その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は池松由香さんの『 データで徹底解剖 イーロン・マスク帝国 』です。

【はじめに】

 イーロン・マスクという名前を聞いて、皆さんはどんな人物を思い浮かべるでしょうか。

 電気自動車(EV)メーカーであるテスラの経営者として自動車業界に旋風を巻き起こしながらも、数多くの女性と浮き名を流す破天荒な経営者。巨大ロケットの打ち上げを繰り返し、何度もの失敗を経て宇宙産業を塗り替えた夢想家。X(旧ツイッター)で物議を醸す発言を繰り返しては、世間を騒がせる異端児。はたまた、トランプ大統領と組んで政府効率化省(DOGE)を率い、米国社会に大きな波紋を広げた人物――。

 おそらく、好意的な印象を持つ人と、批判的な印象を持つ人とに、くっきりと分かれるのではないでしょうか。

 米国の大学を卒業して記者職に就いてから30年がたち、2019年から24年までの5年間は、国内最大級の経済・経営誌『日経ビジネス』のニューヨーク支局長として米国社会と経済を間近で見てきました。米国在住期間は大学と社会人生活を合わせて14年。そんな筆者からすると、彼ほど評価の分かれる経営者は、世界を見渡してもほとんどいないように感じます。

 評価の差は激しく、嫌悪する人が多い一方で、崇拝する人たちもまた多いのです。嫌悪する側は「すべて己の欲のためにやっている自己中心的な人物」と切り捨て、崇拝する側は「天才だからできる」と神格化する。視点は真逆ですが、どちらも本質を見誤っているように思えます。両者の間にこそ、見過ごされてきたマスク氏の実像があるのではないか。

 本書はこの問いに、客観的なデータを見ることで答えようとする試みです。

マスク帝国はすでにあなたの生活の中に

 まず「マスク帝国」という言葉から説明します。本書でこう呼ぶのは、マスク氏が率いるスペースX(宇宙開発、衛星通信のスターリンクを含む)、テスラ(EVとロボット)、ニューラリンク(脳とコンピューターをつなぐ技術)と、26年2月にスペースXに統合されたxAI(Xを含む)という企業群のことです。

 スペースXとテスラ、ニューラリンクはそれぞれ独立した会社ですが、すべてが同じ目標に向かって動いています。その目標とは、火星への人類移住と意識の保存です。荒唐無稽に聞こえるかもしれません。でも、本書を読み進めるうちに、マスク氏がこの目標に向けて、いかに一貫して行動しているかが見えてくるはずです。

 この帝国の影響力が今、宇宙・エネルギー・AI・通信・製造業にまたがり、国家の枠を超えつつあります。

 その規模は、数字が雄弁に語ります。26年6月、スペースXが史上最大の新規株式公開(IPO)を実施しました。その時の時価総額は約1兆7700億ドル(約284兆円=1ドル160円で計算)。同時点でのテスラの時価総額と合算すると、3兆ドルを超えます。国際通貨基金(IMF)の試算による日本の25年の国内総生産(GDP)は約4兆4000億ドルですから、その規模は相当なものです。

 数字だけでは実感が湧きにくいかもしれません。もっと身近な話として、あなたのスマートフォン(スマホ)は、すでにマスク帝国とつながっているかもしれません。

 25年4月、KDDIがアジアでは他社に先駆けて、スターリンクの衛星を基地局代わりに使う「au Starlink Direct」のサービスを開始しました。対応するスマホであれば、山奥でも海上でも、ユーザーは追加料金なしでメッセージや位置情報を送受信できます。26年4月にはNTTドコモも参入し、サービスに対応する機種を持つ契約者の数はすでに約2200万人に達しています。申し込みも設定も不要。気づかないうちに、軌道上を周回するマスク帝国の衛星とつながっている人が、日本に数千万人規模で存在するのです。

 自動車でも同じことが起きています。テスラの日本での年間新車販売台数は25年に約1万600台を記録し(日本自動車輸入組合調べ)、日本進出以来、初めて年間1万台を突破しました。前年比で約9割増という急伸ぶりです。

 マスク帝国は、遠い米国の話ではありません。日本人の生活は、すでに帝国の中に組み込まれているのです。

取材もせずに断じることへの違和感

 ニューヨークに駐在していたある日、筆者は日本から訪米していた上司とともに、地元大学のジャーナリズムスクールの教授を訪ねました。話題がマスク氏に及ぶと、教授は明らかに感情的になりました。

