。領土ではなく富にパワーは根ざすとみているからだ。だが、現在(トランプ政権2期目)のアメリカは、まるで大陸国家のように振る舞っている。大陸国家のパラダイムに回帰すれば、アメリカは再起不能に陥るかもしれない。(サラ・C・M・ペイン)

 「陸か、海か」──地政学はこの2つの軸を中心に世界秩序の力学を説明してきた。中国やロシアといった大陸国家に対し、海洋国家である日本と米国はいかなる戦略で対峙すべきか。これは古典的な問いでありながら、2020年代後半の国際情勢に深い影を落とすテーマでもある。
 米海軍大学校名誉教授サラ・ペインは、フォーリン・アフェアーズ誌(2025年10月号)で、海洋国家としての米国がいま、自らその矜持を手放しつつあると警鐘を鳴らした。彼女の議論は鮮烈だ。大陸国家は世界を巨大な勢力圏へと分割しようとし、海洋国家は外洋に守られるがゆえに〝富の蓄積〞を基盤として繁栄する。にもかかわらず、米国には2期目のトランプ政権下で〝陸上国家化〞の兆しがあるという。

 しかし、この議論には決定的に欠けている視点がある。
 陸と海の上に広がる、第3の戦略領域──「空」である。

 航空・宇宙は地政学と無関係なのか。もし米国が自由貿易やイノベーションを支えてきた移民受け入れなど〝富の生成メカニズム〞を弱めつつあるのなら、その兆候は旅客と貨物を輸送する世界の空港とのつながり、すなわち空のネットワークにこそ最も早く表れるはずだ。「航空覇権」「エアライン(航空会社)覇権」といった言葉は耳にするものの、国家の地政学的競争を「空」から読み解く発想は、まだ一般化していない。だからこそ本書は、陸と海に偏ってきた常識を覆し、空における覇権争い──「空の地政学」、さらに地政学に経済・産業の視点を加えた、「空の地経学」という新たな視座を示す。
 米国の相対的衰退、中国という挑戦者、インドの台頭といったグローバルダイナミクスのなか、日本は、そして欧州・東南アジアを含むアジア太平洋・中東の各国は、空の時代をどう生き抜こうとしているのか。その姿は、空港や航空ネットワーク、ヒトとモノの動き、航空インフラの設計思想に克明に刻み込まれているはずだ。国家の国力を測るには、軍事力や経済力だけでは不十分だ。空の国力は、空軍力だけでなく、民間航空の強さ、国家間・空港間ネットワークの広がりと強度、航空行政にかかる国家・企業戦略、そして空輸される膨大な旅客・貨物の輸送量──これらの総合力で決まる。

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 これまで航空行政やエアラインビジネスの分析は、紛争や安全保障上の脅威を「例外」として扱いがちだった。だが米中対立は上流のレアアースに始まり、航空機を主な輸送手段とする半導体やその製造装置の輸出規制へと波及し、自由貿易の前提そのものが揺らいでいる。経済は武器化され、航空輸送はその最前線に立たされた。
 飛行機が運ぶのは観光客だけではない。電子機器、半導体、部品、製造装置、医薬品、ワクチン──国家・企業の生命線が空を行き交っている。これらは、貨物専用機だけでなく、旅客機のベリーと呼ばれる下部デッキの貨物室にも搭載される。だからこそ企業は、これまでの〝コスト最適化〞だけではなく、経済安全保障の視点を組み込まなければならない。2019年末に端を発したコロナ禍を経た私たちは、航空サプライチェーンの大切さを痛感したはずだ。巣ごもり需要で逼迫した半導体をはじめ、ノートパソコンやスマートフォン、ゲーム機の部品や完成品も航空輸送で運ばれる。

