その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は若田部昌澄さんの『 自由な経済と強い国家 サナエノミクスとは何か(日経プレミアシリーズ) 』です。
【はじめに】
「流れを止めるな」
今、日本経済は、歴史的転換点にある。「経済学者や評論家は何度も転換点と呼ぶので、いつの間にか同じところに戻っている」というジョークがあるが、現在は掛け値なしの転換点にある。
第一に、世界は大乱の時代に突入している。その大乱は、ロシアのウクライナ侵略、緊迫する東アジア・中東情勢といった地政学的なものにとどまらず、貿易戦争、中国経済の停滞(ピークチャイナ)といった経済問題、サイバー攻撃の頻発など広範囲に及ぶ。何よりも最大の懸念は、パックス・アメリカーナが終焉するかどうかである。覇権国である米国が世界への公共財提供を断念し、覇権国としての地位から自ら降りようとしているのではないか。
第二に、日本経済は、いよいよデフレからの完全脱却と経済の正常化が現実味をおびてきた。長らく続いたデフレ・レジームから、マイルド・インフレ・レジームへ着実に移行できるかが問われている。
近年、名目国内総生産(GDP)は好調に増大しているが、実質GDPはもう一息である。その差はインフレ(一般物価の継続的上昇)によるものである。そのインフレも内訳を見ると、食料品価格の上昇が多くを占めており、個別品目の価格が上がっている状況である。いわゆるコスト・プッシュの要素が残っており、賃金・所得が上がり、需要が強くなることでインフレが起きるディマンド・プルの要素と混在している。
問題は、経済の現状と先行きである。現状は、米国の関税政策の懸念などもあり、内需、ことに設備投資にやや弱さが見て取れる。また、先行きは極めて不透明である。さらに、新型感染症のパンデミック、ロシアによるウクライナ侵略、そして予断を許さないイラン・中東地域での軍事衝突といった供給面に負の影響を及ぼすショックが頻発する可能性もある。
一方で、新しい時代の幕開け、マイルド・インフレ・レジームへの転換を感じさせる明るい動きもある。滝田洋一氏のような慧眼のジャーナリストは、日銀レビュー「AI導入が生産性に与える影響」や2025年9月の日銀全国企業短期経済観測調査(短観)に着目している。人手不足を反映して、省力化・自動化投資が遅れてきた卸売・小売、宿泊・飲食サービス業の中小企業でソフトウェア投資が急増し始めている。「高市新総裁の課題はひとつ。せっかくの経済の変化である。流れを止めるな。これである」(「経済大転換の逆説 高市早苗・自民党新総裁は流れに弾みを」日経電子版、2025年10月5日)。この「流れを止めない」ために何が必要か。本書では、現在の日本にとって必要な政策を論じる。
そのためには、第一に、原則の確認と整理が必要である。資本主義、いや、国民の生活水準を向上させるのに必要な経済成長の原動力は、民間活力である。その民間活力を十分に発揮するためには、経済はできるだけ自由であることが望ましい。しかし、世界秩序の激変で、各種のリスクに対応すること、すなわち安全の重視とこの安全の提供者としての国家の役割がより大きく認識されてきている。安全が保障されていない場合、自由は生き残ることができない。この点では、自由と安全は補完的な関係にある。もっとも、安全の重視はコストの上昇につながり、経済の効率化とはトレードオフが生じる可能性がある。この自由と安全の双方をバランスよく両立することが世界的な課題となっている。
第二に、原則は原則として、世界の経済思潮は変わりつつある。その直接のきっかけは、2008~2009年の世界金融危機であるが、日本ではそれ以前の1990年代前半から長期停滞が進んでいた。低成長、低インフレ(日本の場合はデフレ)、低金利の併存は、日本で先行して始まり、世界的にも「日本化(Japanification)」と呼ばれていた。日本の長期停滞、世界金融危機後の金融政策、財政政策をどうとらえるかについては、考え方の大きな変化が見られた。この二つは密接に関連しているが、近年、財政政策についての考え方の変化は特に大きい。
成長政策については、1980年代後半以来、経済成長の原動力として知識を重視する潮流が続いている。近年の経済学において、内生的成長理論などの知識・技術革新を重視する研究が高く評価されているのは、その象徴である。この意味では、成長政策については連続性が強い。しかし、最近では国家の役割の再認識とともに、産業政策のルネサンスともいうべき現象が起きている。第5章で詳しく述べるように、産業政策について、経済学においてはかなり懐疑的な評価が主流であった。しかし、最近では産業政策の有効性を主張する見解も増えてきた。
このことが第三の政策論に関わる。それは歴史と経験に学ぶことである。産業政策の有効性については、歴史と経験から学べることが多い。後述するが、産業政策が成功したと言われている事例も、詳細に検討すれば、各種の分野横断的統治改革の賜物であるという研究もある。
私自身は、政策イノベーションの原則として、まずは、諸外国、ことに先進国と考えられるOECD諸国で、ある程度の期間採用され、成功を収めている政策を日本に応用することを検討すべきだと考えている。そうした政策はかなりの数にのぼる。日本経済の停滞は、日本の経済政策の停滞でもあった。日本経済にイノベーションが必要である以上に、日本の経済政策にもイノベーションが必要である。
