その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はジェラルド・カーティス(著)、山岡清二、大野一(訳)の『 代議士の誕生 』(日経BPクラシックス)。「はじめに 日本の選挙と私」と「二〇〇九年版まえがき 政権交代がなぜ今起きたのか」をお届けします。
【はじめに 日本の選挙と私】(1971年刊の原著より)
代議士はどのように誕生するのか。現代政治でこれほど刺激に満ちた重大なテーマも少ない。選挙は現代民主主義の心臓部であり、その鼓動に耳を傾ければ、その国の政治の健康状態がよくわかる。本当に競争原理が働いているのか。政党主体か、個人主体か。選挙運動に参加するのは一般の有権者か、それともごく一部の有権者が票をまとめるのか。こういった選挙をめぐる様々な問題が、一国の政治を左右する重大な意味を持つ。
日本初の議会選挙が行われてから、すでに一〇〇年近くが経過している。日本の国会はアジアでは最古の立法機関である。国会が「国権の最高機関」になったのは戦後の新憲法制定後だが、日本の政治家は国内初の選挙が行われた一八九○年から選挙運動を重ねてきた。日本は決して選挙の初心者ではなく、長い伝統と豊かな経験に裏打ちされた高度な選挙戦略が存在している。
しかし、戦後日本は比較的短い間に政治・経済・社会が激変した。農村中心だった社会は 急激な経済成長で都市型社会に移行し、技術革新と価値観の変化が国民生活を変えた。民主主義と国民主権という新たな政治理念が熱狂的に支持され、政治のあり方も大きく変わった。
日本の政治家は、こうした劇的な変化に対応する一方で、古くからの豊かな伝統を重んじながら、有権者の支持を獲得する選挙戦略を組み立てなければならない。本書では一人の政治家がこの課題にどう立ち向かったかを追う。
政治は様々な視点で分析できる。政治制度全体を包括的に俯瞰するマクロ分析も可能であり、顕微鏡を覗き込むように一点をクローズアップし、全体の理解につなげる方法もある。私は約一年半にわたって一人の代議士候補の選挙運動を微細にわたって検証する機会をえた。候補者の自宅に寝泊りし、戦略会議に顔を出し、数え切れないほどの農家や山村を訪れた。地元の政治家、新聞記者、有権者に話を聞き、じっくり腰を落ち着けて楽しい時間を過ごすなかで、本書に記したような選挙戦略、選挙組織の型が次第に見えてきた。
日本の政治家は新旧の型の間で激しく揺れ動いている。地元の名士に票のとりまとめを頼む旧来の戦略と、有力者を介さず後援会を通じて一般有権者を取り込む新しい戦略。共同体の規律とまとまりを重んじる農村の「固定票」という理想と、都会でアパート暮らしを送る「浮動層」という現実。候補者の手足を縛る過剰な選挙規制、それにもかかわらず編み出される新たな選挙戦略。これは衆院選を戦った佐藤文生(ぶんせい)氏の前に浮上した対立項のごく一部にすぎない。
佐藤氏は一九六七年、与党である自由民主党から新人候補として立候補した。選挙区は大分二区。日本有数の観光都市と広大な田畑や山村が混在する典型的な準農村部だ。その意味では大多数の選挙区を代表するものである。全国の一二三選挙区のうち、準農村選挙区に分類されるのは六○選挙区で、衆議院議員四八六人のうち、二三五 人が準農村部から選出されている。*
人口動態の変化に選挙区割りの再編成が追いつかない結果、準農村選挙区が国会に送りこんでいる衆院議員の数は、 “分不相応”の多きを数えている。大都市選挙区(農業人口が一〇%以下)の数はわずか二八、選出議員は一一三名 である。以下、都市選挙区(同一〇~二〇%)が一八区で議員数七六名、農村選挙区(同四〇%以上)が一七区で六二名の議員を選出している。
日米だけでなく、どこの国にも「典型的」と呼べる候補者はいないが、候補者個人を分析することによって、選挙や政治の仕組みがみえてくる。
