その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は伊丹敬之さんの 『中二階の原理 日本を支える社会システム』 です。
序章 空間を豊かにする中二階
萎縮する日本に、光を与える光源
この本は、「中二階の原理」という発想で日本の経営、経済、さらには日本社会の、過去、現在、そして未来を考えてみませんか、というお誘いの本である。「中二階」という発想をもつことの面白さと意義を読者に伝えたいのである。
中二階とは、住宅建築でいえば、一階と二階の間につくるフロアのことで、スキップフロアとも呼ばれる。あるいは、より大きな建物(たとえば、劇場)でのバルコニーもまた、中二階の例である。いずれの場合も、中二階は一階とも二階とも空間の重なりを活用して、全体としてのデザイン性にもすぐれているうえに、土地の面積の効率的活用につながることが多い。
この中二階という言葉を、この本では社会あるいは組織体を動かしていくときの一種の原理をさす言葉として使いたい。二階に全体を動かす基本原理があり、一階にその原理のもとで生きている人々が住んでいる現場がある。そして中二階の位置にじつは二階とは別の原理のようなものが挿入されていることが多いのが、日本の社会システムであり、企業組織である。そして中二階の原理は、二階の原理を現場(一階)に貫徹しようとすると現場で生まれるねじれ感覚を、中和するために挿入される。
したがって、二階の原理と中二階の原理のミックスで、社会や組織は動いていく。さらにいえば、二階の原理があくまでも基本なのだが、中二階の原理を入れて見ないと日本の現実の真実が見えない場合も多い。そんなイメージで、中二階という言葉をとらえていただきたい。
私はこの本で現在の日本の状況を分析することを目的としたわけではないが、ただそこに少しでも光を当て、日本の未来への光明を見出せたらと思いながら、書いた。この本で以下のさまざまな章で触れるが、この本を書いている二〇二二年時点での日本企業の基本的考え方が萎縮しているように私には見えるからである。
日本企業の成長投資も大きくないし、経営の考え方がアメリカ型発想になびきすぎて、しかし日本の実態にそれがあまり合っていないために、動きがとれない状態、かなりの閉塞状態になっているようにも感じる。だから、どこかに光明はないかと考えたくなる。
そうした閉塞した時代に光を与える光源を、私はこの本で日本の歴史に求めようとした。それも、日本社会の長い歴史、日本の企業経営の戦後の歴史、その両方の歴史にめざすべき光源があると思って、この本を書いた。その光源が、中二階の原理という発想である。
歴史の転換点としての二〇二二年
中二階の原理という視点で日本の現実を見ることが、今は大切な時代に思える。日本企業の一階(現場)の動きが鈍く、しかし二階の経済や経営の原理はアメリカ型の原理に流されてなにか硬直的に見えてしまう時代状況だからである。
現場の動きが鈍いとは、日本企業の動きが萎縮状態にあると見える、ということである。
この三〇年間を考えてみると、バブルの崩壊で萎縮、リーマンショックで少し覚醒したかに見えたのだが中休み、そしてコロナショックでも萎縮する日本、という姿に見える。とくにコロナショックでは、他国と異なり日本中が大いに自粛して感染を抑えたのだが、その自粛が萎縮につながってしまった。
こうした歴史の積み重なりの結果として、自信を失った日本、成長しない日本、投資しない日本企業、低下する世界での日本の地位、とマスコミが騒ぐ時代になってしまった。そのうえ、二〇二二年のロシア危機(ウクライナ侵攻の本質は、ロシア危機である)が国際安全保障の根幹に激震をもたらし、三〇年前の冷戦終了時と同じように日本を途方にくれさせている。そして時を同じくして、とうとう円安が始まってしまった。
おそらく二〇二二年という年は、日本が歴史的転換期を迎えた年、と後世に評価される年になりそうだ。そんな時代の転換期には、時代を照らす光源を歴史に求めるのは一つの道である。コロナ自粛を一つのきっかけに中二階について私は考え始めたのだが(第2章でそれに触れている)、私の光源探しは歴史的転換期に遭遇してしまったようだ。
それだけに、私が歴史に求めた光源がなおさら意味があるように思えている。ただ私は、その光源の威力を確かめるために、自分の専門分野を超えて、あえて背伸びをした。そして広い範囲で日本社会を中二階という光源から分析してみて、日本企業の萎縮の大きな原因の一つがいつのまにか自分たちの中二階の原理を軽視してしまったことにある、と私は感じている。
