その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は奥村哲史さんの『 マネジメント・テキスト 交渉戦略 』です。

【はじめに】

 母国語を自然に話すようになる。交渉も同じだ。赤ん坊のときには泣いて要求するのが、言葉を覚え、理屈を使うようになる。学校で外国語を教わるのとは違い、文法や文法用語を覚えずに、母国語は習得する。交渉力も、求める物事を実現するために、意識しないまま身につけている。

 それでも国語が正規の教育に組み込まれるのは、成り行きや限られた関係から覚えるものでは足りないからだ。義務教育の後にも現代国語があるのは、読解力や表現力がさらに展開すべき能力であり、日々の暮らしでは直接使うことのない古文・漢文も、日本語の機能に教養の深さや情動の豊かさをもたらすからだ。

 交渉にも基礎文法がある。なんとなく行ってきたことを文法や共通概念で見直すことで、利害の対立する相手や状況を読み取る力、表現する力、交流する力、関係性を認識する力、問題を解決する力は成長する。

 ハーバード大学のロジャー・フィッシャーとウィリアム・ユーリが1981年にGetting to Yes(『ハーバード流交渉術』)を著す。交渉学への貢献の一つは、交渉の一般原則を明示したことだった。私たちは、母国語のように日常から身につけた行動のまま交渉していることが多い。だが交渉をめぐる直感には、当事者間に埋もれている、より良い解決を阻害するものがあることを、フィッシャーとユーリの原則が指摘していた。

 交渉学が整えてきた知識を意識して活用することで、より良い成果からの逸脱傾向を修正できる。学術研究と実践に裏づけられた概念を使いこなせば、戦術的に「逸脱」を活用することもできるし、定石崩しや新展開の創出の可能性も広がる。

スタンダードな分析ツールと共通言語

 筆者が企業での交渉研修を依頼されるようになった30年ほど前、社内に周知するプログラムの名称には検討が必要だったと伺ったことがある。担当者はよく研究していて、交渉力がマネジメントに必須の要素であり、既存のリーダーシップやコミュニケーション研修を刷新して、問題解決能力を強化するのに最適だとみてくれていた。しかし、タイトルが「交渉」になると営業職向けのコンテンツだろうと受け取られ、広く社内に訴求しにくいのではないか、と懸念されたのだった。

 その企業での当初の名称は「ビジネススキル研修」となり、当時流行していた他のタイトルのコンテンツとカップリングで1日分が「ネゴシエーション」になった。数年たった頃、研修受講者からの評価を受けて、独立したプログラムとなり、内容も2日間に拡充し、開催も年複数回になる。初期の受講者が職場で、同僚や部下に薦めているとも伝えてくれた。習得した技術を取引先との仕事で試したときの成功事例を、知らせてくれたこともある。

 この大手金融機関は16年にわたり、筆者を講師として起用してくれた。個々人の交渉技術の向上は、組織では全体の能力の充実につながる。交渉には社外との折衝はもとより、社内の調整や問題解決の比重も大きい。そうした状況の分析と診断、対応の準備のための基本的なツールが共有され、実践の経験値を共通言語で蓄積する。

 同じ目標にチームで意欲的に取り組んでも、用語が違い、分析の道具が違うと、正確な診断にならず、準備にも不整合が起こる。実務と理論で磨かれたコンテンツを共有することが、交渉や問題解決の基礎の習得になり、準備の充実度と問題解決の実効性を高める。

 現代の交渉学は米国に始まる。その構築には、多彩な学問領域から集結した学者たちが取り組んだ。領域により重点対象や専門用語があり、基礎概念や研究アプローチに違いがある。彼らが優れていたのは、共通関心の交渉という現象を探究するのに、個々の学域の用語やアプローチを縄張りにしなかったことだ。1950年代の行動科学が目指したような学際的・融合的な協働が続いた。1960年代半ばから80年代にかけての文献には、相互の知的刺激と貢献への敬意がよく示されている。

 だから特殊な用語は少ない。それでも、交渉に共通する重要な要素を端的に表す言葉や日常の使い方とは異なる意味で使う便利な単語が少しだけある。BATNA(バトナ)、ZOPA(ゾーパ)、ポジションとインタレスト、ジョイントゲインなどだ。いずれも、根拠や関連する知識が大切になる。

 交渉で実現できる潜在的利益、交渉の一般構造、交渉状況で人々が陥りやすいネガティブな傾向、欠けている情報、活用できる情報源、情報の聞き方の設計など、交渉学の基礎概念やモデルから状況を分析し、交渉を準備し、実行し、評価できる。

 これらを活用して個人の交渉力がもたらす価値が、いきなり爆上げとはならないこともある。しかし、仮に数パーセントでも改善すれば、組織全体として合算すると、そのインパクトには凄みがある。数字で明示できる利益の増加分、損失の減少分の他に、短縮できた時間や労力、その余剰を活用して創出する価値、軽減できるストレスあるいは増幅される満足や自信などの総計、相手との関係や自分への評価、などだ。そして優れた交渉技術は相手にもそうした価値を提供できる。