どのような候補者であれ、個人の資質とは関係なく、一定の枠組みのなかで選挙を戦わなければならない。枠組みを決めるのは、社会制度、選挙制度、選挙法、伝統、文化、慣習、選挙区の産業構造といった条件である。
そうした様々な変数が候補者の取り得る選択肢を外から制限することになる。一人の政治家の選挙運動を追うことで、この枠組みの構造が明らかになり、したがって、何が政治を動かしているかについても理解を深めることができる。
一九六六年五月、私はこれといった当てもなく来日した。とくに深い考えがあったわけではない。自民党候補の研究をしたいと思っていた。自民党は国会の多数党であり、しかも前身政党まで遡れば、終戦直後の一時期を除いて戦後一貫して政権を担っている。野党候補の選挙運動も研究に値することは間違いないが、私としては与党候補がどのように選挙を制しているのか知りたかった。
また、新人候補の研究がしたいとも考えていた。というのは、すでに何度も当選している現職議員よりも、初当選を目ざす候補の方が組織や選挙戦略を組み立てる過程をじかにみることができると感じたからだ。都市部と農村部が混在する選挙区で、基本的な標準語の知識しかない私に方言が理解できることも条件の一つだった。
私はこうした思いを胸に自民党の中曽根康弘氏と会った。中曽根氏は本書でも閣僚経験者、派閥リーダーとして登場する。私は中曽根氏から佐藤文生氏を紹介してもらい、一九六六年六月、佐藤家の居候となった。
佐藤家の人々は多少戸惑いを隠せない様子だったが、いつも優しくおおらかに接してくれた。当時、衆院選は秋の初めという予測が有力で、私の佐藤家滞在も約三カ月というつもりにしていたのだが、この予測ははずれてしまった。結局、選挙は一九六七年一月末に行われ、これにともなって、私の居候生活も同年七月までという長期間に及ぶこととなった。
政治家・佐藤文生については、本書で検証し、その政治力と判断力を読者諸氏がそれぞれ評価されることになると思うが、人間・佐藤文生に関しては、ここで一言触れておきたい。佐藤氏のような優れた人格の持ち主がいなければ、本書はもとより、私にとってとくに思い出深いあの日々も存在しなかった。
本書にいささかでも価値があるとすれば、佐藤氏が極秘情報もふくめてあらゆる資料の閲覧を許可し、何時間でも私の話につきあってくれたからだ。
佐藤氏も、奥さんも、お子さんたちも、事務所スタッフのみなさんも、私を家族の一員として受け入れてくれた。日本の社会と政治に関心を持つ人間にとって、これ以上ないというほど、かけがえのない貴重な経験をさせてもらった。情報収集や人との面会を制限されたことは 一度もなく、一カ月もすれば誰もが私の存在を受け入れ、「いつもの通り」の姿を見せてくれた。
本書の登場人物の年齢は、一貫性を保つため、とくに断り書きがない限り、一九六七年一月時点のものとする。引用する全国紙・地方紙(朝日、毎日、読売、西日本新聞)はすべて大分県版で、最終面に配達地区の地元ニュースが掲載されている。朝刊・夕刊がある場合、とくに断り書きがないものは朝刊を指す。
本書の成立に関わった人にお礼を述べようとすると、大変お世話になったのに名前を書ききれなかったり、名前を挙げただけでは感謝の気持ちを表しきれないケースが必ず出てくる。本当にたくさんの政治家、運動員、新聞記者、県内の有権者のみなさんが私のために時間を割き、貴重な情報を提供してくれたばかりか、励ましの言葉までかけてくれた。すべてのみなさまに心から感謝したい。
