その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はロバート・B・ゼーリック(著)、旭英昭(訳)の『 アメリカ・イン・ザ・ワールド 合衆国の外交と対外政策の歴史 』です。

【日本語版への序文】

 (本書の訳者である)旭英昭は、わたしと東海岸にあるリベラル・アーツのカレッジ〔訳注1〕で勉学と寄宿舎生活を共にしたルームメイトのひとりである。彼は、英語の修練と合衆国の国内事情を理解するために、日本の外務省からアメリカに派遣された若き外交官だった。爾来(じらい)、旭大使/教授とは50年来の友人である。彼は今回わたしの書いた本の日本語翻訳のために時間を割いてくれた。わたしは、この冬学期にハーバード大学のケネディ・スクールで、この本を教材にして講義を行ったが、そのクラスには何人かの印象深い日本人学生がいた。そのなかのひとり、有元万結(まゆ)は、外務省が在外研修のためにハーバードの大学院に送った才能豊かな若手外交官である。わたしが長年関わった外交活動や合衆国の対外政策に関する執筆活動が、このような日本人たちとの特別な友情から恩恵を受けたことをうれしく思っている。

 わたしが合衆国政府のなかでその職責を果たした期間を通して、日本は主要国のひとつとして、最初は経済的・政治的に、それから開発の分野で、そして時間が経つと広範囲な分野で安全保障上の役割を担った。米日間の同盟とパートナーシップの重要性を考えると、わたしの著作の日本語版が今回、日本経済新聞出版から出版されることを喜びたい。

 わたしが最初に日本との関わりをもったのは、ジェームズ・ベイカー財務長官を補佐した1980年代後半の頃だった。ベイカー財務長官は、為替政策の調整、保護主義的な貿易の阻止、そしてガット(GATT)・ウルグアイ・ラウンドを通した市場開放に向けた交渉を支持するために、主要7カ国(G7)の財務大臣間の協力拡大に乗り出した。わたしは、ベイカー長官の政策顧問兼政務執行秘書官として働いた。その時、船橋洋一はわたしにインタビューをしたが、それを彼の著作『Managing the Dollar: From the Plaza to the Louvre』(1988)〔訳注2〕の執筆に役立てた。彼の本は、その時代の国際経済に関する政策調整を説明する文献のなかでいまでも最も秀逸な一編である。

 1989年、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領が誕生すると、わたしはベイカー長官について一緒に国務省に移り、国務次官に就任した。この時期は、ヨーロッパでの冷戦が終わり、また、クウェートを解放した湾岸戦争があり、劇的な年月だった。しかし、ブッシュ大統領とベイカー長官は、特に世界経済との関係で、日本の重要性を認識していた。わたしは、裕仁天皇の大喪の礼に参列するブッシュ大統領に随行して日本に向かった。第二次世界大戦中に太平洋で若き海軍パイロットとして従軍して自らが果たした任務を考慮したブッシュ大統領は、自分が参列して深い弔意を表すことが、過去40年間を通して日本とアメリカが築いた深い絆を示すことになるであろうと信じた。

 ベイカー長官とわたしはまた、二国間の経済外交を個別的な貿易上の争点から日米構造協議に切り替えるために、合衆国政府内で関係省庁間の連絡調整を主導した。われわれは、貿易摩擦や保護主義につながる──たとえば、法律的、内部規則的、そして制度的な障壁のような──より基本的な要因に取り組むことを期待した。

 われわれは、また、ヨーロッパでの冷戦が幕を閉じたときに、アメリカの太平洋同盟の結びつきにとって必要な強固な経済的土台を確保したいと思った。合衆国は、1989年にアジア太平洋経済協力会議(Asia Pacific Economic Cooperation:APEC)を発足させるために、オーストラリア、日本、東南アジア諸国連合(Association of South East Asian Nations:ASEAN)諸国ほかと一緒になって行動した。われわれは、ブッシュ政権の末期に、欧州委員会(European Commission:EC)とのあいだで争点の多かった農業問題を解決し、そして、ガット・ウルグアイ・ラウンドの終結と新しい世界貿易機関(World Trade Organization:WTO)設立への道筋を開いた。