学術研究と実務教育

 交渉を学ぶモチベーションには、自分の技術のブラッシュアップ、伸び悩む部下や後輩への指導、複数のメンバーで課題にあたるときのチームとしての能力の強化などがある。

 話し合いで解決する必要のある課題や状況には、仕事の場はもとより、日々の生活のなかでも必ず出合う。黙ったままやり過ごせることもあるし、それでよいこともある。しかし、向き合い、解決しなければならない状況と出くわすことのほうが多いはずだ。何もせずにいることが相手の要求を是認することになりうるし、手をこまねいたままでいることは、実質的な損失や心理的な負荷を蓄積させる。

 話し合うべき状況には、家庭や日常の暮らしのなかでも遭遇している。そのため、話し合いは、コミュニケーションとして普通に身についている。だから技術として意識していないこともある。

 だが、仕事の場で必要となる話し合いの対象は、義務や責任が異なり、関わる利害のインパクトの質と量も違ってくる。日常的なコミュニケーションとは水準の異なる話し合いの技術、利害の対立を解きほぐし、すり合わせ、優れた解決を導く交渉力を培うことが必要になる。

 交渉論としての本書の基盤には、以下の特徴がある。

 筆者の交渉研究のベースは、①経営学、経営組織論、リーダーシップと管理者行動論という領域で、専門の研究所を擁する米ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院での在外研究を機に、②この領域における第一線の学者との共同研究が進み、世界各地の学者との交流へと展開し、彼らとの学術調査も踏まえた、③企業での実務家への研修と専門職大学院での教育実績にある。

 優秀なマネジャーの育成は、経営学の大切な課題の一つである。これは長らくリーダーシップ研究が担ってきた。リーダーシップ研究ほど量はないものの並行する領域に管理者行動論があり、レナード・セイルズ(1964)、ヘンリー・ミンツバーグ(1973)、金井壽宏(1991)と良質な文献が刊行され、マネジャーの重要な機能が認識されている。

 共通目標を実現するための装置として設計されている組織にも、コンフリクト(摩擦、軋轢、対立、紛争、葛藤、相違)は発生する。労使の構造的対立はその典型で、現代の交渉学の起点でもある。組織のコンフリクトへの対処は、肩書を問わず誰にでも求められる。

 大学に職を得ても、研究に不可欠の経営や組織の実務へのアクセスが限られ、文献解題にとどまることに焦燥があった筆者にとって、1994年からの在外研究が大きな転機になる。米ケロッグ経営大学院のDispute Resolution Research Center(DRRC:紛争解決研究所)には、交渉研究における著名な教授陣が揃っていた。認知心理学からの交渉研究、炭鉱の労使紛争の実地調査からの紛争解決型交渉、そして社会測定と異文化交渉、チームでの意思決定をはじめ、圧倒的な質と量の研究を世に問うていた。

 MBA(経営学修士)や博士課程の関連科目、エグゼクティブ・プログラムでの交渉戦略の受講、そして実証調査や聞き取り調査と並行して、交渉の技術をどのような教材でどう教えているかを学んだ。在外研究の後半に参画した比較文化型の実証調査は、帰国後も続く。四半世紀にわたり、毎年訪問し、取引型交渉、紛争解決型交渉、環境交渉など多彩なテーマの共同研究に携わり、国際標準の学会で報告してきた。

 個々の実証調査は狭い相関の検討にとどまる傾向があるが、関連研究を束ねると説明力が格段に強まる。取り組んできた比較文化型の調査は、蓄積されてきた取引型交渉や紛争解決型交渉の先行研究をベースにしている。表面的な文化差ではなく、交渉の基本形と基本要素を把握した研究となり、成果の多くは国際標準の学術誌に掲載され、しかるべき引用件数も示されている。

 2002年からの文部科学省による派遣でも同校に滞在し、実証調査とともに交渉学の教授法と教材研究に力を入れた。教授法の習得は、国内での実務研修の拡大に直結する。金融機関、製造業、サービス産業、医療機関、人事院近畿事務局、地方自治体や公的機関、外資系企業など多彩な産業分野の組織で機会があり、受講者の職種も営業はもとより研究開発や生産など多岐にわたる。

 こうした実務の方々との交流の一つは、日本での公共事業の用地補償担当者への聞き取り調査につながる。高度経済成長期に社会基盤の開発の第一線に身を置いた実務担当者が引退しつつある時期だった。そのままでは貴重な経験知が散逸してしまう。事業の性質から、各種の制約のなかで培われた現場の知恵である。これを次世代に伝達可能な知識として整える試みだった。

