その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は尾身茂さんの『 1100日間の葛藤 新型コロナ・パンデミック、専門家たちの記録 』です。
【プロローグ】
2020年2月23日日曜日、令和最初の天皇誕生日は日差しの暖かな日だった。午後1時から新型コロナウイルス感染症対策専門家会議のメンバー10人ほどが急きょ「勉強会」を開いた。場所は、東京・白金台にある東京大学医科学研究所、メンバーの一人である武藤香織東京大学教授の研究室隣の会議室であった。
当時、政府は横浜に停泊していたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」内の感染者対応に忙殺されていた。この時期、私たち専門家に求められていたのは、早朝の大臣室で、あるいは、2月に入って開催された専門家助言組織の会議で、クルーズ船の乗客を降ろすべきかなど個別の質問について意見を述べることだけだった。
この時点で私たちは、本感染症が無症状者や潜伏期間中の人でも他の人に感染させ、既に国内での市中感染が始まっていると判断していた。症状がある人を隔離するだけでは不十分で、少なくともワクチン接種が普及するまでの間、人と人との接触をなるべく減らす必要があると考えていた。
私たちの見解を国に示さなければ専門家としての責任を果たせないと皆が思い始めていた。
個別の問題だけに答えることに強い危機意識とフラストレーションを感じ、居ても立ってもいられず集まったのだ。
翌24日には第3回専門家会議の開催が予定されていた。何が何でもその日のうちに見解をまとめなければならない。どんな言葉ならこの切迫感が国や国民に伝わるか。「瀬戸際」という言葉はどうか。
議論は白熱したが、日が暮れる頃には独自見解案の大筋が決まった。
私たちは政府によってつくられた会議のメンバーである以上、この時点で政府に私たちの考えを伝えるべきだと考えた。メールで厚生労働省に見解案を送信した。我が国では専門家助言組織のメンバーが独自の見解を出すのは、決して一般的ではない。私たちの見解案を国がそのまま受け入れてくれるか自信はなかった。
すぐに厚労省から反応があった。
「専門家会議としてではなく、専門家個人の名前で出してほしい」と言われた。当初の見解案では「呼気による感染の可能性」にも言及していた。この部分は一般市民に不要な恐怖感を与えかねないという理由で削除を求められた。厚労省は政府がつくった助言組織のメンバーが独自の見解を示すことに懸念を抱いていたようだ。
政府が新型コロナウイルス感染症対策に一生懸命取り組んでいるのは十分に分かっていた。もとより私たちの狙いは政府を批判することではない。政府と違う考えを私たちが押し通せば、政府と専門家の間に緊張感が生まれ、その後の仕事に支障を来す。しかしこのままでは、感染が急速に広がる可能性が高い。私たちの見解を今示さなければ、大変な事態になりかねない。
しかし専門家が独自見解を出せば、政府から煙たがられるかもしれないし、批判されることもあり得る。
政府に対して聞かれてもいないのに自ら独自見解を出すことは禁じられているわけではないが、「専門家は政府から聞かれた個別の課題に答える」という暗黙の境界線を越えることを意味する。
「ルビコン川を渡りますか」。私はメンバー全員に聞いた。
皆の気持ちは固かった。武藤さんと私が最後まで残って見解案の一字一句を点検し、会議室を出たときには、外は真っ暗闇で暴風が吹き始めていた。
この2020年2月23日がその後も続く、専門家たちの葛藤の始まりだった。
勉強会はお互いの考えをぶつけ合って、合理的な提案をつくるための場だった。勉強会に参加したメンバーの専門性は、疫学、ウイルス学、呼吸器内科、感染症、公衆衛生、医療社会学、リスクコミュニケーション、法律、経済学など多様だった。
私は政府との交渉役とともに、勉強会のまとめ役も担った。私が医師として変わり種だったからかもしれない。
そもそも私たち専門家の最も重要な役割は、感染リスクの分析・評価と、求められる対策を政府に提案することであった。それに最も多くの時間と労力を割いてきた。コロナ禍の3年間で私たち専門家が出した提言は100以上に上り、できるだけ根拠も示してきた。私自身はこれらの提言を「作品」と呼んでいた。
この「作品」づくりで最も意識したことは、合理的で人々に納得してもらえるかどうか。歴史の検証に堪えられるかどうかだった。
これまでに出した提言の根拠やそれに込めた思いを中心に、専門家同士の激しい議論、首相や大臣、行政官などとのやりとりなどを思い出しながら書いたのが本書である。次のパンデミックに備え、少しでも参考になればとの思いがあった。
本書は、専門家グループそして私自身が1100日間、どんな問題に直面したか、何に悩んだか、その葛藤の記録である。
【目次】