 ロシアによるウクライナ侵攻以降、西側エアラインはコスト増を受け入れながらロシア領空を迂回し続けている。台湾有事を含む潜在的な紛争リスクは、空の路線網に直接影響を及ぼす。本書はこうした〝有事想定〞を平時の時点で積極的に掘り下げて、それに備えることを目指す。これまでの地政学における分析軸は地形・気候・海洋アクセスといった〝陸海中心〞に偏っていた。空の国力を測るには、この枠組みではもはや不十分である。経済・産業・社会のダイナミクスを織り込むことで、空のつながりネットワークは初めて立体的に理解できる。それが本書で提示する空の地経学である。
 空の地経学が見据えるのは、私たちの頭上を日々行き交う航空旅客機や貨物機が飛ぶ空間である。高度にしておよそ4万フィート、地上から約12キロメートルまでの「空」だ。この上に広がるいわゆる宇宙は、本書の主題ではない。しかし、宇宙が無関係というわけでもない。宇宙往還機は航空輸送のあり方を変えつつあり、現代の航空機は衛星航法なくして飛ぶことはできない。航空と宇宙は、分断された領域ではない。航空をめぐる競争力、サプライチェーン、安全保障を考えるうえで、両者は一体として捉え直される必要がある。本書は、その現実を踏まえた視座から「空」を読み解いていく。

 日本は海上輸送に依存する海洋国家でありながら、それを補完する〝空の戦略〞が十分に設計されてこなかった。『海の地政学 覇権をめぐる400年史』の著者、竹田いさみは著書の冒頭、日本の港湾における重量ベースの貿易額を紹介し、海運を分析する重要性を強調する。日本の輸出入の99・6%が海上輸送に担われており、米国を中心としたルールに基づく国際秩序に挑戦する存在として中国を描く。だが税関の統計を見ると、重量ベースではなく、貿易額(価値)で計算する輸出入合計の1位は、成田国際空港(輸出入合計で36兆8334億円:2024年)である。2位が東京港、3位に名古屋港が続き、空港では関西国際空港(11兆4573億円:2024年)が6位にランクインしている。日本経済を支えているのは、海運と航空輸送、両方である。経済成長と技術開発に直結する付加価値については、同等かそれ以上に航空輸送が重要なのである。
 貿易に加え、これを支えるモノづくりも重要である。日本はコロナ禍において国産旅客機開発を断念したが、部品・素材・製造装置では世界トップレベルの競争力を持つ。そしてそのグローバルなサプライチェーンは、航空輸送で支えられている。だからこそ日本は、空のネットワークを強靭化し、国家戦略として航空輸送を戦略的に構築する必要がある。
 しかし、日本の空を取り巻く国際環境は、コロナ禍を脱したいまも厳しさを増している。米国でさえ〝陸上覇権国家〞として振る舞い始めたいま、日本は米中の狭間で埋没するのか──。東京大学大学院教授で地経学研究所の所長である鈴木一人は著書『地経学とは何か』で、大陸国家と海洋国家の違いをこう述べる。

 大陸国家は陸の戦力を強化して自国を守り、国境を接する国家との力関係を重視[するが]、海洋国家は、海上交通の安全を確保しながら、様々な国と接することが可能なことから、グローバルな力のバランスに関心を持つ。(『地経学とは何か』新潮選書)

 空の地経学戦略とは、この〝海洋国家のアプローチ〞を空でも徹底し、海運も含む日本のグローバルなつながりを強化することだ。つながりを広く保ち、ネットワークを強靭にし、グローバルな最適解を理解し、仲間を増やす。そのうえで、宇宙トラフィックや宇宙港の安全保障、インフラのサイバー耐性、衛星通信の防護といった新たな課題へ踏み出していく。
 本書は、航空輸送の地政学・地経学という未踏の領域に光を当て、日本を「したたかで強靭な航空国家」として構築する道筋を描く試みである。
 日本は海洋国家であると同時に、空の国力を備えた「航空国家」に進化しなければならない。これは理念ではなく、地政学と経済合理性を前提としたとき、日本がいま向き合うべき戦略課題である。