とくにお世話になったごく一部の人には特別に感謝の念をささげなければならない。まず誰よりも、選挙運動に密着させてもらった上、居候までさせてくれた佐藤文生氏に厚くお礼申しあげたい。いつも優しくしてくれた佐藤夫人と三人の息子さん、一生君、正美君、治生君にも、心からお礼の気持ちを伝えたい。さらに佐藤氏の選挙事務長をつとめ、私にとっては選挙技術に関する最高の「先生」であった斎田亦人(さいた またと)氏にたいする感謝を忘れることはできない。同氏および佐藤事務所の責任者、首藤奚(しゅとう たかし)氏の協力なしには本書の執筆は不可能だった。
最後に、コロンビア大学の二人の教授に謝意を表す。とくに、私が日本研究に関心を持つきっかけをつくり、大学院時代から私を励まし、指導してくれたジェームズ・モーリー教授、そして、草稿の初期の段階で貴重なご意見をいただき、日本社会に関する豊富な知識を授けてくれたハーパート・バッシン教授にお礼を申し上げたい。本書に価値があるとすれば、すべてこうした方々のおかげである。
ジェラルド・L・カーティス
【二〇〇九年版まえがき 政権交代がなぜ今起きたのか】
二〇〇九年八月三〇日は、日本の政治史にとって歴史的な日であった。その日に行われた総選挙の結果、政権交代が現実となったが、今回の選挙は政権交代という以上に深い意味を持っている。それは、戦後日本の政党政治の終焉にほかならないという意味だ。
戦後、新憲法が成立して以降、今回の総選挙で初めて自民党ではない政党が衆議院で単独過半数を獲得した。これから民主党政権がうまく国家運営を行うことができるのか、あるいは 自民党が復活して再び政権を奪い取ることになるのか、今の時点で予測はできないが、これからどんな展開になっても、元の政治に戻ることはあり得ない。
下野した自民党は今までの野党とは違い、政権を担った経験がある。それを生かして民主党政権の政策を厳しく攻めることになるだろう。政権を担う民主党議員は、初めて政権運営、政策決定、官僚との関係、国家権力を知ることになる。選挙で負けて下野したとしても、与党の経験を持った野党になる。このことは、日本政治の新しい政党政治体系への移行を意味する。
民主党の勝利、自民党の敗北の原因を探ってみると、この選挙が今までの政党政治の崩壊を意味していることが明らかになる。麻生首相に対して有権者の支持は少なかったが、そのことがこの選挙の結果の説明にはならない。今まで麻生さんよりも支持率が低い総理大臣はいたが、総理が変わっても政権は変わらなかった。退陣直前の森喜朗首相の支持率は五・七%だった。竹下登総理はそれより少なく、最後にはゼロに近い三・九%だった。それと比べれば麻生総理の支持率の二〇%はそれほど悪くなかった。自民党が敗北したのは、麻生総理の責任は大きいと言っても、それがこの選挙の結果の説明にはならない。結局のところ、自民党が選挙の前に麻生総理を辞めさせて新しい総理総裁を選んで選挙に臨まなかったのは、だれになっても負けると思ったからである。
アメリカやヨーロッパの国々の場合、選挙結果は経済情勢に大きく左右されるが、今の日本の不景気がこの選挙結果の説明にはならない。バブルが弾けてほぼ二〇年経っている。その間、一九九三年に自民党を飛び出した人たちを中心にできた細川政権と羽田政権の短期間を除き、自民党はずっと政権を維持してきたのである。もっと遡ると、日本では経済情勢が厳しくなったとき、「大変なときで不安だからとても野党に任せられない」という有権者の心理が働いて自民党は政権を維持できた。今回、そうはならかった。だから、「経済が悪い」が選挙結果の説明にはならない。
もっと興味深いのは、投票所に足を運んだ有権者の間に民主党に対する期待はそれほど大きくはなく、民主党の主な政策に賛成する有権者もそれほど多くなかったことだ。選挙直前の世論調査では、「子供手当を評価する」は三一%、「評価しない」は四九%だった。高速道路の無料化に賛成する人は二〇%にすぎなかった。それでも民主党は圧勝した。なぜだろうか。
