その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は邉見伸弘さんの『 チャイナ・アセアン なぜ日本は「大中華経済圏」を見誤るのか? 』です。
【はじめに】
「楽観主義者はドーナツを見る。悲観主義者はその穴を見る」。アイルランドの詩人で劇作家のオスカー・ワイルドの名言である。見る人の視点によって、モノの見え方が180度変わるということを指しているのであろう。詩人らしい、鋭い人間洞察の言葉である。
国際情勢分析の世界も同様である。既出の情報に、どう向き合うか、どこを見るかで、判断も変わってくる。問われているのは「何が起こったか」を見るだけでなく、「起きている事象をどう切り取って読むのか」。いわば「レンズの焦点の合わせ方」だ。
昨今はVUCA※1という言葉がもてはやされている。読者の方も、目にする機会が多いのではないか。予測困難で、捉えにくい状況を表すワードである。
だが歴史上、不確実でない時代など、あっただろうか。
「不確実だ、不透明だ」と言って、時流に身を委ね、成り行き任せのままでいいのか。不確実、大変化といわれる時代とはいえ、それなりに確実な情報を見逃したり、未来の足音の響きを聞き逃したりしていないだろうか。
それに不確実な時代と見られる中にあって、着実に前進・成長を遂げた企業は山ほどあるのだ。そうした企業は、大きな変化の中にあって、少しでも確実性がある部分、不透明といわれる状況下でも見えてくる、朧(おぼろ)げな未来の予兆を「見逃さない」ものだ。
ビジネスや政策支援の仕事に携わる中で、最も厄介で手間暇がかかり、日の目を見ないのがノイズ(雑音、騒音)を取り除く作業だ。実際には何が起こっているのか、自分たちに関係があるものと無関係のもの、過大に誇張されて表現されているものと逆に過小評価されているもの、数年後には忘れ去られる一過性のものと長期にわたり存続・継続していくもの、そういった事象や情報の識別・判別の作業は、将来のシナリオ策定やリスク管理の大前提となる。
「戦術の前に戦略あり。戦略の前に情勢判断あり」と言われるが、情勢判断の前に情報バイアス(偏見、先入観)を取り除くことが肝要である。しかし、その作業は、言うは易く行うは難しで、一苦労である。
現在は、情報過多の時代である。そもそも発信されている情報が本物か否か、判断がつかない。変化、変化の連続の中で「一体、何が起こっているのかよく分からない」という、途方に暮れる声が多いのもやむを得ないだろう。
米国の作家のマーク・トウェインは「新聞を読まなきゃバカになる。読んだら読んだで、バカになる」との言葉を残したが、この言葉が持つ意味は、今日もなお真実性を増している。GenAI(Generative Artificial Intelligence=生成AI)の登場とその使用頻度の高まりは、フェイク・ニュースや偽コメントなど活字の世界で混乱を招いている。さらに近年は、人の声を偽造・加工した音声、顔かたちを再現した画像が作成され、ネット上に出回り、果たして本物の人物が話しているのか、真偽の識別・判別することすら、難しい時代になっている。
こと国際情勢や地政学上の問題に目を向けると、どちらの側に立って物事を捉えるかで、見方は大きく分かれてしまう。前著『チャイナ・アセアンの衝撃──日本人だけが知らない巨大経済圏の真実』(日経BP 2021年2月刊)から3年半が過ぎ、この間、世界では新型コロナウイルス感染症によるパンデミックやロシアによるウクライナ侵攻が起こった。さらに2つの超大国である米国と中国の競争・対立が、ますますエスカレートしてきている感を深くする。
グローバル・ウエストと呼ばれる、日・米・欧など西側先進国地域に住んでいると「脱中国」の動きが加速したという報道に接する機会が多くなった。
中国の過剰生産・ダンピング輸出問題が世界経済の大きな問題となっており、その背後にある権威主義的政治スタイルや膨張主義的行為などの地政学上のリスクも相乗して中国に対する見方が厳しくなり、牽制(けんせい)の意味もあるのだろう。中国製品への関税強化論や中国向け投資の手控えなど、対中包囲網が進んでいるかのようだ。さらに当の中国の国内情勢に関しては、不動産バブル崩壊といったニュースや、GDP(国内総生産)の成長率に関する悲観的予測、若者の深刻な就職難といった情報ばかりが伝わってくる。日本では「中国衰退論」「没落論」がメディアをにぎわせ、「日本の失われた10年、20年、30年の『中国版』到来」といった見方も一部には出回っている。
