その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は伊藤元重さんの 『マネジメント・テキスト ビジネス・エコノミクス 第2版』 です。
【はじめに】
この本は、2004年に出版された『ビジネス・エコノミクス』の全面的な改訂版である。初版の特徴をできるだけ維持しながら、その後に出てきたビジネスと経済学の両方での新たな展開を取り込んで抜本的に改訂した。
初版は多くの人に読んでもらった。ビジネスの世界での現象を経済学のツールを利用して解き明かすという意図が多くの読者に受け入れられたからだろう。研究者として、私は早い段階からビジネスの現場の話に触れる機会を多くもつことができた。日本を代表する経営学者の方々と自動車産業の研究書をまとめる機会があった。流通業界について何冊か書籍を出したが、これは多くの現場の方々からお聞きした話が基礎になっている。
経営学者や現場の経営者の話は本当に興味深いし刺激的でもある。ただ、私自身が経済学の世界で育ったため、少し違った角度からビジネスの世界の現象についての見方を提供できるのではないかと考えるようになった。結局のところ、ビジネスの世界で行われていることは、人間の営みである。心理学や社会学などあらゆる学問が役に立つはずだ。ただ、ビジネスは何よりも経済活動という面が強い。だから、経済学的な視点からビジネスの世界の現象について分析するという視点が重要であると思う。
経済学の強みのひとつは、ひとつの理論がさまざまな現象の分析に関する共通の土台となるということだ。金融の世界で観察されるビジネス慣行も、宣伝広告の社会的な意義も、不完全情報の理論というひとつの体系の中で説明できる。人々の(必ずしも合理的ではない)癖(クセ)を分析した行動経済学は、マーケティングの微妙なテクニックから株式市場におけるバブルの生成にまで考察を広げることができる。
ゲームの理論が多くの問題の分析ツールとして使われているということは読者もご存じだろう。ビジネスの世界にはじつに多くの現象が見られるが、特定のフレームワークを使うことで理解を深めることができる。これが経済学を学ぶ魅力でもあるはずだ。
経済学を学ぶという目的であっても、ビジネスの世界で起きているさまざまな現象は貴重な素材である。この本で利用する経済学は主にミクロ経済学である。通常のミクロ経済学の教科書では需要や供給などを抽象的に学ぶだけである。そうした抽象的な思考は必要ではあるが、多くの人は退屈な学問と感じているようだ。この本では、ビジネスの世界での事例をミクロ経済学の素材として提供することで、より血の通った経済学を学ぶことになるのではないかと思う。レシピを載せた料理本は、実際に料理をしてみないとその良さを楽しむことはできない。経済学という料理本を利用して、ビジネスの世界のさまざまな現象について考察を深めてもらいたいものだ。
この本の初版が出る前後から今日まで、ビジネスの現場を垣間見る機会をさらに多くもつことができた。社外取締役の役割は責任の重いものであるが、それ以外にも10を超える企業でアドバイザリーボードや顧問などの肩書きで現場の経営陣と議論をする機会があった。そこには家電や化学などの製造業もあれば、金融、IT、交通などのサービス分野もある。政府の審議会では、航空産業や電力の規制緩和の審議会の座長として、多くの時間を割いた。
こうした多様な業界に関わった上での実感であるが、まったく異なったように見える業界でもそこで起きている現象には、根底で共通のメカニズムが見られる。経済学の手法はそうした共通の基盤を理解する上で有効なものであると思う。この本の中で取り上げられているさまざまな事例の多くは、様々な業界の動きに触れる機会をもつことで私なりに「経済学的な思考」を磨いていった結果の産物だと考えている。
「ビジネス・エコノミクス」という書籍を執筆する上で、この20年ほどの間に多くの変化があった。まず学問のほうでは、行動経済学やゲーム理論など、ビジネスの事例に直結するような学問分野で多くの進展があった。こうした新たな展開をわかりやすく説明することが、新版の大きな役割であると考えている。
現実のビジネスの世界でも、多くの変化が起きている。何よりも大きいのはデジタル技術が加速度的に社会に広がり、私たちの生活を大きく変えてきたということだ。技術革新が社会や経済を変えるということはいつの時代でも同じことだが、近年のデジタル技術の展開のスピードは特に速いように思える。ただ、急激な変化であるからこそ、目先の変化に惑わされず根底にある潮流を読む力が必要となるはずだ。
今回の改訂では、日経BP日本経済新聞出版本部の田口恒雄、野澤靖宏、赤木裕介の各氏に大変にお世話になった。講演会などで、私のことを「アームチェア・エコノミストではなくウォーキング・エコノミスト」であると紹介されることが多いが、これは20年ほど前に田口さんが私の本の帯に使った名称である。その名称に踊らされるごとく、その後もずいぶんと多くの現場に足を運んだ。ただ私自身は、本当はアームチェアに座って本を読むのが好きな人間だと、この場を借りて申し上げておきたい。
2021年9月
伊藤元重
【目次】













