その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は中山淳雄さんの 『オタク経済圏創世記 GAFAの次は2.5次元コミュニティが世界の主役になる件』 です。
【序章 オタクが席巻する世界】
新日本プロレスのニューヨーク興行という「事件」
事件は2019年4月6日におきた。おそらくは歴史上はじめて、純日本のコンテンツ、それもプロレス団体がマディソン・スクエア・ガーデン(MSG)の会場を満員にしたのである。
「サンキュー、ライガー、サンキュー、ライガー」「ナーイトウ、ナーイトウ」。蒸気がかって白ずむほどの人の熱気のなかでこだまする観客の声援。誰もが立ち上がって手をたたき、示し合わせたように声援を送る観客の動きは一糸乱れず、まるで群衆全体が一つの生き物のようだ。緊迫する試合のなかで叫ぶ女性の声、ときには10歳にも満たない白人の女の子が「ターナーハーシー!」と両脇の両親以上に必死に応援を送る。
その面々をみると驚くのは日本人どころかアジア系の観客の少なさだろう。1〜2割にも満たないのではないだろうか。圧倒的大半はコケイジアンと呼ばれる白人か、ときにアフリカンアメリカンである黒人、そして中南米のラテン系の顔つきもちらほらみられる。生粋の「アメリカ人」が日本人レスラーに口角泡飛ばして声援を送り、必殺技が繰り出されるたびに技名を連呼する。果たして、これは本当にニューヨークの会場だろうか。
2018年7月13日、新日本プロレスは世界のスポーツ祭典の聖地ともいえるMSGにおいて、翌年4月に米国のプロレス興行団体ROH(リングオブオーナー)との共同興行を行うことを発表した。MSGは1万5000人規模以上のホールとしては年間100万人を集める米国最大規模のスポーツ・コンサートなどの会場でもあり、「The World's Most Famous Venue」という刻印の通り、世界で最も有名なニューヨークのど真ん中にある聖地である。
日本人でこの舞台に立ったことのある事例は稀有で、2012年3月のL'Arc~en~Ciel公演、2014年のXJapan公演くらいである。その場所で日本のプロレスが興行を開くことも驚きではあるが、なによりもっと驚くべきは、この巨大会場におけるイベントのチケットが、サイトオープン後の16分間で売り切れたという事実である。
全米のプロレスファンが沸いた。なぜなら長く世界のプロレス業界を独占してきたワールド・レスリング・エンターテイメント(WWE)を除いて、1960年以来MSGで興行をしたプロレス団体などなかったからだ。2018年にタカラトミーの代表取締役社長から新日本プロレスの社長に転じたハロルド・ジョージ・メイは、「世界で最も有名なアリーナであるマディソン・スクエア・ガーデンで開催する今興行は新日本プロレスとROHにとって歴史的に重要なものとなるだろう」というコメントを残している。まさに新日本プロレスはこの興行において、日本発のスポーツコンテンツとして、ほぼ歴史上はじめてともいえる興行で北米市場に対して大きな楔を打ち込んだ。
これをプロレスのようなマイナー競技の、一興行の事件として片づけてはいけない。なぜなら、このプロレスの北米展開を仕掛けている新日本プロレスは、親会社としてカードゲーム・モバイルゲーム・アニメ・音楽のキャラクターコンテンツを展開するブシロードを持ち、その展開は明確な戦略をもって行われたものであるからだ。キャラクターメーカーによるプロレス展開ーー一見無関係にもみえるこの組み合わせには、れっきとした物語があり、その物語こそは日本企業の海外展開を成功に導くカギを握っている。
プロレスとオタクの親和性
矢野経済研究所の「2016クールジャパンマーケット/オタク市場の徹底研究」では、趣味別にオタク市場を分析している。アニメ・マンガ・ライトノベル・ゲームからプラモデル・ドール・アイドル・コスプレまで幅広いが、面白いのはそこに「プロレス」があることだ。野球もサッカーも、相撲も入っていない。唯一プロレスだけがスポーツ界でオタクジャンルとしてカテゴライズされている。小島和宏も著書『アイドル×プロレス』のなかで「プオタ(プロレスオタク)」としてプロレスがオタクの一ジャンルとして展開していること、それとアイドル好きが両立していることなどを語っている。
プロレスはなぜオタクと親和性の高いジャンルなのだろうか。