本書の構成
第1章では、世界大乱の時代の中で日本が直面する挑戦を大きく二つにまとめる。それは、国際環境の激変と、日本のマイルド・インフレ経済への転換である。その上で、この挑戦を乗り切るための原則をまとめる。
第2章では、この挑戦を乗り切るための具体的な経済論として、強い経済が必要であると論じる。そして、その強い経済を構築する考え方として、「高圧経済」の考え方を紹介する。
第3章は、財政政策である。財政政策については、日本の債務残高対GDP比が世界的に見て高水準であることと、日本のプライマリーバランスが長年赤字を記録してきたことから、日本の財政状況は悪いという印象が形作られている。しかし、最近の名目GDPの増大により、財政状況には大きな変化が起きている。税収が増え、債務残高対GDP比が急速に改善しているのだ。フロー、ストック両面で財政は改善している。一方で、政府支出の必要性も増している。そこで提唱されているのが、「責任ある積極財政」という考え方である。これは、財政による成長投資と財政の持続可能性を両立させるものである。その具体像は何か。どのような財政目標を考えるべきか。財政危機への対応はどう進めるべきか。
第4章は、金融政策である。デフレからインフレ経済への移行が進んでいる。その中で、日本銀行は2024年3月以来、これまでのマイナス金利政策などの大規模な金融緩和を転換し、金利の引き上げを模索している。物価の上昇は、目標とする2%を超える3%台が3年近く続いた。今後もこのインフレ経済への移行は続くのであろうか。かつてのようなデフレに戻るリスクはないのか。金融政策の正常化とは何か。本章では、デフレに戻るリスクは少なくなったが、物価安定の目標の未達はありうること、いわゆる低金利、低成長、低インフレという日本化の動きから完全に脱却したとは言い切れないこと、そのことを踏まえた上で、日本銀行には慎重な政策運営が求められることを述べる。
第5章は、成長戦略である。日本の課題が、実質で見た時の低成長であることはよく知られている。この章では、まずこのことがどういう意味で事実かを確認した上で、日本で経済成長率を上昇させるために必要な成長戦略について論じる。成長戦略の要は、民間企業の活力を最大限に引き出すことである。国家の役割は、市場経済を整え、民間部門の活力と企業家活動を手助けすることにある。しかし、現在の世界大乱の時代においては、国家も相応の役割を果たす必要に迫られている。また、世界的にもいわゆる産業政策のルネサンス、あるいは現代サプライサイド経済学(Modern Supply Side Economics)の興隆も新しい動きとしてある。この時代に必要とされるのは、この国家の役割をどこまで認めるべきかという、古くて新しい課題に我々なりの回答を与えることである。
第6章は、社会保障である。「強い経済」を作るために成長を促進するためにも、また経済の転換点での国民の負担感を軽減するためにも、社会保障改革は必要である。なかでも、最近話題になっている「給付付き税額控除」には期待が集まる。ここでの論点は、これまでの税と社会保障の一体改革を超える視点を提示することである。本章では「成長と税と社会保障の三位一体的理解」と銘打って、まずは政府、地方、社会保障基金の資金循環の実態を把握するところから議論を始めるべきであると主張する。「給付付き税額控除」については、その基本哲学を解説した後、制度設計を行うために必要な情報・徴税インフラの整備の必要性を訴える。「給付付き税額控除」は、低所得層の負担を軽減する上で最も有効である。その制度は、2年以内で構築することは十分に可能である。
最後の第7章では、サナエノミクスの現在地として、現在までの高市政権の経済政策についての評価を行う。高市政権は2025年10月に発足したので、本書執筆時点ではまだ10カ月しか経っていない。また、高市政権の下での当初予算は、7月の「骨太方針」と閣議決定を経て決まる、2027年度予算から本格化する。しかし、ここまでの二度の補正予算、中近東情勢に対する経済政策は、経済の成長と物価の安定、そして実質賃金の上昇に寄与してきた。
巷では、日本、あるいは日本経済についての悲観論が蔓延している。例えば、日本は少子高齢化が進んでいるから経済成長できないという声は根強い。私は常々、こうした悲観論は誇張されていると考えてきた。確かに少子高齢化は大きな課題ではあるが、少子高齢化が日本以上に進んでいながら経済成長率は日本を上回る国は多数存在する。また、日本では、アベノミクス開始以降も一人当たりの実質賃金が停滞しているというが、時間当たりの一人当たり実質時給は増えている。賃金が停滞している理由は、一般労働者とパート労働者の労働時間が減少しているからである(岩田 2026,pp.63-64)。さらに、可処分所得が伸び悩んでいる原因は、社会保険料、消費税の負担が増しているからでもある(原田 2025)。経済政策のイノベーションを普通の先進国並みに実施していけば、日本は十分に成長できる。
なお、本書は原則2026年7月までの情勢をもとに執筆、本文中では敬称略とした。
【目次】