理由は明らかである。日本の社会が大きく変わってきたにもかかわらず、日本の政治、とりわけ自民党の政治がその変化に追い付けなかったことに尽きる。
そもそも自民党の権力基盤は、三つの柱に支えられていた。一つは、国民の間に「西欧に追い付く」という共通の目標があったことだ。その目標を達成することが自民党の主な存在理由になって、それを見事に実現した。だが、それは八○年代半ば頃までの話であって、それからどういう目標をどういう戦略で追求すれば良いのか、新しいビジョンを日本は見つけることができなかった。
私は四○年前、博士論文執筆のため大分県に住んで、日本の草の根民主主義はどう機能しているのか、与党・自民党の政治家は選挙をどう勝ち抜いているのかを研究した。具体的には、顕微鏡的なアプローチで一人の政治家、佐藤文生の選挙キャンペーンを分析して、日本の社会構造、法体系、政治文化の伝統、経済環境などが選挙戦略にどう影響しているのかを探って、『代議士の誕生』を書いた。
当時の自民党は有権者は何を求めているのか良くわかって、そのニーズに応え、「地元利益」のために一所懸命働いた。田中角栄氏は、貧しい地方に公共事業を割り振る「日本列島改造」論で圧倒的な支持を得た。佐藤文生氏もほかの自民党の政治家たちも、道路や橋、その他の公共事業を日本の隅々まで行きわたらせ、末端レベルまで経済発展させた功績がある。「佐藤道路」ができると有権者は喜んで、佐藤氏の票は増えた。そういう時代であった。
だが、時代が変わって、有権者のニーズは道路や橋やダムにはなく、医療、介護の充実、さらには地方経済の活性化によって若者を地方に引き留め、大都市に出て行かないようにすることだった。そういうニーズに今の政治が応えていないことが、今回の選挙結果を生んだ最大の理由であろう。東京など大都市から離れれば離れるほど国民が怒っていると感じる。農村部は自民党の鉄の地盤であったが、自民党はその社会の変化に気がつかず、変化に対応しなかった。そればかりか、昔成功したやり方で政治を続けていたことで、選挙に負けたのである。
自民党を支えた二つ目の柱は、エリート官僚の存在だった。一流大学出身の優秀な人材が国を支える官僚制度は、国民の信望も厚く、自民党と官僚は共生関係にあった。自民党は官僚の行政能力を信じ、官僚も地元への利益誘導を優先せざるをえない自民党議員に配慮した。一九二〇年代の大正デモクラシーで出来上がった官僚与党の関係は戦後も受け継がれ、「議院内閣官僚制度」とでも呼べる体制を生み出した。政府は官僚と与党の共同作業となったのである。
この二つ目の柱は一九九○年代の官僚スキャンダルと政策の失敗で倒壊した。官僚は長い間誠実で有能というイメージがあまりにも強かったため、不祥事や失態が明らかになると、国民は激しい怒りの声をあげた。自民党も自分の身を守るため官僚批判に加わり、経済失政への批判をかわそうとした。複数の大臣経験者が、重大な決定を下したのはすべて官僚だと訴えたのである。官僚と手を組んで長期一党支配を享受した自民党が、強大な官僚組織を前に自分たちは無力だったと訴えるに等しい。自民党政権が続く限り必要な官僚改革は進まないと有権者が結論を出したのは当然である。
官僚の改革、とくに官僚は政権を持つ政党と平等な立場ではなく、その下で働いているという関係を構築することが、民主党にとって最大課題である。それは官僚組織を壊すことではない。現代社会においては、官僚の協力なしに政府を運営することはできない。新政権の課題は官僚組織を壊すことではなく、官僚を使いこなすことである。彼らの知識と組織力を動員しながら政治家がリードをする。それが真の意味での「政治主導」であるが、実現困難な仕事である。