 「彼は目立ちたいだけだ。己の欲のためにやっている。社会のことなど考えていない」

 こう言い切り、批判的な持論を一気に展開し始めたのです。

 違和感を覚えた筆者は聞いてみました。

 「その根拠は何ですか。マスク氏に直接、取材したのでしょうか。あるいは、マスク氏に実際に会ったことのある人を取材してそう感じられたのでしょうか」

 答えはいずれもノーでした。その後、少し口論になり、教授の口数が減ったところでオフィスを後にしました。その教授の言動は、かつて筆者が理想としていたジャーナリズムの姿とは、異なって見えました。

 大学教授に限らず、マスク氏を巡る言説は感情論に支配されがちです。特に米国では、左派的とされる知識人の間でマスク氏を激しく批判する傾向が強くあります。一方、マスク氏を崇拝するファンたちは、批判的な情報を受け入れません。テスラ車の所有者が罵声を浴びせられるなど、マスク氏を嫌う人たちから日常的な嫌がらせを受けた時期があったことも影響しているのでしょう。

 どちらの陣営も、「マスク氏とはこういう人物だ」という先入観から出発し、それを補強する情報だけを集めます。崇拝するにしても、批判するにしても、先入観ありきでは本質は見えません。これは、共和党と民主党の溝が埋まらない米国の分断社会と構造的には同じです。

 筆者が大学でジャーナリズムを専攻したのは、物事の本質を見極めたかったからです。授業ではこうたたき込まれました。「ジャーナリストは政権に対するウオッチドッグ(番犬)でなければならない」。権力を持つ者を監視し、事実を市民に伝える。それがジャーナリズムの使命だと教わりました。取材もせずに先入観で断じることは、その対極にあります。あの教授との口論は、改めてその原点を思い出させてくれました。

 もちろん、人間はどうしても主観的になります。好き嫌い、イデオロギー、育ってきた環境など、あらゆるバイアスが判断を歪(ゆが)めます。筆者自身も例外ではありません。

 だからこそ頼りになるのが、データです。数字は感情に忖度(そんたく)しません。イデオロギーで動くこともありません。データを丁寧に読み解くことで、感情論では見えなかったマスク氏の実像が浮かび上がってきます。これが本書の出発点です。

工場オタクがデータジャーナリズムに至るまで

 データ分析との出会いは、記者になってからだいぶ時間がたってからのことでした。筆者は、経営誌の『日経ベンチャー(現・日経トップリーダー)』、製造業向け技術誌の『日経ものづくり』、経済・経営誌の『日経ビジネス』と、日経BPの複数媒体で、20年以上にわたって工場カイゼンの現場を取材してきた自称「工場オタク」です。

 工場にハマるきっかけになったのが、トヨタ生産方式を生んだ大野耐一氏の直弟子で、1990年代にソニーやキヤノンの工場カイゼンを率いた著名コンサルタント、山田日登志氏との出会いでした。2003年ごろから10年以上、山田氏の現場指導に同行させてもらい、100を超える工場を共に歩きました。どんな目線で現場を見るのかを肌で学びたくて、近くについて動き回り、一部始終を記録しました。そのうち、別の取材で一人で工場に行っても、どこにムダがあるかが見えるようになっていました。

 その経験が、22年4月、テスラの最新鋭だった自動車生産工場「ギガテキサス」を訪問した時の衝撃につながりました。そこに広がっていたのは、日本の工場が何十年カイゼンを積み上げても到達できなかった「理想」ともいえる姿でした。

 当時、日本の自動車関係者はテスラを「ものづくりを知らないテック企業」として見ていました。でも、ギガテキサスの衝撃を経て、筆者は「マスク氏を侮ってはいけない。彼にはものづくりの本質が見えている」と感じ、妙な使命感が湧いてきたのです。「日本の製造業がテスラの本質を見ないままでは、これから訪れる大きな機会を逃しかねない。自分がマスク氏の謎を解き明かして伝えなければ」と考えるようになりました。

 ただ、取材だけでは賄いきれない部分があることも、特にニューヨーク赴任中には痛感していました。人の証言には主観が入ります。記憶は曖昧になります。マスク帝国の全体像は、内側にいる社員や周辺にいる人たちの証言だけでは見えてきません。

 そんな時、コロンビア大学のデータジャーナリズム講座を受講しました。23年のことです。プログラミング言語「Python(パイソン)」を習得し、大量のデータを自ら収集・分析できるようになりました。取材という「足で稼ぐ」手段に、データという「客観的に俯瞰(ふかん)して見る」手段が加わった瞬間、パッと目の前が開けた気がしました。ジャーナリストとして物事の本質を見極めたい、世の中の真実を知りたいという好奇心から始まった記者人生に、新しい地平が開いたように思えたのです。