 しかしながら、合衆国経済が不況に入り、ブッシュ大統領の再選が厳しい局面に入ると、米日間の貿易をめぐる諸不満は刺々しさを増した。わたしは、1992年1月の不運な結果に終わったブッシュ大統領訪日の直前、つまり、前(1991)年12月遅くに、大統領特使として日本を訪れた。その折に、日本側の同僚や友人たち、特に、当時の小和田恆(ひさし)外務次官と渡邊幸治外務審議官が、貿易に関して進展があったことを示す手助けをしようと努力してくれたことを、わたしは、悲しみと感謝とが入り交じった気持ちで、常に覚えていよう。わたしが政権から去ったあとも、1990年代を通して、両国間では貿易をめぐる駆け引きが続いた。

 わたしは2001年に再び政府に戻った。ジョージ・W・ブッシュ大統領から合衆国通商代表(USTR)に指名されて、閣僚のひとりとして政権入りをした。そのときまでに、貿易問題は再び動き出していた。1990年代後半の失敗を受けて、合衆国は、欧州連合(European Union:EU)、日本、そして多くの国々と一緒になって、WTOのドーハ・ラウンドを立ち上げた。われわれは、中国と台湾のWTO加盟を完了させた。

 わたしは、ますます競争力を強めて大きくなってきた発展途上国が先進国側に多くを要求する一方で、彼ら自身の市場開放には消極的であるために、新たなドーハ・ラウンドが途切れ途切れにしか前進しないことを心配した。そのために、より野心的な自由貿易協定(Free Trade Agreement:FTA)の交渉プロセスを並行して進めることにした。2000年代前半に日本とFTAを模索することは両国にとって相当な困難があった。しかし、同年代に合衆国が交渉して実現した一連のFTAは、数年後に日本も参加する12カ国から構成される環太平洋パートナーシップ(Trans-Pacific Partnership:TPP)の基盤を提供した。他の11カ国のうち、合衆国はすでに6カ国とFTAを結んでいたので、それが交渉にとっての共通の雛形となった。

 日本の貿易政策の転換には大胆な指導力が、特に、亡くなられた安倍晋三首相の指導力が求められた。2017年に、合意されたTPPから愚かにも合衆国が撤退したときに、安倍首相は、微調整された環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(Comprehensive and Progressive Agreement for Trans-Pacific Partnership:CPTPP)の合意のために、先頭に立って驚異的かつ勇敢なリーダーシップを発揮した。

 2005年、わたしは国務副長官に就任して、新世紀の中国と最初の戦略対話を開くために動いた。中国の影響力が強まるなかで、日本のパートナーたちも緊密に関わることを望んだ。

 2007年に世界銀行総裁に就任すると、わたしは日本の経済、開発、環境担当の政府関係者との緊密なパートナーシップを享受した。世界銀行は、2008年から2009年にかけて起きた国際金融そして食糧危機に際して、貧困国に対する創造的で大規模な支援を新たに創り出す課題に取り組んだ。これに対して、日本はわれわれの努力を積極的に支持してくれた。わたしは、日本がもつ開発に関する経験について、東京にいる熟練した専門家たちから、なかでも特に、尊敬の念を自然に引き起こし、立派な業績を残した緒方貞子博士から多くを学んだ。

 わたしはまた、日本の国際主義者たちを支援する必要性を認識した。そして、世銀のなかで有望な人材のひとりである三輪桂子を総裁直属のスタッフに加えた。わたしはまた、当時武力的な内紛で混乱していたスリランカを担当するカントリー・ディレクターに、日本の財務省でキャリア官僚としての経験を積んだ石井菜穂子を据えた。その後、地球環境ファシリティ(Global Environment Facility:GEF)のCEO兼議長就任のために喜んで彼女の後押しをしたが、彼女は成功裡に2期の任期を務め上げた。

 わたしは世銀総裁時代に安倍首相と会談した。2012年に世銀を去ったあと、わたしは、特別の関心を抱いて、インド太平洋地域においてより大きなリーダーシップをとる位置に日本を向かわせるために尽力した安倍首相の外交活動を観察した。過去数十年間、日本は貿易、投資、そして開発に関する地域的および世界的なパターン(形態)について静かに影響をおよぼしてきた。東京はまた、多くの環境政策についても先導者としての役割を果たした。今日、日本では、安全保障体制とその備えをめぐり時宜にかなった適切な調整をするために、また、最近では2022年12月に改定された国家安全保障戦略(National Security Strategy:NSS)について議論がなされている。日本の国会議員、官僚、政策助言者や学者たちは、日本が行動を起こさなければならない政策的背景の変化を熟慮して、戦略についての見直しを行っている。彼らがそのような挑戦に直面しているときにあたって、わたしは、この本に盛り込まれている歴史的なパースペクティブ(視座)から彼らが何らかのヒントを得ることを望んでいる。