特に日本の場合、シンクタンクも少なく、政策提言ができる民間組織、あるいは政権にいた経験を持つ学者なども少ない。官僚も賢いから政権交代が起きたという現実を受けて民主党を敵に回さないように既に配慮をしている。情報と知識が官僚の主な武器である。それをどういうふうに使えばいいのか、官僚たちは今、新政権の出方を待ち構えている。民主党が日本の官僚組織を壊さないで自分の支配下で十分に使えるかどうかが、この政権の運命を決める重要な要素である。
自民党の長期政権を可能にした三本目の柱が、本書のメインテーマである。それは自民党の集票マシーンだ。厳密にいえば、日本の場合、集票マシーンは党の集票マシーンではない。個々の自民党代議士の個人の集票マシーンである。日本の政治のどこが一番変わったかといえば、それは本書が浮き彫りにした自民党の集票マシーンが機能を果たせなくなったことである。伝統的な集原マシーンは、今の社会のニーズに応えられず、悪をまとめる力を大幅に失ったのだ。
昔から日本の政治についてインタビューを受けると、必ずといってよいほど「どうして日本の政治は後れていると思いますか」とよく聞かれた。私は決まって「日本の政治は後れていると思わない」と答えた。佐藤文生氏のような日本の政治家を尊敬していたし、選挙組織を巧みに作りあげる佐藤氏の力量に感心した。自民党の派閥や長期一党支配についても、別に後れているとは思わなかった。派閥は他の民主主義国にもあるし、イタリアやスウェーデン、インド、アメリカ南部には一党支配の長い歴史があった。私には、日本の政治に自信と誇りを示すような質問が出ないことが不思議だった。日本はなぜ、アジアで唯一、高成長と民主政治を両立できたのか。日本はなぜ、戦後占領軍の導入した政治改革を受け入れ、報道や集会の自由など市民の自由を実現し、保護できたのか。そうした質問が出ないことを疑問に感じていた。
ところが、数年前に東京で講演したとき、私はつい「日本の政治は後れている」と口を滑らせた。それまで「後れているとは思わない」と主張してきた自分が、そんなことを口走ったのだ。講演後、どうしてそんなことを言ったのか、自分が何を言いたかったのかを考えた。「どうして日本の政治は後れているのか」という質問は「日本の政治はどうして他の国に比べて後れているのか」という意味だ。私はこの質問に「日本の政治は後れていない」と答えた。私が講演で言いたかったのは「日本の政治は日本の社会に後れている」ということだった。日本の社会は変わったのに自民党は十分変わらなかった。二〇〇九年八月三〇日、自民党はその報いを受けたのである。
大分で研究を始めた頃、私はある地方議員の地元の村を訪ねた。本書にも書いたが、この議員と田舎道を歩いていると、向こうから議員の知り合いの農家のおじいさんが歩いてきた。 議員は今度選挙があるので、佐藤候補をよろしく頼むと声をかけた。おじいさんの答えに私は驚愕した。自民党の集票マシーンをこの目で見た瞬間だった。おじいさんは「あなたに大変お世話になっておるから、もちろん佐藤さんに入れる」と答えたのだ。アメリカ人の私には意味の通らない言葉だった。なぜこの地方議員に世話になっているから、佐藤候補に投票するのか。しかし、これが自民党の集票マシーンなのである。
その後も大分に滞在し、様々なことを見聞きし、考えるうちに、これは民主党のマシーン政治が最盛期を迎えた頃のアメリカの政治とさして変わらないと考えるようになった。私が生まれ育ったニューヨークや、ボストン、シカゴなどの大都市では、政治ボスが民主党の政治を牛耳っていた。私は大分に行くまで田舎で暮らした経験はなかった。大分ほどニューヨークのアスファルト・ジャングルからかけ離れた場所もないが、そこの政治を調べていくうちに、これはどこかで見た光景だと感じるようになった。私が子供の頃、アメリカの大都市では、たいてい同じ民族がまとまって暮らしていた。イタリア系、アイルランド系、アフリカ系のアメリカ人が独自のコミュニティーと教会をつくる。東欧系のユダヤ人も、同質的な社会に住み、シナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)で祈りを捧げていた。移民一世を中心に形成された都市部のコミニティーは、日本の農村と同じような共同体意識の強い社会だったのである。