その理由の一つは、プロレスがルールと競争性を重んじるスポーツでありながら、挫折や夢など選手の戦う姿に感情移入しやすい特性を持つため、コンテンツ業界などと同様にユーザーが自分なりに関与していく余地を大きく残しているからだ。「活字プロレス」と呼ばれるように、プロレスは常に雑誌などのメディアとともに、リングの外においても批評・解釈を試合のように見せ、コンテンツの一部として提供してきた。こうした「ユーザー参加型」の性質が、アニメのような批評コンテンツに近いのである。
スポーツの一つとして肉体をぶつけ合うプロレスは見方を変えると実にコンテンツ的である。レスラーのキャラクター性は多岐にわたり、必殺技や服装・マスクからマイクパフォーマンスのクセに至るまで、個々の独自性を際立たせるわかりやすい装置にあふれている。正義とヒールの二項対立に見せたり、試合の勝敗のみならず長い時間をかけて因縁のストーリーが紡ぎだされ、1年かけて愛憎劇をドラマのように消費することだってある。映画のように視聴せよ、と語られるように、プロレスはアニメやゲームと同じように、十分にキャラクターと世界観を楽しむ対象になるのである。
世界各地に広がる日本文化商品
私にはオタクジャンルが21世紀に入って海外でウケている傾向と、新日本プロレスが米国でウケている潮流が、同じ流れのなかにあるように思える。映画「君の名は。」は日本で232億円、中国で95億円の大ヒットとなった。2004年にPCの美少女ゲームからはじまった「Fate」シリーズも、そこから数多くのアニメ作品が生まれ、モバイルゲームの「Fate/GrandOrder(通称FGO)」となって2015年リリースされたところから600万ダウンロード、3400億円もの収益を稼ぐ大ヒットに成長した。それに加えて海外市場からも700万ダウンロード、売上600億円を集めるグローバルコンテンツとなっている。「ラブライブ!」や「ソードアート・オンライン」などのように、いままで「日本のオタク向け」にみえていた作品が、米国・中国を中心とした海外ユーザーにも火をつけ、想像を超えた消費のされ方をしている。前述のプロレスのニューヨーク興行のように。
こうした現象は20世紀においても単発的にはあったものの、21世紀に入ってからの盛り上がり方は恒久的に広がりをもつようになってきている。マンガ・アニメ・ゲームを代表とするオタク向け商品は、もはや一つの文化商品として、海外で受け入れられている。
本書は、このオタク文化商品が国内で生成され、マスカルチャーとなる過程、それがグローバルにおいても消費されるようになる過程を分析することを目的に書かれたものである。
私自身は2014年から19年に至るまで、5年間にわたって米国、カナダ、欧州、東南アジアでオタク文化商品の海外化を推進してきた。バンダイナムコにおいてはゲームという商品を輸出ではなく現地開発によって展開し、また同時に日本のキャラクターを使ってゲームの需要をゼロから生み出してきた。ブシロードにおいてはアニメに始まり、カードゲーム・デジタルゲーム・プロレスの海外展開に関わってきた。その都度驚くばかりだったのは、全く日本とゆかりのない土地で突然ブームのように日本のオタクジャンル商品に火がつく様子であった。
新日本プロレスをみるためにニューヨークで1万人以上ものアメリカ人が会場に押しかけた。ほとんどがネイティブのアメリカ人である。米国アラバマ州では数千人の町のコミュニティセンターに「カードファイト!! ヴァンガード(注1)」という日本のカードゲームとプレイをするために20人以上ものプレイヤーが集まっていた。70歳を超える白人高齢者のユーザーが、60歳の妻を帯同しながら、まだ10歳に満たない黒人の子供にレクチャーを受けていた。メキシコのプエブラという片田舎で、町で50人いるカードゲーマーで最強を誇っていたのは、月収とほとんど同じ300ドルをかけて「ペルソナ5(注2)」のデッキをそろえた、コスプレが大好きなメキシコ人だった。日本に行くのが人生の目標だと語っていた。インドネシアでは戦隊ヒーローであるBIMA(注3)のゲームを500万人以上ものユーザーがダウンロードした。カナダ・バンクーバーのイベントで50人以上ものコスプレイヤーの半分近くが「進撃の巨人」のコスチュームで身をかためていた。海外で見るオタクの姿は、あまりに日本と同じように消費しながらも、同時に日本と違ってあまりに呵責なくそれを受け入れている様子であった。
ライブコンテンツ化と2.5次元の体験価値
私はこうしたシーン一つ一つを思い返し、なぜオタク文化商品が世界でウケ「やすく」なってきているのか、について考察してきた。5年を経て、たどり着いた結論が「ライブコンテンツ化」である。50年かけて日本で普及してきたマンガ・アニメ・ゲームは、2000年代に入ってから海外でも急速に普及し、高まった人気が2010年代に「ライブコンテンツ化」する配信やイベントといった装置によって市場として顕在化してきた。
