その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は金田章裕さんの 『地形と日本人 私たちはどこに暮らしてきたか』 です。

【はじめに】

 東京湾の奥や沿岸、また大阪湾の奥や沿岸にも、次々と新しい高層マンションが建てられている。これらの湾奥には、いずれも大河が注ぎ込んでいる。言うまでもなく、東京湾には隅田川、大阪湾には淀川であり、それぞれの地元ではかつて、いずれも「大川」と呼ばれていた。

 これらの川沿いや河口付近は、しばしば水害に襲われてきた土地であった。最大の理由は築堤技術の不十分さにあった。人々はこれらの土地を、小規模な洪水であれば被害の少ない水田などとして利用し、住居は水害を受けにくい、より安全な、少しでも高い土地に建てようとした。

 自然にできた微高地で足りない場合は、人工的に盛もり土をしたり、屋敷地の一画において、さらに一段高い「段だん蔵ぐら」(71頁写真2―1)と呼ばれる別棟(淀川流域の場合)を建てたりして水害に備えた。木曽川下流域の場合では、このような別棟を「水屋」と呼び、そこに臨時の生活の準備を整え、さらに軒下に小舟を吊るして洪水に備えた。

 ところが、近代に入って築堤技術が進み、現代においては重機やコンクリートの発達によって、それがさらに進展した。人々はかつての水害への警戒を解き、川沿いの低地が安全な土地であるかのような、一種の錯覚を持つに至ったものであろう。その結果の代表例が川沿いの高層マンション群である。

 この動向を決定付けたのは、市街地に比べ、川沿いの低地の利用度が低いと考えられていたことである。かつて川沿いの水害常襲地であった低地は、水田などとして利用されていたとしても、確かに宅地はほとんど存在せず、大規模開発の業者にとってはかえって広い開発用地を入手しやすい場所であった。何よりそのような土地は、通常の市街の宅地に比べて地価が著しく低廉であった。

 その結果、川沿いの低地に、多くの高層マンションの建設や住宅団地の造成が進むこととなった。広い用地を求める公共施設や工場などにとっても同様である。土地が水害にみまわれる危険性よりも、用地の広さと地価の安さが優先された結果と言えよう。

 川沿いの開発は冒頭にあげた隅田川や淀川にとどまらない。

 日本の各地で、土地の地形条件を無視した開発が進行している。極端な表現をすれば、川沿いの低地に立地する各種の大型施設や住宅は、危険性の無視、用地の広さ、地価の安さ、という条件の下で成立していると言ってもよい。

 川沿いの低地の地形条件は、どこでも同じように整地されてコンクリートで覆われた現在の状況から、一見してすぐに理解できるものではない。

 私たちの暮らす地形が、もともとどのようにしてつくられ、どのような性格の土地であるかを、まず知る必要がある。さらに、人間がどのようにその土地を利用してきたか、またどのようにその土地を改変したのか、といった事柄について確認する必要があろう。

 検討のためには、土地、つまり空間にまず目を向けねばならないであろう。しかもその土地の変化を、時間的にも検討しなければならない。つまり空間と時間の双方を視野に入れる必要がある。

 本書ではまず、空間と時間に同じように目を向けている、歴史地理学の視角を紹介したい(第1章)。

 次に、日本の平野の地形が、基本的に河川の浸食と堆積でできていること、および結果として存在する、いろいろな地形の基本的な特性を振り返りたい(第2章)。

 私たちが暮らしてきた平野は、河川がつくったものであるが、日本人は一方で、苦労して平野の河川に堤防を築き、水害を防ごうとしてきた。実際の格闘の例をいくつか紹介する(第3章)。

 次に、少し視野を変えて、海辺や湖辺、また山地や丘陵の山裾の変化にも目を向けたい(第4章)。これらの場所は地形変化の先端といってもよいほど、動きの激しい部分である。これらの崖や平野の縁辺は、平野とは別の価値をもって利用されたり、時に愛めでられたりした。具体的な様子を紹介したい(第5章)。

 地形の変化は自然現象としても現れるが、人工的にも大きな改変が加えられてきた。さらに、全く「人がつくった土地」についても見ていきたい(第6章)。章の後半では、これらの変化への「土地の記憶」とでも言うべき状況についても触れておきたい。

 私たちは、土地にさまざまな名称(地名)を付して、場所を特定してきた。ところが地名は変化したり、意図的に変えられたりした。そこで視点を変えて、地名の変化についても眺めておきたい(第7章)。地名は土地の記憶を語る場合がある貴重な資料であるものの、歴史的に変化する場合があることに注意を払わねばならない。

 最後には、空間と時間のみならず、立地や環境にも関心を向けてきた地理学のいくつかの視角を紹介しておきたい(第8章)。空間に関心のある方には、目を通していただければ幸いである。

 土地の性格や変化そのものに関心の深い方は、第2章から第7章を先にご覧いただき、その後で第1章と第8章に目を通していただく場合もありうると思われる。

 本書は、私たち日本人がどこで暮らしてきたかについて、振り返ることを目的としている。暮らしてきた場所の地形が、どのような特性を持っていて、どのように変化してきたのかについての見方を紹介しようとするものである。

 近年各地で発生している水害や地形災害は、単に気候温暖化とか、異常気象とかだけで説明できるものではない。水害や災害がどこで、どのように発生したかについて理解を進めるためにも、地形環境やその歴史的改変に注目しなければならない。小著がその一助となることを願いたい。


【目次】

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