中二階からの見方を忘れかけているために、真の現実が見られなくなっている。そのために、霧の中にいるような状況に多くの人がなっていないか。そしてその霧が人々を萎縮させているのではないか。しかも、霧の向こうには歴史の風雪に耐えてきた光源があるのに。
そんな私の思いを、これからこの本で述べていきたい。その思いに多くの読者が共感してくださることを期待したいが、かりに共感までには至らなくとも、私の背伸びが読者に何らかの思考の刺激を与える可能性は期待したい。
中二階のイメージをより正確に読者にお伝えするために、まず、絵(図1)をご覧いただこう。
一つの社会、あるいは組織体を二階建ての三角形でイメージするとすれば、その三角形の上部の「二階部分」に、その二階建て全体を動かしていく基本原理があり、それが三角形の下部の一階部分にいる人間や現実を統御している。つまり、一階とは、現場である。
多くの場合、その組織体を動かす基本原理は二階に一つ存在するのだが、しかしときに、二階の原理とは異なる、別の原理的なものが、現場の活動をスムースにするために「補完的に」挿入されて、二階とは違ういい働きを加えてくれるケースがある。それが、図の一階と二階の両方にまたがるように挿入された中二階の部分である。
いいかえれば、二階に全体システムの機能の基本原理、一階にそれに従う人々が動いている現場、中二階に二階の原理とは色彩の異なる原理あるいは「柔らかい原理的なもの」が挿入される。それが、この本の中二階のイメージである。
中二階は、二階にだけ住んでいると、あまり目に入らないことも多い。たんに一階の何かのでこぼこ程度にしか見えないこともある。しかし、一階に住んでいる現場の人たちが下から見上げると、たしかに斜め上にあるのが中二階で、ときには二階の一部に見えるかもしれない。
そんな中二階を、家の外から、二階と一階の中間的な高さに視点をおいて見てみると、二階も見え、一階も見え、そして中二階がどんな関係を二階や一階との間につくっているか、それも見えることがありそうだ。その視点の高さを、この本では意識したい。
そこでの中二階の原理は、あくまでも二階の基本原理に対しては補完、つまりサブという役割である。しかし、一階にとっては斜め上からの原理だから、二階の原理という「直に上からの原理」よりは、現場への「圧迫感」は少ない、というイメージでもある。
次章であつかう日本語の表記という分野を例にとれば、二階の原理は表意文字である漢字による表記という原理である。それが五世紀頃に、文字のなかった日本に中国から導入された。文字のない国に文字が入るのだから、それが自然に文字表記の基本原理になる。つまり、二階の原理になる。
しかし、当時の日本では漢字を読み書きできる人材はきわめて限定されていた。したがって、広く多くの人が現場で日本語表記ができるように、かなという表音文字を日本は発明した。かなは、文字数も少なく表記も簡単だから、現場の人々にとってはやさしい表記手段だったのである。しかしもちろん、かなの発明後も漢字を表記の基本とするという二階の原理は変わらなかった。ただ、かな表記という中二階の原理が挿入されたのである。
その中二階の原理と二階の原理との合わせ技で、全体システムは動いていく。システム全体が機能していく。日本語表記の場合は、漢字表記とかな表記の交じった文が書かれることとなった。それが現在の日本人も使っている、漢字かな交じり文という言語表記である。かなは表音文字であり、漢字は表意文字である。表音文字と表意文字の両方を使って言語表記する言語はめずらしい。世界の主要言語の中では、日本語だけではないか。
社会空間を歴史的に豊かにしてきたもの
建築の世界では、中二階は空間を広く見せておしゃれに演出できるため、たんに土地の効率的利用になるだけでなく、空間の演出を可能にもしてくれる。その点で、デザイン性も高いのである。
たとえば、中二階は一階と二階をつなぐような間取りになるため、それぞれの居住空間に視覚的な広がりをもたらしてくれる。また、階段の途中に中二階ができると、リビングや住まい全体のデザインに幅が出て、いろいろな可能性が広がる。中二階の見え方や配置、二階とのつながり方などを変えることで、住まいのイメージを変えることも可能になるという。