 日本の読者の皆さんは、この本を読み進めていくなかで、歴史的なエピソードと、そして、将来の対外政策についてわたしが行った考察の、ふたつに出会(でくわ)そう。わたしは、この本を書くにあたって、20世紀初頭のアメリカが世界的な強国(パワー)の地位へ駆け上がっていく動きと明治維新からはじまった日本の国際的な台頭とが交差していった軌跡に、強い知的な衝撃と関心を覚えた。両国の歴史は、地政学的にも、経済的にも、また文化的にも入り交じっていた。この本のなかの次の4つの章では、特に、合衆国と日本のあいだの歴史的な相互関係に焦点が当てられている。

 第5章(ジョン・ヘイ:門戸開放)では、1899年から1900年に古い清王朝が瓦解したときに、合衆国が中国の領土保全と商業的なアクセスを確保するためにどのようにして門戸開放を維持しようとしたのかが論じられている。ヨーロッパ人、ロシア人、そして日本人たちは、中国を分割して、植民地、割譲地区や保護区域に引き裂こうとした。国務長官ジョン・ヘイは、弱い外交的な手腕を抜け目なく使って、大国のあいだで共通項を見つけ出し、そして、それを少しずつ積み上げて、国際協調という弱い結束でそのパッケージをつなぎ合わせた。そうすることで、ヘイは北東アジアとワシントンにおける対外政策の展望を形作った。しかし、それから1世紀のあいだ、北東アジアにおける安全保障をめぐる争いは、東京とワシントンを、敵としてであれ、味方同士としてであれ、危機的な方向へ引き込んでいくことになった。そして、今日でも北東アジアは安全保障上のホットゾーン(危険地帯)である。

 1900年に中国への国際的介入が起きてから数年のうちに、日本とロシアは域内の支配をめぐって衝突した。第6章(セオドア・ルーズヴェルト:勢力均衡)では、1904年から1905年の日露戦争に対するルーズヴェルト大統領による和平調停について詳述されている。1905年、合衆国は北東アジアで自国の権益をめぐって戦うことを望まず、そのため、日本が侵略的なロシアの熊を牽制したことに最初は喜んだ。しかし、帝国日本がロシアの艦隊と陸軍を殲滅(せんめつ)的な敗北に追いやったことで、不安定を招く新たな支配が出現するおそれがあった。しかし、その後、資金不足に陥り、また、帝国ロシアとの戦争が長期化する危険を冒した日本は静かにルーズヴェルトの斡旋を求めた。ルーズヴェルトは、安全保障上の均衡を回復して、世界戦争に火をつけることになる大国間競争に発展するリスクを取り除くことを欲した。日本は和平と譲歩を獲得したが、北東アジアの大釜は沸騰を続けた。

 第8章(チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ:軍備管理とワシントン会議)では、アジア太平洋における権力関係をめぐる話題に移る。合衆国は第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約と国際連盟に込められた国際協調主義を拒絶した。しかし、合衆国は、国務長官チャールズ・エヴァンズ・ヒューズに導かれて、海軍軍備管理と補完的な地域安全保障システムを結びつけて、国際的な関与を取り戻す。1920年代のはじめ頃は、まだ日本とのあいだの関係調整はうまくできていた。日米両国ともに、莫大な経費がかかる海軍軍備競争を欲しなかった。日本の政治指導者たちは、全面的な軍拡競争による財政的な重圧を背負うことなく、国際協調によって、合衆国とイギリスとともに「ビッグ・スリー」の一翼を担うことができると考えた。東京が20世紀後半になって究極的に再発見をするように、経済的な成功こそが国民の福祉と国際的な影響力を高めるうえでの必須条件であった。