政治家の行動もよく似ていた。日本には選挙応援に奔走した運動員に「足代」を払う習慣がある。これを日本独特の習慣だと考える日本人は多いが、アメリカにも「walking around money(歩き回る金)」という似たような表現がある。意味は「足代」とまったく同じだ。当時の民主党議員は、住居や就職の世話など、何かにつけて有権者の面倒をみた。私が若い頃、ニューヨークのブルックリンにあった民主党本部は、佐藤氏の別府の後援会事務所とほとんど同じようなサービスを有権者に提供していた。
しかし、アメリカ経済が発展し、価値観が変わるにつれ、地元を離れる人や、外部からの人口流入が増え、共同体としてのコミュニティーのまとまりは薄れていった。有権者は民主党のマシーン政治に恩義を感じなくなり、地元の政治ボスは次第に票を集められなくなった。ボス政治への批判も高まり、民主党内部の改革が進んだ結果、一九六○年代半ばにはマシーン政治は事実上崩壊した。
半世紀後の日本でも似たようなことが起きている。村落の共同体は、急速に弱くなった。子供は大きくなると、村を出て行く。テレビの地震報道を見ていつも衝撃を受けるのは、農村部で倒壊した家屋に住んでいるのが、ほとんどが高齢者だという現実だ。四○年前、私が大分にいた頃には残っていた日本の大家族制度は、もう消滅したといってよい。昔の政治家が農村部で行っていたようなサービスは、もう誰も望んでおらず、必要とされてもいない。そして、必要とされるサービスが提供されていないのである。
今のような社会では、地方議員や利益団体の幹部が地元の票をまとめようとしても、自民党の最盛期のようにはいかない。数年前、私はあの地方議員と田舎道を歩いた村を久しぶりに訪れた。議員はすっかり年をとり、村は高齢者の村と化していた。かつてあれほど活気があった村の組織は見る影もなく、村民同士が集まって過ごす時間が減り、家でテレビを見て過ごす時間が増えた。住民から要望のあった道路はすべて整備されたが、道路ができた結果、都会に出て仕事を探しやすくなった。「平成の大合併」と呼ばれる明治期以来の大規模な市町村合併は、効率化と行政コストの削減につながるだろうが、多くの町村議会が廃止されたことで、地元選出の議員が減り、代議士候補の票をまとめる地方議員も減った。そして、有権者と地元議員の距離も遠のいた。たしかに日本の町村議会は多すぎるのかもしれないが、日本の草の根民主主義は、そうした町議会や村議会が中心になって支えていた。現在議論が盛り上がっている道州制もそうだが、行政の効率化ばかりに目を奪われていると、草の根民主主義の衰退を招くことにならないか、考えてみる必要がある。
地方の有権者の声は、本書の執筆当時から様変わりした。今、地方の有権者が不安に思っているのは「近くに病院がない」「農業の跡継ぎがいない」「政策が全国一律で地元の事情が反映されない」「自民党が地方経済の活性化に有効な対策を打ち出せない」といった問題だ。都市部ではかなり前から民主党の支持が高まっていたが、自民党が見逃したのは、もしくは対応を怠ったのは、地方が自民党のアキレス腱になったという現実だ。二〇〇七年の参院選と二〇○九年の衆院選では、長年自民党を支持してきた地方の有権者が反乱を起こし、自民党敗北の大きな原因となった。