隣国に対する、この一種「極論」とも言うべき見方は、なぜ生じたのだろう。中国は巨大な国である。日本とは文化・商慣習の違いも大きく、さらに中国国内の地域差も甚だしいものがあり、簡単には理解し難い面もある。だが、これほど地理的に近くにあり、長い歴史上の関係を持ちながら、日本は中国を捉えきれていない。さらに米中競争・対立という勢力抗争や地政学上のリスクの中で、日本の中国に対する焦点が、またもやズレてきていないか。
2008年に起きたリーマン・ショックという世界経済危機の際に、中国が救世主として脚光を浴びたことやBAテーJ(百度集団=バイドゥ、アリババ集団、騰訊控股=テンセント、京東集団=JDドットコム)など新興企業の破竹の勢いも、一体いつの時代の話だったのか、と思うほどだ。
最近は、日本の経営者や政策決定者などに対し、中国のポジティブな材料を少しでも見つけて、中国の将来性や世界に与える影響を語ろうとしても、首を横に振られるケースが多くある。中国からの撤退戦略や地政学上のリスクの相談が筆者の職場にも少なからず舞い込んできている。
中国への入出国も以前ほど楽ではない。在中の企業関係者など、邦人や欧米系人拘束などの報道も目にする。日本においてもインバウンドの波が戻ってきているが、欧米系や東南アジア系が中心であり、中国系、中でもいわゆる中間層は少ないように見える。
この状況に、「中国は終わった。チャイナ・アセアンも沈むのでは」という人もいる。だが、それは本当だろうか。中国、ASEAN(東南アジア諸国連合)に関するデータが示す実態と、ちまたで語られるストーリーの間には少なからぬ落差があるように思われる。
本書は、このように特に中国に関して、猛烈に逆風が吹き荒れる中で執筆した。実際に人を介した情報も遮断され、目にする報道類も極端な議論が多かった。しかし極端な議論の情報ソースをたどっていくと、思い込み過多や、欧米で発信されていることの焼き直しであったりすることが多かった。昨今はさらに安全保障上の問題と経済の問題をごちゃまぜにし、企業活動を萎縮させるような言論も散見される。まるで中国の全てがダメだと言わんばかりである。
なぜ日本は大中華経済圏(チャイナ・アセアン)を見誤るのか。一言でいえば、自分自身の視点(レンズ)の歪みがあるからではないか、と考えている。
東京・銀座の街を歩けば、中国はもとより東南アジアの方々が旅を楽しんでいる。かつての爆買いではない。また、亡命しているような緊張感があるわけでもない。普通の人々だ。景気減速と言っても、中国の成長率は5%弱。日本円で約100兆円の規模だ。東南アジアの勢いも決して悪くない。あまり知られていないが、彼の地のスーパーアプリは日本のタクシーアプリと連携している。
国際情勢上の緊張感、地政学上のリスクとして伝えられる話と現実にズレがある。日本は景気が復調し、紆余曲折が大きくあるものの株高傾向で、経済が復活の兆しというが、スーパーマーケットで買い物をしても値上げラッシュに驚く。消費動向はむしろ鈍化気味だ。ホテルでミーティングをしても日本人の数が圧倒的に少なくなった。一体この違和感は何なのか、という思いが筆者が再度筆を執ったきっかけだ。
世界が変わってきている。そう思っていたが、もしかすると何かがズレているのかもしれない。そう思うようになった。
本書執筆の過程で、日本中華總商会(華僑・華人の経済団体)の在日本の重鎮と話す機会があった。彼は「中国との付き合いは長い目線で見ることが必要だ。中国人は、やっと3億人余りが先進国並みの食生活を送れるようになった。ただ残りの10億人以上の胃袋はまだまだ残っている」と語り、その大局的な見方は中国事業の捉え方について示唆に富むこと大だった。
とかく中国について日本の報道は、景気が上向けば期待論、政治的緊張関係が高まれば脅威論と、モノの見方が左右に揺れやすく、物差しが定まらない感がある。總商会重鎮が示したのは、簡単にブレない、長期的で泰然自若とした見識であった。
国対国という立場での議論では、競争・対立の構造の中で捉えるために、封じ込め的議論も出てくるが、ビジネスにおいては、国境を超えた取引が後戻りすることはまずない。一部にグローバリゼーションの終わりを説く向きもあるが、どうだろうか。
行き過ぎを是正する議論、例えば先に触れた中国の過剰生産・ダンピング輸出問題などは検討課題だろうが、だからといって、かつてのようなブロック化とか、中国製品をシャットアウトして世界の経済を回すことなど、もはや現実にはあり得ぬ話である。こと経済に関しては、あくまで現実的思考に立って物事を判断していくことが肝心だ。
何よりも現実を直視する。先入観やバイアスを排して、中立的・中道的姿勢に立って物事を見ていく。つまり、「レンズをどこに向けるかを意識して、ピントを合わせていく」、その姿勢がビジネスパーソンにとっては何より必要だろう。時として筆者が驚くのは、基本的なデータや公開情報にすら当たらない状況の中で議論を始めるケースが散見されることだ。