 1920年代の初期には日本の指導者グループのなかに、中国内の権力闘争に引きずり込まれる危険性を理解していた者たちがいた。中国に対する不介入政策によって、日本はその地理的な利点ゆえに、産業上の競争力を生かすことがまだ可能であった。しかし、この日本の自己抑制策は万里の長城以南にだけ適用された。日本は満洲については違った見方──つまり、資源と工業の基地として、また、おそらく日本の急増する人口の捌(は)け口として──をした。

 ワシントン会議についてのわたしの説明からは、政策決定者は軍備管理交渉を単なる技術的な実践としてみるだけではなく、より大きな政治・安全保障の青写真を描くための手立てのひとつとして扱うべきとの示唆が浮かび上がろう。軍備管理はひとつのプロセスであって、決して1回の出来事ではない。このような観察は今日では北朝鮮、イランに対して、おそらくは、あるポイントでは、中国についても適用される。

 1921年から1922年、合衆国、日本、そして他の列強のあいだで、安全保障と軍備管理の両面で合意が達成された。日本は、大きな経済的な影響力を維持しながら、山東省における中国の完全な主権を復活させた。国際的な諸列強は中国への侵食を抑えて、中華民国政府が権威強化、国家の統一、そして経済の発展を図る努力をすることに対して控えめながら支持を与えた。

 1920年代後半には、幣原(しではら)喜重郎による国際協調主義的な外交はそれに対して強まる反対に直面した。中国統一をめざし、ソヴィエト連邦との結びつきを歓迎した国民党の動きは、日本の安全保障観を揺るがした。帝政から共産主義に体制が変わったロシアは再びこの地域に影を落としていた。それから、世界的な経済危機が、貿易による成長に依存していた東京を揺るがした。合衆国が日本人移民を禁止したことはさらに日本にとっての屈辱となった。日本の軍国主義者たちは、満洲と中国での支配を土台にして、そして、その後東京が主導する大東亜共栄圏の諸計画を通して、経済的な自給戦略に舵を切った。しかし、その結果は悲惨な戦争だった。

 第10章(コーデル・ハル:互恵的貿易)は、国際貿易の崩壊と高くついた自給自足経済(autarky)への後退を論じる。国務長官のコーデル・ハルは、1934年の互恵通商協定法(Reciprocal Trade Agreements Act:RTAA)による授権を使って31の自由化協定を完成させて、そして、開かれた貿易に向けたゆっくりとした復活の動きをはじめた。1947年には、これらの協定に盛り込まれた諸原則が、ガットのもとでの新しい多国間貿易システムの基礎となった。そのシステムは、戦後日本の驚異的な復興を可能にした。

 より広範な貿易自由化を推し進めるためにハルが依拠した二国間協定のアプローチの実例は、TPPに発展した数多くのFTAの交渉に着手することになる2001年に、わたし自身の考えを形成するうえで大きな影響を与えた。わたしは、戦略的な意味をもつ経済的な好機に背を向けた合衆国の決定に深く失望したが、しかし、その代わりに東京が名乗りを上げたことに喜びを覚えた。

 日本の読者の皆さんは、また、アメリカの対外政策を論じた他のいくつかの章でも日本の経験と重なり合っている歴史的な諸事実を見つけよう。第9章(エリフ・ルート:国際法)は、アメリカにとっての国際法に関する、由緒はあるが厄介な経験について語る。幾人かの日本の外交官──小和田さんを含めて──や研究者たちも、国際法に関する価値ある貢献を行った。第12章(ヴァニーヴァー・ブッシュ:未来の発明家)は、科学技術と対外政策の結びつきについて指摘する。日本は、どのようにして科学と技術が政府や民間レベルを通して国際システムを形作るのかを理解してきた。第11章(アメリカ同盟システムの設計者たち)は、伝統的に同盟について拒否をしてきた合衆国が、どのようにして、またなぜ、1947年から1949年のあいだにヨーロッパで新しいタイプの同盟システムを築くに至ったのかを説明する。1950年、朝鮮半島で北からの南に対する侵略があったあと、合衆国は日本とのパートナーシップをはじめたが、それが今日最も重要な(consequential)二国間同盟に発展した。わたしは、インド太平洋地域に関して生じる諸課題を考えれば、米日同盟関係がこの数十年先にさらに重要性を増していくものと予想する。