中二階は、一階の斜め上、二階の斜め下で、直下ではないところがミソである。そして一階の斜め上に差し込まれて、空間全体を陰影の深いものにし、空間の利用を多様にできるようにしている。つまり、建築での中二階は、いわば「家全体の居住空間のバランス」をとっている。それが、「住み心地のいい空間」をつくっている。だから、中二階は空間を豊かにしている、といえるだろう。
社会も同じではないか。二階の原理だけでも、全体システムは一応は回る。しかし、それだけではつまらない、豊かにならない。また、二階の原理だけでは現場でそれへのねじれ感覚が生まれることもしばしばである。それでは、現場のもつ、社会のもつポテンシャルを十分には生かせない可能性がある。建築の場合に二階だけでは土地の有効利用ができにくいようなものである。
しかも、中二階とは、二階よりも一階(現場)に近い、という意味合いがある。「かな」という中二階が現場の一般国民により身近なものとなっていることがその例である。だから、中二階が加わると、現場がもっているポテンシャルをより生かしやすくなりそうだ。つまり、中二階の原理は社会を豊かにする可能性をもっている。
第1章で明らかにするように、日本という国は、その中核部分に「中二階の長い歴史」をもっている。日本語という言語の表記方法におけるかなという中二階の存在はすでに先に紹介した。さらに、国の統治システムでの一三〇〇年間にわたる天皇制の継続もまた、中二階の例である。
言語表記と国全体の統治、いずれも国を成立させているきわめて基礎的な基盤である。いずれの中二階も、二階の原理よりも現場の人々に寄り添うものであるようだ。そうした中二階の存在があることによって、日本という社会空間は豊かになってきた。
かな表記は多くの日本人に言語表記を可能にしたという意味で日本の社会を豊かにしてきた。天皇制は統治権力の大きな移動をスムースにする働きによって、ふつうの社会では革命という形をとる流血の権力移動になりがちなものをかなり平和なものにしたという意味で、日本の社会空間を歴史的に豊かにしてきた(これについては、第1章でよりくわしく触れたい)。
なぜ今、中二階に着目するのか
そんな中二階という概念を、なぜ私はこの本で導入しようとするのか。なぜ、二階の基本原理と中二階の原理のミックスで社会システム全体が動いていると考えると現実の理解がより深まることがかなりある、という仮説を提示しようとしているのか。そこには、三つ理由がある。
第一の理由は、一つの原理(二階の原理)だけでものを考えることの限界がありそうだと思うからである。われわれは、二階の原理だけで考えることに暗黙のうちに縛られていないか。
たとえば、私が専門とする企業経営の分野での重要問題である企業統治(企業は誰のものか)という問題でいえば、株式会社での株主支配の原理が二階の基本原理であることは当然であるにしても、その原理「だけに」とらわれている株主原理至上主義だけでいいのか。
じつは「会社は働く人のもの」と素朴に考える日本人も多い、というのが私の観察である(これについては、第5章でよりくわしく触れる)。そこで、二階の原理は「企業は株主のもの」だが、中二階の原理として「企業は従業員のもの」という考え方を追加して、その両方に配慮して初めて企業の経営はうまくいく、と考えるのが自然ではなかろうか。
株主原理至上主義は、その本家であるアメリカの発想になびきすぎていないか。それでは日本という国のポテンシャルを考えるとまことにもったいないし、アメリカ型発想だけでは日本では十分に機能しないことも多いのではないか。
私が中二階に着目する第二の理由は、中二階的存在が日本には案外と多く、面白い機能を果たしてきた歴史があると思うからである。ただ、中二階という視点から解明されてこなかっただけのようだ。だから、日本社会や日本企業の将来を考えるためにも、しっかりと中二階を見つめる必要がある。
さまざまな社会や組織の三角形の中には、もちろん、中二階が存在しない場合もあるだろう。それが大半かもしれない。さらに、国によっても、中二階の存在量はかなり違いそうだ。日本には中二階が多く、アメリカには少ない、というのが私の仮説である。この点は、終章であらためて議論したい。
中二階重視の第三の理由は、中二階的な見方をしない、あるいはあえて無視することによるマイナスの存在である。そのマイナスを意識した方がいいと思うからである。
