その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は山口一男さんの『 合理性と社会 自由と秩序を個人の側から考えるための経済社会学 』です。序章の抜粋をお届けします。

【序章】 本書の動機と意図

 本書は、方法論的個人主義(この用語については第Ⅰ章で解説する)に基づく社会学理論について解説することを主たる目的としている。「社会学理論」という言葉を聞いて、何か具体的なイメージを持っている人は、いるだろうか。いやそれ以前に、社会学理論について学ぶことに、何の益があるのだろうか、と聞く人もいるだろう。社会学とよく対比されるのは経済学で、「経済学専攻のほうが就職に有利だ」という意見や、「経済学は処方的(prescriptive)で、(合理的基準からみて)何を選択したら良いかについて指針を与えるのに、社会学は記述的(descriptive)で、何が問題だというだけで、ではどうしたら良いかについて、指針を与えない」といった批判がある。

 実際、経済学では一定の社会のあり方を良いとする基準自体が理論の中に組み込まれているのに対し、社会学はそうではない。しかし逆に言えば、社会学では事実はどうかということを明らかにすることと、より良い社会はどうあるべきかという判断基準が比較的切り放されているため、後者をより自由に考えることができるというメリットもあることを意味する。「比較的」というのは、社会的機会の平等や社会的差別の不当性といった自由社会の基本的理念は、ほぼすべての社会学者に共有されている価値観といえるからである。

 はじめの質問に戻って、社会学理論を学ぶ益は何か。もちろんそれは社会の仕組みについて理解を深めることが、個人にとっても、社会にとっても益があるからだが、「個人にとって」ということには、いくつかの意味がある。まず社会について学ぶということは何を意味するかに関し、本書が特に何を強調しているか、具体的には本の中身を読んでもらわないことにはより明確にはならないが、あらかじめ述べておきたい。

 1つは、社会の理解に関する英語で言うリーズニング(reasoning)を身につけることである。つまり社会の仕組みについて論理による説明のしかたを知ることである。本書は社会学の特徴とされる事実の「記述」ではなく、事実の「説明」に重点を置いている。

 かつて筆者は人々の「多様性」に価値を置く考えをファンタジー寓話の世界で描くことを試みる『ダイバーシティ─生きる力を学ぶ物語』(山口 2008)という本を若者向けに書いたが、作家の多和田葉子氏はその本を「論理のおばけ」と評してくださった。筆者にとってこれは誉め言葉である。社会学に関する通常の本に比べ、本書も論理に満ちており、まさに「論理のおばけ」と読者は感じるかもしれない。といっても、数学やミクロ経済学のように少ない仮定から、演繹的に理論を積み上げるというのではなく、実証と整合する様々な事実を論理的につなぎあわせて社会の理解をより体系的に理解する作業を本書は試みているのである。また社会科学において、経済学とも歴史学とも一味違う社会学におけるリーズニングを学べるように、本書では多様で具体的な社会現象のメカニズムの説明を心がけている。

 社会学理論を学ぶことの益として第2に挙げるのは、社会の仕組みについての「気付き」の促進である。「気付き」は今まで自分には関連が分からなかったいくつかの社会的経験について、その関連が意識されることをいう。例えば社会学でジェンダー理論を学んだことにより実社会で見えてくる有様が変わったという学生は多い。本書はジェンダーに関する本ではないが、統計的差別や、特に労働市場において男女の不平等が生じるいくつかの社会的メカニズムについても分析・検討をしており、そこにもジェンダー理論とは一味違った気付きがあるはずである。

 筆者自身の気付きの経験を話したい。筆者が米国の大学院の1年目(1970年代前半)にとった社会学のコースで、日本語では通常「役割」と訳されるロール(role)の概念を学んだ時のいわば驚きである。筆者は「役割」という言葉には、「役割義務」「役割期待」といった言葉に代表されるイメージがあった。つまり人が役割に応じて、関連するルールや規範に従って、特定の行動をとることが期待され、かつそれを果たす義務があるというイメージである。またそれゆえに役割により個人の自由が強く制限されるという意識も持っていた。実際職場や家庭における性別役割意識は、「男である」あるいは「女である」という属性により社会に果たす義務が違うという規範を反映し、近年でも「理系の職は男性中心」「家事育児は主として女性の仕事」など性別にもとづく様々な「ステレオタイプ」の行動を仕事上の「役割」として課してきた。