オタク文化商品が出版や放送など20世紀のマスメディアに支えられていた時代には、言語や文化といった制度の壁が厳然と存在していた。その壁を超えることができたのは、もちろんインターネットというデジタル手段のおかげではあるだろう。新日本プロレスが縁もゆかりもない北米のニューヨークで、突然1万人を集める興行を打つといったあまりに無鉄砲なことができるのも、数十万人のフェイスブック、ツイッター、ユーチューブのフォロワーや、数万人が毎日視聴する動画配信プラットフォームの存在があってこそだろう。
だが成功要因の最たるものは実はデジタルそのものではない。本も映像もデジタル化が志向され始めたのは1980〜90年代であり、その普及は実はそう簡単には進まなかったものである。アナログ消費に慣れた人々は、一見便利そうにみえても習慣を変える必要があるデジタル消費へのスイッチングコストに阻まれ、よほどのメリットがないと新しい消費スタイルを受け入れられない。コンテンツをデジタル化すれば安くスピーディに共有できるという技術的な簡便さが、異文化を超える成功法則ではないのだ。
コンテンツがアナログからデジタルになり、オフラインからオンラインになるなかで、20世紀のパッケージビジネスは勢いを失い始めた。だが「リアルの時代」が終わってしまうかのような考え方は誤解である。デジタル上の情報消費ではあっても、我々の消費がリアルの人間関係やタレントとの接点から引き離されることはない。
むしろデジタル化によってリアルな関係性が多くの場面で構築しやすくなり、集合化・社会化の過程は「ライブ感」によって、より高い体験価値を提供できるようになっている。
「ライブコンテンツ化」は音楽ライブのような同時・同一の会場だけの話ではない。一つのコンテンツがアニメ→ゲーム→イベントと数か月・数週間単位で数珠つなぎに次々とアップデートされ、ユーザーの需要に応えて物語を提供し続ける。好きになったキャラクターについて理解を深め、消費を広げようとすれば、必ずそこには新しい関連商品がある。その喜びや消費の仕方を共有し合うコミュニティにアクセスできる。こうした「コンテンツが生きている」状態を指す言葉でもある。「供給と消費のライブコンテンツ化」が21世紀にオタクジャンル商品を輝かせ、我々が思ってもみないような場所で想像以上の規模の市場を形成しているのだ。
「ポケモン」も、「ドラゴンボール」も、「新日本プロレス」も、本書が事例として挙げ、米国で市場を築いた超日本的なオタク文化商品は、デジタルの力を借りてコンテンツをライブコンテンツ化し、「オタク経済圏」を構築することに成功した。2次元のアニメやゲーム、3次元のタレント・イベントなどの複数のメディアミックスチャネルを同時多発的に巻き込むことで、「2.5次元の体験価値」を創造する。コンテンツが静的なパッケージではなく、動的なサービスに、供給の仕方も消費のされ方も変化しているのが今という時代なのである。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の再現
マンガ・アニメ・ゲームは「市場」としてみなされにくい特性があった。個々の作品・商品としての固有性が強すぎるあまり、企業組織論や商品ディストリビューション、文化障壁などと合わせて分析・議論される機会が少なかった。それぞれの商品が物語をもっており、一つ一つ読み込まなければその共通性が理解できないからだろう。散在する個々のユーザーがただ熱狂して、たまたまそこに経済がスポットで生まれる、単なるヒット商品の集まり、のようにしか見られていない傾向がある。
だが、こうしたエンターテイメント産業もほかの製品と同じように、国・制度・社会・文化の壁を超えるために様々な工夫がなされ、類似商品・類似産業の成功失敗をラーニングしながら、組織的経験を蓄積し、バリューチェーンとして事業を展開している。私がビジネススクールで教えているのはそうした観点での分析である。そして、この2010年代に日本の他のどの産業よりもグローバル化に成功している。
現在のマンガ・アニメ・ゲームはいわば、焼き直された1980年代のような状況にある。当時、日本企業・日本製品が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として賞賛を受けた背景には、長期雇用・熟練した現場主義の職人・銀行(ファイナンス)含めた系列企業アライアンスなど、「技術立国」を支える日本的組織の装置があった(注4)。その装置こそが、実は現在マンガ・アニメ・ゲーム業界でも保存され、キャラクターやストーリー、ゲーム性といった形のないコンテンツを創り上げる原動力にもなっている。
