その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は守屋淳さんの『 最高の戦略教科書 孫子(新版) 』です。「まえがき」をお届けします。
【まえがき】
名経営者、勝負師に影響を与え続けている古典
今から約二千五百年前という大昔に書かれたにもかかわらず、現代でも絶大な影響力を誇る古典がある。それが兵法書の『孫子』だ。
何せ、その愛読者のリストには、驚くべきビッグネームが並ぶ。たとえばビジネスでいえば、ソフトバンクの創業者・孫正義社長とマイクロソフトの創業者ビル・ゲイツの二人がいる。孫社長でいえば、
《(八〇年代に入退院を余儀なくされたとき)これもよい試練と考え、孫子を学んだが、そのとき得た一つの結論として、孫子の〝孫〞と自分の姓を掛け合わせ、「孫の二乗の兵法」と命名したビジネスの法則を創り上げた》※1
と自ら雑誌に記したように、『孫子』が彼のビジネスにおける座右の書となっている。
また、ビル・ゲイツも自著『思考スピードの経営』や公開書簡のなかでしばしば『孫子』を引用しているように、強い影響を受けていることで有名だ。コンピュータ業界やIT業界には『孫子』の愛読者が多く、ラリー・エリソン(オラクル創業者)、マーク・ベニオフ(セールスフォース・ドットコム創業者)、エヴァン・シュピーゲル(スナップ創業者)、トラヴィス・カラニック(ウーバー共同創業者)など、各企業の盛衰はあるにせよ、『孫子』を愛読書にあげている人物は多い。
さらに、経営コンサルタントとして著名な大前研一氏は、一九七〇年代に日本的経営の特徴について欧米を講演して回るなか、次のように考えるに至ったという。
《日本の経営者にこれはという教科書はないが、みんな同じような発想をしている。それでいながら欧米から見ると、全体的にはなるほど深い意味があることを、欧米とは違った論理で、無意識のうちに行っている。やはり何か大きな影響を与えたものがあるのではないかと思っていた。そうこう考えて調査しているうちに、辿り着いた書物が『孫子』だった》※2
※1「プレジデント」一九九七年一月号 「リーダーが『座右』に置く孫子の『至言』」孫正義
※2「プレジデント」一九九一年五月号 「最高の経営教科書『孫子』を私はこう読む」大前研一
そこで、アメリカの出版社と共同で『孫子』の英訳を進めたが、諸般の事情で刊行はされなかったという。
スポーツに目を向ければルイス・フェリペ・スコラーリ監督がいる。二〇〇二年日韓共催のワールドカップサッカーで、ブラジルチームを率いて優勝させ、次の二〇〇六年大会ではポルトガルチームを率いてベスト4入りを達成。この間、ワールドカップ本選十一連勝という空前の大記録を打ち立てている。彼にはこんな記事がある。
《ポルトガルの宿舎では毎晩、孫子を読みふけるフェリペ監督の姿がある。
ブラジルを率いた02年日韓大会では全選手に手渡し、宿舎の壁にも印象深い言葉を張り出した》※3
ロナウドやロベルト・カルロスといったスーパースターが、『孫子』を本当に読んだとするなら、ぜひその感想が聞いてみたいものだ。他にもプロ野球の長嶋茂雄元巨人軍監督が、現役の監督だったときにスタッフ一同の前で『孫子』を暗唱してみせた、という報道がなされていた。長嶋氏といえば野生のカンが有名だが、勝つための戦略思考を身につけつつも、あえてエンターテインメントとしてのプロ野球を究めていった点に、彼の凄みはあったのかもしれない。
軍事においては、一九九〇年からの湾岸戦争において、実質的な多国籍軍の総司令官だったシュワルツコフ将軍が次のように評されている。
《孫子を読んでいたシュワルツコフ将軍は湾岸戦争で新しいことは何もしなかった。軍事理論を学び、名将の戦法に魅せられていた将軍は、二十一世紀の科学技術を用いて古代の知識を実践したのである》※4
このようにジャンルを問わず、現代の勝負師や名経営者を虜(とりこ)にする卓越した戦略を描き切っているのが『孫子』という古典なのだ。
※3「日刊スポーツ」二〇〇六年七月一日
※4『シュワルツコフ正伝』クラウディオ・ガッティ、ロジャー・コーエン著、鈴木主税訳、ダイヤモンド社
「方向性」と「競争状態での原理原則」
筆者は、そんな『孫子』をはじめとする中国古典の勉強会のいくつかで、講師を務めている。そこで一度、えっと思う経験をしたことがあった。筆者が、
「古典を活用するためには、抽象度をあげて考えることが重要」
と述べたときに、あるビジネスマンからこう返されたのだ。
「学校のときから今の会社に至るまで、『もっと具体的に』としかいわれてきませんでした。ものごとを抽象的に考えろ、なんてはじめていわれましたよ」
なるほど学校でも会社でも、与えられた課題をこなすなら、具体性が何より武器になるだろう。たとえば営業で成績をあげたければ、古典を読むよりも、「100倍売れるセールス法」とか「営業成績をあげるコツ」といった具体的なマニュアル本でも読んで実践する方が、成果への早道になる。しかし現代は、次のようにいわれているのも確かだ。
「先が見えにくい時代」
「グローバルに競争が広がり、加速する時代」