 本書はその2つの手段を組み合わせたものです。衛星軌道データ、特許データ、法定文書、米証券取引委員会(SEC)提出書類、プライベートジェットの飛行履歴、サプライチェーン(供給網)のデータベース、求人票……。公開されているあらゆる一次資料を掘り起こし、マスク氏の行動とマスク帝国の実態をデータで照らし出そうと努めました。本書に掲載している図表はすべて、単独あるいは複数のデータを、人工知能(AI)の力も借りながら自ら収集し、独自の視点で分析して作成しています。どこからデータを入手したかは、図表に付随する「出所」や「注記」などに記載しました。

なぜ今、マスク帝国を学ぶのか

 マスク帝国を学ぶことは、日本の未来を考えることでもあります。

 第4章で詳細を見ていきますが、テスラやスペースXのサプライチェーンには、素材・部材レイヤーで複数の日系企業がすでに組み込まれています。

 宇宙産業では、日本政府が10年間で投じる「宇宙戦略基金」の総額1兆円を、スペースXが1年の設備投資で上回ります。しかも、その差は縮まるどころか開き続けています。第1章で詳しく見るように、スターリンクはウクライナ紛争に大きな影響を与えました。宇宙はもはや夢やロマンの世界ではなく、国家の安全保障を左右するインフラになっています。日本の防衛省・自衛隊も陸海空の部隊の通信手段としてスターリンクの活用を進めており、商用インフラを提供する外国の民間企業が国家の安全保障インフラの一角を担うという、かつては想像もできなかった事態が現実になっています。

 製造の哲学では、日本が生んだトヨタ生産方式の真髄を、マスク氏が深く理解して実践しています。ギガテキサスに導入されたギガキャストや重力を活用した垂直搬送。これらの発想自体はもともと日本の製造現場にあったものです。日本が生んだ哲学が、マスク氏の元で花を咲かせているのです。

 AIの分野でも、帝国の影響は日本に及んでいます。xAIが開発するAIアシスタント「グロック(Grok)」はXを通じて日本語圏にも広がっています。テラファブと呼ばれるテスラとスペースXが共同で進める半導体製造プロジェクトは、日本の半導体産業にも影響が及ぶことは間違いないでしょう。

 さらに見落としてはならないのが、地政学リスクです。マスク帝国は今、米中対立という巨大な地政学的力学のただ中に置かれています。テスラは上海に巨大工場を持ち、中国市場への依存度が高い。一方でスペースXは米軍の重要な調達先であり、中国とは対立関係にあります。

 25年、中国がレアアース輸出規制を発動した時、テスラの人型ロボット「オプティマス」の生産計画に影響が出ました。帝国のサプライチェーンに組み込まれた日本企業も、こうした地政学的な波紋と無縁ではいられません。米中どちらかがマスク帝国に対して強硬な措置を取れば、その影響は日本の取引先にも波及する可能性があるのです。

 そして人材の問題もあります。第5章で見るように、マスク帝国は世界中から優秀な人材を吸い寄せる強力な引力を持っています。かつて日本の素材や半導体といった分野の技術者が韓国や台湾に流出したように、今度は帝国が世界の優秀人材を吸収しているとしたら、日本の企業にとって他人事ではありません。

 マスク帝国の動向は、日本の産業・安全保障・日常生活のあらゆる場面に影響を及ぼしつつあります。では、日本はどう向き合えばいいのか。その答えを探るために、まずデータでマスク帝国の実態を徹底的に解剖するのが本書の目的です。

 第1章では、スターリンクが変えた現代の安全保障と、宇宙を舞台にした米中の覇権争いを見ます。第2章では、スターシップ開発の現場とスペースXの財務戦略を数字で解剖します。第3章では、xAI・X・テラファブという新たなピースがマスク帝国全体のパズルにはまる必然を読み解き、マスク氏の思想的背景に迫ります。

 第4章では、トヨタ生産方式とマスク流ものづくり革命の深層を比較します。第5章では、米アマゾン・ドット・コムの創業者、ジェフ・ベゾス氏や米オープンAIを率いるサム・アルトマン氏との競争を軸に、マスク帝国を動かす経営論を分析します。第6章では、熱狂的な支持者と激しい批判者を生む、マスク氏という「社会現象」の正体に迫ります。そして第7章では、これらすべてを踏まえた上で、日本はこの帝国とどう向き合うべきかを問います。

 データが示す答えは、驚くほど明快です。そして読み終えた時、あなた自身の中にも意外な発見があるかもしれません。

 それでは、マスク帝国をデータで解剖する旅を一緒に始めましょう。

【目次】

画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示