中二階の存在は、二階の原理を信奉する原理主義者から見れば、障害物あるいは不純物に見える。だから、それを無視したくなるのも、分からないではない。しかし、中二階を無視するあるいは気がつかないと、日本の現実にはうまくフィットしない二階の原理の「無理攻め」をすることになってしまい、結果として日本のポテンシャルを殺してしまう危険がある。
まず、中二階無視の行動をとってしまうと、その行動は大した成果を生まないだろう。それでもそれがじつは中二階無視のせいだと思わずにいると、次の対策は二階の原理のさらなる実践、さらなる強調だと思い込む。そして、その道を進めば、じつは「暗黙の中二階」がもっていた良さを消してしまう危険があり、さらには中二階を崩壊させてしまうかもしれない。その結果、組織や社会のもっているポテンシャルを生かすはずだった中二階の機能がなくなり、その国や企業がもっているポテンシャルをムダに殺してしまうことになる。
じつは、中二階の崩壊、あるいは形骸化が、最近はかなり見られると私は思っている。グローバリズムが強調する二階の原理への傾斜の大きさが、中二階の崩壊、あるいは無視の原因の一つであろう。それが日本経済と日本企業の活力をそぎ、パフォーマンスを低下させてきた一つの大きな原因にもなっていないか、と私は危惧している。
その一つの例が、株主重視の官製コーポレートガバナンス改革である。アメリカ流の「二階の原理」を声高に叫ぶ官僚・マスコミ・資本市場に違和感(ねじれ感覚)をもちながら、萎縮している日本企業。その萎縮が投資不足を生み、成長へのエネルギーを十分に生み出せなくなっている。
たとえばコーポレートガバナンス改革の叫び声のもとで、企業による自社株買いへの資金投入が二〇二一年度には八兆円を超すという。それでいて、企業の成長投資には十分な資金が投入されない。株主という二階の原理を尊重するのはいいが、やり過ぎになっていないか。
今こそ、中二階の原理を明確に意識した方がいい。そして、現場にエネルギーを生みだせる経営と企業、という「のびやかな企業空間」を、より豊かな社会空間を、中二階発想法で取り戻すことを考えた方がいい。
中二階に支えられる日本
中二階に支えられてきた日本社会という構図は、企業統治や経営の世界の話だけではない。日本の社会システムには、あちこちに中二階がありそうだ。だからこの本のタイトルを、「中二階の原理 日本を支える社会システム」としたのである。
以下の章ではそんな日本の姿を、前半で日本社会の中二階論、後半で経営と経済の中二階日本論、という順序で考えていきたい。
章別の構成としては、まず最初の二章で日本社会での中二階を歴史的に振り返る。日本社会の中二階論である。具体的には、第1章で日本という国の基礎部分にあたるめざましい中二階の例として、漢字かな交じり文という日本語表記、そして天皇制という国の統治システム、この二つを紹介し、二階・中二階という見方が一三〇〇年の長きにわたって日本に根ざしてきたことを考える。
そして第2章では、日本社会が近代に経験した二つの巨大な社会革命をしなやかに、大きな混乱と凄惨な流血なしに、こなして受け入れてきた事例(明治維新期の廃藩置県と戦後期の農地改革)で、中二階の原理が果たしてきた大きな役割を考える。
この前半の二つの章で、読者に社会システムの動きや秩序形成についての中二階原理の機能についてイメージをある程度もってもらったうえで、後半の四つの章では経営と経済の世界での中二階原理の議論に話を移す。つまり、私の専門分野での中二階論である。経営戦略、組織マネジメント、企業統治、市場経済システム、というそれぞれの分野で中二階の原理の機能を考える。最後の市場経済システムの中二階は、それまでの中二階論の総合でもある。
そして終章で、社会システムや経済システム、そして経営システムの議論の際に中二階発想がもつ意義、そして中二階の機能の論理、それらの総括を試みる。
いずれの章でも、もちろんそれぞれの事例での二階の原理は何かをきちんと議論する。私は、二階の原理を無視すべき、といっているのではない。社会全体がじつは二階と中二階の二つのタイプの原理のミックスで動いている、と考えた方がより現実的な理解になる、といいたいだけである。
そしていずれの章でも、中二階の原理がいかに二階の原理を補完するか、そして中二階がどのように現場に影響して現場をより生かせるか、その二つの論理を考えることが中二階論の中心となる。
【目次】