筆者が前著の『チャイナ・アセアンの衝撃』で強調したことは、「知らないことを、知る」「虫の目・魚の目・鳥の目」の手法であるが、本書でもそれを踏襲した。
ところで、最近、海外の投資家や外資系シンクタンク、識者らと話していると「この時代、日本は羨(うらや)ましい」と言われるようになった。アクティブな投資家は日本市場は「宝の山で涎(よだれ)が出る」と言う。一般に日本国内を覆う悲観論とは真逆の意見で、「え?」と思わず耳を疑ってしまうほどだ。
今、日本をはじめ海外でも「中国悲観論」が出回っている。それだけに、海外からの日本に対する評価が、中国悲観論の裏返しという単純な話ではないことを願うが、現実論として、恐らくは今こそが日本が飛躍するチャンス、発展する好機であり、それを逃してはならない、という意味や忠言なのだろうと受け止める。
そんな意識で内外を見渡すと、果たして日本は大丈夫か、と心配になる現実にぶつかる。中国悲観論に引きずられているわけではないだろうが、日本国内で目につくのは対ASEAN、東南アジア各国への、中国に対するのと同様な悲観的見方だ。つまりリスク論や消極的姿勢が目立ち、果たしてこれでいいのかと思ってしまう。現に、その傾向を表してか、日本の対外投資は欧米サイドに集中しており、アジア離れが顕著だ。しかし当の欧米諸国はしっかりとASEANはじめ、アジア投資を続けている。日本とは逆さまな振る舞いが見られるのだ。
アジア地域に、ASEANに、日本が苦労を重ねて、これまで営々と積み上げた投資実績や権益の大きさを我々は過小評価していないだろうか。半面、今日では「その先のアジア」であるインドについては話題沸騰である。だがインドも簡単ではない。インフラの整備、州ごとの規制の差は想像を絶する。成功事例がどれだけあるか、真剣に考えるべきだ。「チャイナ・アセアンでは十分やった。次の地域へ向かうのだ」という考えは、単純過ぎではないか。
このズレは現実として起こっている。チャイナ・アセアンを含むアジアの未来は軽視することができない。この地域は、日本の生死に関わる、と著者は考えている。
変転著しい時代に右往左往せず、徒(いたずら)に過去に拘泥せず、未来に向けて、アジアの中で日本の立場をしっかり築いていくには、まだまだ時間がかかる。日本は地理的にも身近な関係にある、このアジア、中でも「大中華経済圏」であるチャイナ・アセアンで足場を築くことなしに、世界で戦うのは難しい。
だが、新型コロナウイルス禍を経て、米中競争・対立が深刻化して以降、日本のアジア、ASEANに対する関心が以前より薄まり、失われたように見えるのは、筆者だけだろうか。昨年23年は「日・ASEAN50周年」の佳節の年であったが、経済界からの関心は極めて薄かった。IPEF(インド太平洋経済枠組み)の議論も「弾(タマ)無し」との声が相次ぎ、無関心が目立った。経済安全保障政策や対中リスクの話題があっても、守るべき日本の権益・国益への討議が欠けるという不思議な現象が起きているように思う。
改めて繰り返すが、本書は情報戦の中での「レンズの焦点の合わせ方」をテーマにしている。レンズは知らぬ間にズレてしまうものだ。「うっかり見逃してしまった」「足元の変化に気付かなかった」──。こういう類(たぐ)いのことはよく起こる。しかし、「たったそれだけのことが勝敗を分ける」(ナポレオン)のも歴史の常だ。経済も同様である。建設は死闘、破壊は一瞬である。
冷静かつ客観的であることはもちろん、プライドや見栄なども捨てて、見るべき視点を中立に保ち、レンズの焦点を十分に意識してピントを合わせる。その上で物事に対し、柔軟性のある姿勢を持ち続けられるか。そのためにできることは多々あるだろうが、中でも次の3つの観点が重要だと思う。
1つ目。「今」を見ること。未来を心配したり、過去を嘆いたりせず、出来ることを足元から探すのだ。経営学者ピーター・ドラッカーが喝破した通り「今起こっている未来」に着目するのである。
2つ目。「相手の視点」で考える。自分自身がやりたいこともよいが、相手がどう感じるかの方が重要だ。どんなに素晴らしい技術や製品でも、受け入れられなければ意味がない。また相手には別の取引先という選択肢があることが当たり前で、常に天秤(てんびん)にかけられていることも忘れてはならない。
3つ目。「神は細部に宿る」との格言もあるように「細部に目をやる」ことである。木を見て森を見ずではないが、木だけでなく葉を見るのである。生命科学の最先端である iPS細胞の研究現場などで実践されているアプローチ法で、一部を取り出して全体を把握する方法だ。細胞がネットワークの構成要素であり、組織全体に影響を与えているのだ。「生態学的推論(Ecological Inference)」として社会科学でも注目されている。