 この成果は日本の諸事情に関する定性的な調査として、米国型の交渉とは一線を画す領域での交渉過程の資料となった。実体験を再構成した教材も織り込んだ実務教育は、米国発の交渉研究と教育の適用力を証明しつつ、日本的な事情や課題を取り込んでいくプロセスにもなる。

 本書で目指したのは、交渉学の網羅的なハンドブックではなく、筆者が30年に及ぶ日本での交渉教育で重視し、また受講者から実践に資するとの評価を与えられた内容の集大成である。

 担当する講義や研修では、通常はロールプレイ型の交渉演習を行い、結果の共有から交渉の基本構造や概念を確認し、各自の交渉行動を改善し、実践へ、という展開になる。それぞれにテーマのある交渉演習の具体的な行動の学習ポイントは、スライド1枚で7~10項目の簡潔なものだ。

 「質問せよ」「ターゲットは高く設定せよ」「一方的な譲歩はするな」「信頼を構築せよ」。こうしたシンプルに思える行動がなかなかできなくなるのが、利害がぶつかる交渉状況なのだ。

 交渉演習が重要なのは、こうした単純な行動ができていないことを体感できるところにある。こうしたワンフレーズだけが頭にあっても実行に移せないものだ。簡単そうな行動が制約されるメカニズムを理解する必要がある。演習教材にはそのための仕掛けが埋め込まれている。

 本書でも、定番の交渉演習の結果からの説明がある。ただ、読者の皆様が今ロールプレイを試すことはできないので、多くの事例、それも日本の事例を取り入れようと努めた。実際に取引型や紛争解決型のロールプレイに取り組んで実験的(エクスペリメンタル)に体感するのには及ばないかもしれないが、ご自身の経験、記憶を総動員してほしい。それが、本書に登場する概念を道具として、事例にあるストーリーを分析・診断することにつながるはずだ。人工的な設定からでも役割を試す、エクスペリメンタルなトライアルから気づきと内省(リフレクション)を経て、自ら積み重ねてきた経験的(エクスペリエンシャル)な実践知を修正するときに、諸概念が自身の思考と判断と行動のロジックを分析する道具となるはずだ。

 自分の部下や後輩に交渉の技術を指導する際には、自身の経験知の言語化に本書の概念やモデルを活用していただけると思う。チームで交渉の準備をするときには、共通言語と共通の分析枠組みとして役に立つはずだ。

 本書のチャレンジは、交渉と紛争解決の理論を実践に応用可能な知識として提供することになる。

本書の構成

 序章は、時代が要請するダイバーシティやイノベーションから始まる。多様性にも革新性にも、そのインターフェースには相違や摩擦や対立や抵抗が生じる。交渉学は、これらを建設的に解決する能力に貢献する。

 第1章は、交渉の基本構造や基礎概念を事例から説明する。私たちが享受するさまざまな技術的・経済的・社会的な利益や利便性は、無条件に天から降りてくるわけではない。実現への道にあるさまざまな課題を、生身の人間が知力と胆力で解決してきた成果なのだ。

 第2章は、交渉の場に埋もれている潜在的可能性を十分に掘り起こせなくなるメカニズムを、認知心理学と文化心理学から解説する。

 第3章は、交渉の準備の重要性を、情報の影響や交渉における固定観念や思い込みの解除を中心に検討する。

 第4章は、取引型と並ぶ交渉の基本型である紛争解決型の交渉が主題になる。紛争状況と紛争解決への基本アプローチ、より良い解決の規準が中心である。

 第5章では、組織での調整を担うマネジャーの機能を中心に、組織における相互依存性、組織内の諸特性とコンフリクト、組織の境界での状況特性などを検討する。

 第6章では、現実が人と人との間で創り出される、という考え方から、組織や交渉の場で当事者が向き合う現実の曖昧性、また交渉における分配での公平性という課題を検討する。

 第7章は、ここまで学んだ交渉学の知識を実践に活用するための課題と向き合う。

 読み通して、一つでも面白いと感じることがあり、仕事や生活の「役に立つ」ことが見つかり、実際に活用して成果を感じていただけることが、著者の挑戦である。

    ■参考文献
  • 金井壽宏(1991)『変革型ミドルの探求:戦略・革新指向の管理者行動』白桃書房.
  • 金井壽宏(2002)『仕事で「一皮むける」:関経連「一皮むけた経験」に学ぶ』光文社新書.
  • 松尾睦(2011)『職場が生きる 人が育つ「経験学習」入門』ダイヤモンド社.
  • Henry Mintzberg(1973) The Nature of Managerial Work, Prentice-Hall.(奥村哲史・須貝栄訳『マネジャーの仕事』〈1993〉白桃書房)
  • Leonard R. Sayles (1964) Managerial Behavior: Administration in Complex Organizations, McGraw-Hill.
  • Donald A. Schon( 1987) Educating the Reflective Practitioner, Jossey-Bass.

【目次】

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