 航空国家とは、単に航空機や空港を多く持つ国のことではない。空という空間を、国家の競争力、回復力、そして戦略的選択肢として使いこなせる国のことだ。
 空の国力の大前提は、空軍力である。日本の場合、自衛隊が保有する戦闘機や支援機、輸送機に加え、今後は各種のミサイル、衛星、無人機、ドローンの調達と運用も鍵となる。防衛力に加え、国境を守る海上保安庁や税関、入管などによる国境警備や空港などのセキュリティも含めた「守る力」、その能力の総体が問われる。第2次トランプ政権で日米同盟のあり方が変質し始めており、日本は自律した防衛能力を戦略的に強化する必要がある。
 そのうえで、航空国家の真価が発揮されるのが「攻め」の領域だ。それは、民間航空を中心とした空のつながりの設計力である。民間航空の強さ、海外の空港とつながる強度、つながりが切れた際の回復速度がそれに当たる。各国を結ぶ航路は多ければいい、というほど単純ではない。民間エアラインに赤字路線の維持を求めては、国家戦略として強靭とはいえない。旅客と貨物の輸送をバランスよく拡大する、最適かつ強靭なつながりを構築し、強化しなければならない。有事に際して一部の航路が通行できなくなっても、旅客と貨物の輸送が途絶えない、回復力の強いネットワークを構築する必要がある。
 ここで重要になるのが、航空輸送、すなわちスカイレーンの独自性・優位性である。航空輸送は、国際性の豊かさに加えて、海上輸送(シーレーン)や陸上輸送(ランドレーン)に比べ、速達性と即時性が高く、接続性の自由度が大きい。国境や地形といった物理的制約に強く縛られる海運や陸運と異なり、空運は状況に応じてより柔軟に経路を組み替えることができる。空という空間は、陸や海に固定されたインフラと比べても、再設計可能なネットワークになり得る。この特性により、スカイレーンは切断を前提にしながらも、迅速な再接続が可能な輸送体系となる。不確実性が常態化した時代において、スピードと柔軟性、そして国際性を兼ね備えた航空輸送は、戦略的価値を増している。
 国家間・空港間ネットワークの拡大と強度・速度の向上は、民間のエアライン単独では達成が難しい。航空行政に関わる国家戦略、空港の活性化とこれまで以上の安全および円滑さの確保、燃料や整備部品、製造装置などの供給網の強靭化、ヒトの育成、労働力不足を補う技術革新など、短期では成果が出にくい分野への投資が必要だ。民間単独では決断が難しい分野において官民連携を強化し、企業を過度な規制によって縛ることなく、他方で安全に関わる分野ではむしろ政府の役割を強化する、絶妙なバランスが求められる。
 こうした空の国力、航空分野の地経学的な強靭化には、航空と隣接する官民分野との連携も不可欠だ。航空機が運ぶ膨大な旅客・貨物の輸送量は、経済・産業・社会の強みと弱さを映し出す鏡だ。元米海軍大将のジェイムズ・スタヴリディスは著書『海の地政学 海軍提督が語る歴史と戦略』のなかで、シーパワー(海上権力)としての戦略を考える際、歴史的、文化的、政治的、経済的、軍事的要因を考える必要があると強調する。海と同様、相互につながる一つのグローバル公共財として機能する空の世界も、同様の思考が必要だ。経済や社会のフロンティアを切り拓く技術開発や生産能力の国内回帰など、ヒトとモノの動きを活性化して〝戦略的自律性〞を向上させる。こうした地道な努力の先には、日本にしかできない技術やサービスの提供という、〝戦略的不可欠性〞の獲得がある。

 空の地経学は、産官学による国力強靭化の試金石だ。日本はもはや他国に依存し、模倣するだけでは生き残れない。自ら世界を読み、自ら意思決定し、空のつながりを戦略的に強化していく必要がある。日本は、航空国家であってこそ、海洋国家としての地位と可能性を、さらに高めることができる。
 空の世界的な中心は、いまなお米国にある。この現実を踏まえつつ、日本は米中とインド、アジアを結ぶ結節点としての位置を戦略的に強化していくべきだ。海に囲まれた日本は、海運においてはチョークポイントを他国に握られている。一方で、そうした隘路(あいろ)が少なく、迂回時の遅れの回復が海運よりも早い航空分野にチャンスがある。


【目次】

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