真剣にビジネスに向き合う経営者からは、世界で起こる政治経済イベント、関連情報が氾濫し、それがもたらす意味を考える時間もない、という嘆きの声をよく聞く。大量のアジェンダ、キャッチーな経営のキーワード、終わりのない競争、そして不確実性。ビジネスを取りまく混乱の中で「一体どうしたらいいんだ」と嘆き、憂え、ため息をつくビジネスパーソンや政策当事者の気持ちは分かる。
そんな方に向けて本書を書いたつもりである。
世界がすっかり変わってしまったというが、実は変わらないことの方が多いのだ。一点にとどまると書いて「正」と読む。海でも大河でも表層に比べ深部の動きはごくゆったりしているものだ。
本書は日本が「目を向けがちな」現実に対して、「見落としがちな」事実に視点を置いている。筆者としては、情報分析に当たり、大げさなことや長すぎる未来は語らないことを心掛けた。
本書の6つの章は、以下のような構成になっている。
1章は、世上にある“中国崩壊論”による先入観に捉われず、かの国を分解して細部を見るとともに、「新1級都市」の台頭に着目し、中国経済の深さを語った。
2章では、中国西部とASEANのつながりの進化について、知られざる中国の国策「中・東盟(=ASEAN)5カ年計画」と、さらに具体的に踏み込んだ省・市レベルの対ASEAN戦略を、物流を通して考察した。日米の太平洋諸国からは見えにくい場所に焦点を当てた。
3章は、単一のマクロ経済統計ではなく、貿易、投資、国際収支という複数のレンズで、チャイナ・アセアンの関係がどのように変化しているか分析した。
4章でチャイナ・アセアンで発展している、地域・国・都市といった枠組みを超えて活動する新たな企業のケースを解説している。
5章は、1章から4章までを総括し、これから想定される世界観を考察した。
6章で日本が生き残る道を書いた。ここには、過去に議論されたテーマを現代の視点で捉え直せば、出来ることがあるはずだという思いを結集している。
本書の結論を言ってしまえば、レンズのズレは、①全体を平均して見る傾向性、②事象を分解せず、レンズの焦点を対象に丹念に合わせようとしないこと、③見えにくい側面への注目を怠ること、④データ、数字をベースにせず、かつ継続的に追わないこと、⑤公開情報の軽視、⑥経済理論の軽視、⑦新興企業を見ない上から目線、にあると考えている。
他にも原因はあるだろうが、要はモノの見方のレンズの焦点がズレている、ないしは方向性が多分に硬直化、固定化している可能性があるのではないか、と考えている。もとより本書は全てをカバーしているわけではなく、レンズの焦点のズレを正す契機なりキッカケに資するべく分析を試みている。また、レンズ(モノの見方)を補正すれば未来が開けるのではないか、とも考えている。
かつて宇宙事業と言えば、国家が手掛けるものであり、イーロン・マスクの米スペースXのような民間企業が、NASAに並ぶ存在になるなど、考える人はいなかっただろう。それと同様に、実現不可能と思われたプロジェクトが現代では可能になるケースがある。これも、「出来ない」という思い込みのレンズを補正し、現代で可能なことを結集し、成し遂げたからだとも言える。
本書を書くにあたっては、同じ事象でも撮影する角度、焦点の当て方で、そこに映る世界も全く違う画像になることを改めて読者の方に伝えたい思いがあった。
戦場を撮り続けた報道写真家のロバート・キャパは、スペイン内戦での「崩れ落ちる兵士」やノルマンディー上陸作戦でのオマハビーチの兵士の写真で知られるが、戦闘の合間の兵士や戦地の子供たちの姿を撮影し、世界で起こっていることを伝えてきた。
かつてマーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカが実施した水爆実験で被曝(ひばく)した第五福竜丸が、静岡県・焼津に帰港した際、キャパは船ではなく、船員を迎え入れる焼津市民に焦点を当てた※2。キャパは次に何を撮るのか、どこにレンズを向けるのか、世界は注目していた。
たったそれだけのことか、というかもしれない。
だが見る側がどこに焦点を合わせるかで、伝えるメッセージは変わってくる。
混迷しているのは世界だけではない。定まっていない自らの視点かもしれない。
邉見伸弘
※1 Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の4つの言葉の頭文字を並べた造語
※2 『ロバート・キャパ最期の日』 横木安良夫著(東京書籍)2004年
【目次】