したがって、佐藤文生氏が衆院選に初当選した一九六七年当時のような選挙戦略は、今の日本で使うのはあまりにも時代遅れである。地元の名望家に強く依存する「固定票」のとりまとめは、集票効果が落ちている。原因は、社会の変化だけではない。選挙制度改革も選挙運動の枠組みを大きく変えた。中選挙区時代の自民党候補は、同じ選挙区から立候補する他の自民党候補と戦わねばならなかった。佐藤氏のような新人は、自民党の公認を受け、十分な選挙資金を確保するため、自分の選挙区にまだ候補を出していない派閥の領袖に助けを求める必要があった。その上で、地方政治家など票をまとめられる地元の有力者を味方につけ、現職議員から票を奪い取ったのである。
一九九四年、中選挙区制に代わって小選挙区比例代表制度が導入されると、こうした党内競争は姿を消した。ところが、社会が変化し、選挙制度も変わったのに、今の選挙運動は多くの点で四○年前から変わっていない。一つには、過去の成功体験にとらわれ、昔ながらの選挙を漫然と続ける自民党のベテラン代議士の存在がある。選挙組織は今もおおむね個人後援会を軸に組み立てられており、依然として利益団体や地方議員の票まとめを当てにしている。麻生首相が衆院解散後にまずしたことは、一般有権者への演説ではなく、支持団体幹部への挨拶回りだった。自民党がいかに社会から離れてしまったかを象徴する行動だと思った。自民党の黄金期には、日本医師会をはじめ、全国規模で影響力を持つ強大な支持団体が、地方支部を通じて自民党の公認候補を応援し、票をまとめてくれた。それが各候補の勝敗を左右したのである。今、組織票の力は確実に衰えている。政治家は以前よりも格段に露出を高め、有権者に直接支持を訴えなければならない状況にある。
しかし、本書で書いていることと全く変わっていないことがある。選挙規制である。公職選挙法は、海外では考えられない非民主的な選挙運動規制を定めている。文書図画の頒布制限、候補者による有料広告の全面禁止、事前運動の禁止、戸別訪問の禁止に加え、さらに公示の日からインターネットを使った選挙運動まで禁じている。現代民主主義で許されるはずの有権者と候補者の交流、候補者に関する情報の入手が制限されているのである。
こうした法律が改正されないのは言語道断で、成熟した民主主義国という日本のイメージに大きな傷がつく。公職選挙法による選挙規制は事実上、憲法で保障された言論の自由を否定している。
選挙規制の多くは、旧自治省(現総務省)が、日本人は政治的に未熟で封建的な風習が残っているという理由で導入したものだ。戸別訪問など、非民主主義的な価値観に訴える選挙運動を規制しようとしたのである。
しかし、もともとの動機がどうであれ、そうした規制が温存されているのは、新人から名前や顔を売る機会を奪えば選挙で有利になると考える現職議員と、今だに保護者のような立場で「未熟な」有権者を見下し、過剰規制が生む特権にしがみついている総務省の役人が、手を組んで規制を守っているからである。選挙規制は、運動資金に上限を設け、資金の流れを透明にすることと、票の買収など本当の不正行為を禁じることに限定すべきだ。二一世紀にインターネットによる選挙運動を禁止するのは世界に恥じることである。公職選挙法による選挙運動の規制の抜本的改革を必要とする時代になったと思う。
佐藤文生氏は、自民党の現職二人と社会党の現職一人が立候補していた三人区で当選した。基本的には自民党候補三人の争いで、中選挙区制が生む党内競争の典型的なケースだった。一九九三年の政権交代で誕生した細川連立政権は、中選挙区制の見直しを強く訴えた。政権は短命に終わったが、数少ない成果の一つが小選挙区を軸とする選挙制度の導入だった。
小選挙区制の採用で小政党は予想通り衰退し、日本の政治は二大政党制の方向に向かった。ただ、この制度は新たな問題も引き起こした。