言葉をかえれば、未来に対する具体的なマニュアルをきわめて持ちにくい状態になりつつある。特に組織のなかで出世したり──自分の方が仕事を作り出し、与える立場になるという意味で──個人や自営で生き残る必要があるようなとき、この傾向は強くなる。
これを旅でたとえるなら、手元に「子供の手書きのような地図」だけ携えて、険しいジャングルを抜けようとする状況に近い。進まなければ坐して死を待つばかりだが、「詳細な地図付き旅程マニュアル」など誰も持っていない。こんな場合に何より必要なのは、
「あっちの方へ進めば何とかなるはず」
という方向性の感覚と、
「水がないと人は死んでしまうので、水の確保を最優先とする」
といった競争状態での原理原則の数々に他ならない。逆に、
「今まで直線ルートで進めば大過なかったから、今後もそうしよう」
といったように、過去の成功体験を安易に未来に当てはめるのは最も危険な行為にしかならない。状況が刻一刻と変化している以上、ひとつ前の法則が次に当てはまる保証などどこにもないからだ。
では、どうすれば「方向性」や「競争状態での原理原則」の感覚が養えるのだろうか。
そのうってつけの教材としてあげられるのが、「方向性」であれば歴史書、そして「競争状態での原理原則」であればまさしく『孫子』という古典なのだ。
抽象化のステップ
『孫子』は、日本でいえば縄文時代と弥生時代の移行期に書かれたといわれている。当たり前だが、現代とは時代も違うし、時代背景も違う。現代に応用するにしても、前提条件が大きく異なる。つまり、『孫子』を自分にとっての智恵として吸収するためには、
「簡単に言い直せばどうなるのか」
「より一般的に表現するとどうなるのか」
を、まず抽象度をあげて考えなければならない。かつ、そのうえで望ましいのは、
「『孫子』にはこんな原則があるが、現代では通用しないのではないか」
「自分の今までの経験からいえば、この指摘は逆になるのではないか」
と、その抽象化した内容にツッコミを入れ、「その原則が成り立つ前提条件とは何か」「成り立たない状況での戦略とは何か」と考えることなのだ。これによって、はじめて「競争状態での原理原則」の感覚は涵養(かんよう)される。
もちろんこうした作業は、慣れていないと難しい。特に今まで「具体的に」としか言われてこなかったような方であれば、なおさらだろう。そこで本書では、
Ⅰ部『孫子』は何が言いたいのか──まず内容を理解する。
Ⅱ部『孫子』は現代でも活用可能なのか──その内容の一般化・抽象化とツッコミ。
という二部に分けて、『孫子』を身にするステップを追っていく。
実践家に必要なのは「応用の才気」
実は、おそらくここまで記したのと同じ観点から、維新の元勲・西郷隆盛が次のような言葉を残している。
《漢学を成せる者は、いよいよ漢籍に就(つい)て道を学ぶべし。道は天地自然の物、東西の別なし、苟(いやしく)も当時万国対峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏伝を熟読し、助くるに孫子を以てすべし。当時の形勢と略(ほ)ぼ大差なかるべし》※5
※5『西郷南洲遺訓──附・手抄言志録及遺文』山田済斎編、岩波文庫(ルビのみ引用者)
『春秋左氏伝』とは、中国の春秋時代を描いた歴史書のこと。明治時代というのは、現代とまったく同じく、グローバル化と列強同士の争い──軍事と経済という違いはあるが──という二つの大きな激流に直面していた。そんな先が見えない時代への対処のために、まさしく西郷があげたのは、「方向性」と「競争状態での原理原則」を涵養するためにうってつけの二書だったのだ。
さらに、日露戦争時の日本海海戦で、バルチック艦隊を破る原動力となった参謀・秋山真之(さねゆき)にもこんな言葉がある。読みにくいので念のため引用者による大意をつけた。
《戦略戦術ノ原則ハ、海上モ陸上モ同一ニ而(テ)、唯(タ)ダ応用ノ手段ノミ異ル丈(ダ)ケナレバ、陸軍戦術ヨリ海軍戦術ヲ割出ス事モ出来可申(モウスベク)、爰ココニハ前文述(ノベ)タル如ク応用ノ才気無キモノハ、如何程(ホド)戦術ヲ研究シタリトモ、唯(タ)ダ単ニ口頭紙上ノ学者トナルノミニテ、実施家タル事ハ六ヶ敷(ムツカシク)候》
──戦略や戦術の原則は、海上も陸上も同一である。ただ使う手段だけが異なっているに過ぎない。だから、陸軍戦術から海軍戦術を割り出すことも可能となる。この点で、応用の才気のない者は、どんなに戦術を研究したところで、ただ単に口や文章だけの学者にしかならず、実践家になるのは難しい※6
※6『アメリカにおける秋山真之』島田謹二著、朝日選書、森山慶三郎宛の手紙より
われわれが持つべきはこの「応用の才気」に他ならない。それが評論家ではなく、実践家として成果をあげる道なのだ。
なお、本書の完成にあたっては渋澤健さんや増田章師範、徳川家広さん、酒巻久さん、和田洋一さん、大塚雄介さん、宮坂彰一さん、藤本欣伸弁護士、八木香さん、田中靖浩さん、山下哲生さんをはじめとする、筆者が講師等をつとめる勉強会の参加者、対談や取材を受けて頂いた方々の卓越した見識を多数拝借している。編集の労をとっていただいた日経BPの白石賢さん、永野裕章さん、武安美雪さんともども、記して感謝したい。
【目次】