 だが、米国での大学院1年目で、学んだロールの社会的意味は、まったく違うものであった。特にアービング・ゴフマンの『日常生活における自己呈示』(Goffman 1956)について学んだ時はまさに「目から鱗」であった。そこでは個人が日々の生活の中であたかも舞台俳優のように役割(ロール)を演じる様が描かれていた。今でこそロール・プレイング(役割演技)という言葉が使われるようになり、宮部みゆきの小説にも『R.P.G.(ロール・プレイング・ゲーム)』という名の小説があるが、当時はロール・プレイングなる言葉はほとんど知られていなかった。ゴフマンの著作では「印象マネジメント」(印象操作であるが肯定的ニュアンスで描かれている)や、ロール・ディスタンス(役割距離と訳されるが、子どもが大人のようにふるまったり、逆に大人が子どもの真似をしたり、というように属性から期待される「~らしく」とあえて距離を置く行動をとることで個性を出そうとすること)などの言葉でロール・プレイングが描かれており、また期待される役割と、個人のアイデンティティの葛藤(期待される役割が、「こうでありたい」と思う自分と違うことからくる悩み)のなかで、それぞれ役割での自己表現を選ぶ個人の様々な状況が描かれていた。さらに少し後のことになるが、ラルフ・H・ターナーの「ロール・パーソン・マージ」の理論(Turner 1978)によって、役割と個人の関係について、どのような条件の下でそれが一体化し、どのような時に切り離されるかの条件についても筆者は学ぶことになる。これは分析的視点で、異なる結果が生じる条件を明らかにするという意味で、説明的理論である。

 これらを通じて、わかってきたのは、本来社会には「個人の自由」と「社会秩序」との間に葛藤があり、日本の「役割」という言葉は、「社会秩序」の面がより強く意識されるので、個人には自由を制限するものと感じられるということである。一方で、英語の「ロール」という言葉には、「役割」に対し個人のアイデンティティや自己実現、より一般にはインディビジュアリティ(individuality:個人性)を反映することを認めることによる自由な響きがあるということである。インディビジュアリティというのはその概念自体が重要で、英語の辞書的説明では“Individuality refers to the unique characteristics, qualities,and experiences that distinguish a person from others, encompassing their personality, beliefs, values, and self-expression”(「個人性」とは、その人を他の人々と区別するその人独自の特性や資質や経験を指し、それには性格的個性(パーソナリティ)、信念、価値観、自己表現が含まれる。)とある。これは、日本的な表現では「かけがえのない存在としての個人」という表現のニュアンスに近い。職場での役割(ロール)も、社会での役割(ロール)にも、米国のロールの意識にはインディビジュアリティの尊重が含まれる。

 身近な問題では例えば、日本が世界で唯一「選択的別姓」が法的に認められていない国であることも、「生まれの姓は個人のアイデンティティの一部だからその保持は尊重されるべき」という考えよりも、「夫婦の同姓は社会秩序のために必要」とする考えが、未だ日本の政権を担う自民党において支持されていることによる。つまり、個人の自由に関係することでも、日本ではインディビジュアリティの尊重より特定の社会秩序が重視され、個人はそれに従うべきと考える者も多く、特に保守層にはその傾向が非常に強いという社会の特性がある。だがもちろん日本社会も変わりつつある。

 仕事の役割(ロール)についても、米国は契約社会だから職務や勤務時間は限定的なのに対し、日本の正規雇用者は職務も勤務時間も非限定的で、役割義務がどんどん個人生活に浸透しやすいということが知られている。ここでも「役割」と「ロール」の違いは実は社会制度の違いを反映する。だから自分が現実に経験している物事のあり方が、実はどこにでもある普遍的な存在ではないことを知るのが1つの気付きであるが、本書の意図は一歩進んで、では異なる社会制度の実現は、何に由来しているのかに関する説明を与えようとしている。仕事の役割の日米の違いについては本書の第Ⅳ章のテーマの一部でもある。


【目次】

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