まず、党内競争には良い面もあった。佐藤氏の場合もそうだが、中選挙区制の下では、自民党の新人が自民党の現職を破ることが少なくなかった。自民党は一九五五年から九三年まで一度も政権を失うことはなかったが、新人と現職の入れ替わりは比較的激しかった。そうした党内競争があったから、自民党候補は高い緊張感を持っていた。自民党は勝っても自分は落ちるかもしれないという不安があったためだ。実力のない二世議員が議席を守るのも、今よりずっと難しかった。二世候補は、父親の知名度や後援会の力で一度や二度は当選できたかもしれないが、実力がなければ、同じ選挙区に候補を出していない派閥が、勢力拡大のチャンスとみて、新人候補を擁立し、世襲議員の議席を狙ったのである。
小選挙区制の導入で党内競争がなくなると、実力だけでなく、政治家としての志さえないことも多い二世議員が議席を守るようになった。アメリカをはじめ、他の国にも世襲議員はいるが、日本が特殊なのは、自分の意思ではなく、親の意思で政界に入った二世があまりにも多いことだ。日本は政治に情熱のない政治家が多すぎる。
党内競争がなくなると、自民党代議士に気の緩みが目立つようになった。知名度も組織力も資金力もない民主党候補をみて、自分は負けるはずはないと高をくくるようになったのだ。中選挙区制の廃止で党内競争がなくなり、緊張感も薄れた。二〇〇九年、自民党は緊張感のないままパニックになったのである。
加えて、二大政党中心の政治は実現したが、選挙制度改革の支持者が予想したような政策本位の選挙は実現していない。小選挙区制の導入を訴えていた政治家やマスコミは、二大政党制になれば国内外の重要問題をめぐって両党が異なる政策を掲げるため、政策の違いが鮮明になり、政策本位の選挙が実現するという一種信仰に近い確信を持っていた。各政党が「マニフェスト(政権公約)」を示し、有権者がその優劣を判断する選挙を想定していたのである。
しかし、他の多くの民主主義国と違い、今の日本には社会の分断や、人種・民族・宗教・地域・言語の対立が事実上存在しない。自民党候補と民主党候補が、基本的に同じ多数派層に支持を訴える選挙区では、かなり似通った政策を掲げることになる。政策をめぐって世論が二分されない限り、政策の対立もない。政策や基本理念にこれといった違いがないため、選挙を党首の人気投票に変えようとする圧力が働く。
中選挙区制が自民党の党内競争の「原因」になったという見方は多いが、問題はそれほど単純ではない。党内競争の「原因」は同一選挙区に複数の候補を出せるほど自民党の支持が厚かったことにある。自民党の支持率が低下すれば、公認候補の削減が必要になり、それに伴って党内競争が減ることになる。中選挙区制の廃止直前には、四人区と五人区が一般的だった都市部の選挙区で自民党が複数の候補を立てることはほとんどなくなっていた。この数十年の価値観の変化や社会組織の変化を考えると、中選挙区制が続いていれば、緩やかな多党制に移行していた可能性が十分にあり、そのほうが今の体制よりも日本の社会に合っていたのではないかと考えている。
本書で分析した選挙組織の基本的な特徴は、今もまだ見受けられるものが少なくない。一方で、本書の記述から大きく変わった面もある。したがって、今の現状と、昔の佐藤文生氏の選挙運動を比べることで、日本の政治がどう変わったか、何が政治を変えたのか、など様々なことがみえてくると思う。
『代議士の誕生」は日本政治の研究者としての私の誕生でもあった。私はその後も日本政治に関する研究や執筆を続けているが、本書にまとめた研究がすべての出発点になった。まだ博士課程の学生だった外国人の私に、選挙運動の裏側を包み隠さず見せてくださった佐藤文生氏という寛大な政治家に出逢えて私は本当にラッキーであり、その感謝の気持ちを言葉では表せない。そして今回、日経BP社の黒沢正俊氏が本書の新版の発行を決めてくれたことを大変嬉しく思って感謝の意を申し上げたい。
二〇〇九年八月 ジェラルド・L・カーティス
【目次】