 第14章(リンドン・ジョンソン:敗北から学ぶ)では、わたしは、アメリカがベトナムで冒した冷戦に関する計り知れない政策的な失敗を分析する。ワシントンは東南アジアが共産主義の手中に陥落するのを恐れた。1962年にある日本人経済学者から、日本が経験した経済の近代化の事例には「雁行型経済発展(flying geese)論」を通して新たな地域の成長活力を生み出す可能性があるとの興味深い示唆がなされた。しかし、アメリカ人たちがこれを受け入れるのは遅すぎた。最終的には、韓国と東南アジア諸国が日本のとった輸出主導の成長モデルを採用したことで、地域の安全保障にとっての経済的な基盤の構築につながった。

 第15章(リチャード・ニクソンとヘンリー・キッシンジャー:アメリカ型のレアルポリティーク)では、日本にとって最初の「ニクソン・ショック」でもある合衆国と中国との国交回復について語る。1971年8月の固定相場制におよぼしたニクソンの経済ショックとも結びついたこの外交的な展開によって戦後秩序に対する破壊的な変化が生じた。そのために、日本は劇的な対応を迫られた。そして、1970年代の石油価格高騰のショックは日本の対応を複雑なものにした。しかしながら、日本は逆境のなかで、その経済を大きく変化させて世界システムの柱のひとつに成長していくだけの柔軟性と能力を発揮した。

 ロナルド・レーガン大統領は、アイディアの闘いを通して、ソヴィエト連邦との冷戦を終わらせるために彼の戦略を模索した(第16章:ロナルド・レーガン:復興論者)。そして、それを受け継いだジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、平和的な終結について交渉した(第17章:ジョージ・H・W・ブッシュ:同盟指導者)。そのとき、米日関係は新しい世代の挑戦に直面していた。最初は、経済的競争が支配的だった。しかし、レーガン大統領と中曽根康弘首相は、政治と安全保障についてのより深まった絆のための土台を築いた。今日、これらの絆は経済的な相互依存と結びついて、合衆国と日本とのあいだの死活的に重要な太平洋を横断するパートナーシップを拡大・深化させている。

 法の支配による国際秩序にコミットする民主主義国家として、日本は合衆国にとっての重要なグローバル・パートナーになった。今日両国にとって諸価値を共有することがグローバル・パートナーシップ〔訳注3〕についての基本的な特徴となっている。日本と合衆国は、自由で開かれた、法の支配に基づく国際秩序の維持──そして前進──のために相互の協力関係を深めている。

 わたしは、この本の日本語版が両国関係についてのより深い理解のために貢献できればと願っている。日本の読者の皆さんは、過去200年にわたってアメリカの対外政策を導いた指導者たち、彼らが実践的な解決を通して取り組んだ諸問題、そして彼らが寄って立つアメリカのパースペクティブを形作ったアイディアと伝統について学ぶであろう。わたしは、成功、失敗、そして多くの中途半端な努力についても語ろう。というのは、対外政策を創り出す作業は、このようないろいろな結果を伴う止まることのない永続した試みであるからだ。日本と合衆国は、地政学的にも異なる地域に位置して、違った文化と経験をもつが、いま再び、相互に入り交じった国際戦略をそれぞれが練り上げている。わたしはそれがお互いの利益につながることを願う次第である。

  2022年12月

ロバート・B・ゼーリック

〔訳注1〕アメリカの場合は、学士号を取得する4年制の単科大学。
〔訳注2〕船橋洋一『通貨烈烈』(朝日新聞社、1988年/朝日文庫、1993年)。
〔訳注3〕ごく最近では2022年5月の岸田文雄首相とジョー・バイデン大統領による両国首脳共同声明にみられるこのアイディア、あるいは「地球的な規模」、「国境を越えた」、さらには「コモン・アジェンダ」などの類似した用語によって、政治・安全保障および経済・貿易分野での二国間問題に加えて、グローバル化に伴う国際協力・国際協調の一環として日米両国で実施されてきた取り組みのはじまりは、1992年に宮澤喜一首相とジョージ・H・W・ブッシュ大統領のあいだで発表された冷戦終結後はじめての日米首脳共同声明(The Tokyo Declaration on the U.S.-Japan Global Partnership)に遡る。旭英昭「“ツキジデスの罠”を避けるための知恵」1238頁、岩沢雄司/岡野正敬(編集代表)『国際関係と法の支配』(信山社、2021年)。

【目次】

上巻

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