では次なる2020年代がエンタメ企業にとっての1990年代となるのだろうか。製造業界がたどったようにモジュール型でスピーディな欧米企業に上流工程を、安価で労働人口の集中投下ができるアジア企業に下流工程を奪われ、日本エンタメ産業の統合的な強さは失われていくのだろうか。
少なくとも、オタク文化商品は、かなり小さく誰もがみていない領域から始まった点は異なるところだろう。NTTグループの需要とともにNEC、富士通が出来上がり、国策としての半導体世界一となった時代とも、東京電力のインフラ供給とともに三菱重工業や東芝などの重電産業が出来上がった時代とも異なる。マンガ・アニメ・ゲームは、国家とも財閥とも対極にある小さなベンチャーから立ち上がったローカルでニッチな産業である。
海外に競合が存在しない状態で市場をゼロから築き上げ、それがいまグローバルでマスユーザーに受け入れられ始めている。この市場の広がり方は、日本経済にとって新しい「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の成功モデルをみせてくれるものである。そのエッセンスこそが「ライブコンテンツ化」なのである。
本書の全体像
本書は全部で5章によって構成される。序章を問題提起として、第1章では20世紀の2次元ビジネスを振り返る。マンガから始まり、アニメとゲームがどのように人気と市場を獲得してきたか、なぜ米国でも欧州でもなく、日本でこうした市場が形成されたのかについて踏み込んでいく。いずれも最初は米国から輸入されたものではありながら、1960〜80年代に日本的なオリジナルの生産様式を確立し、米国以上の市場規模を確立した。同時にマンガ・アニメ・ゲームの3つは実は分かちがたく結びついており、コンソーシアムのようなグループとしてキャラクターの経済圏を創出する仕組みであり、その集大成として「ポケットモンスター」という世界一のキャラクター市場を確立するに至った。20世紀は2次元におけるオタクビジネスの確立期であった。
第2章はこれからの話である。21世紀に入り、2次元のキャラクタービジネスが3次元と交わり、2.5次元型のビジネスモデルに昇華していく。「バンドリ!」や「ポケモンGO」「劇場版名探偵コナン」の実例をもとに、「立体的な」メディアミックス展開をすることが2010年代に入ってからのヒットの発現条件になりつつある。本書のメインテーマともいえる「ライブコンテンツ化」が具体的にどういったプロセスなのかについて詳述する。
第3章は、キャラクター経済圏のグローバル化についての話である。日本発のキャラクターがなぜ国境を越えてグローバル市場を形成したのかを分析する。特に北米における浸透がメインテーマであるが、2010年代に動画配信によって日本のオタク文化商品の普及が決定的になった過程を示す章である。その成功にはマンガ・アニメとゲームが一緒になって文化コンソーシアムをつくっていたことが決定的な要因になっている旨を語っていく。
第4章はこうした2次元から2.5次元への動き、サブカルチャーがマスカルチャーになってきた過程と対比して、従来の3次元的なマスカルチャーが21世紀どうなっているかの話をテレビとスポーツの関係性から対照的に描く。またそうした中でも野球やサッカーといったメジャースポーツと違い、ニッチに海外展開を進めたプロレスがなぜ今米国で成功したのかというプロセスをつまびらかにすることで、3次元コンテンツにとっても2次元手法を取り入れて2.5次元のライブコンテンツ化アプローチをとる重要性について説いていく。この章をもって、エンターテイメント業界が迫られるモデルチェンジの話を着地させる。市場をシフトさせるポイントは、ローカル/ニッチにとどまらず、グローバル/ニッチに挑戦し、そこからグローバル/マスといった進化を遂げたマンガ・アニメ・ゲームの成功モデルへと回帰していくことである。このモデルチェンジの重要性は、日米で生まれたキャラクターの経済圏を比較することによって実感できるだろう。
第5章は、日本社会への提言である。著者は本書を「オタク文化の成功要因の抽出」にとどめるつもりはない。職人によって伝統的につくりだされたものがグローバルに市場を形成していく過程は、ここ20年で勢いを失う日本の製造業にもヒントになるものだと考える。日米の組織マネジメントからキャラクター形成ジャンルの違いなどに言及しながら、いかに他産業においてもライブコンテンツ化というトランスフォーメーションを引き起こし、再びグローバルでのプレゼンスを取り戻せるかについて投げかける章となる。
【目次】