その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はジェニファー・バーンズ(著)、村井浩紀(訳)の『 ミルトン・フリードマン 生涯と思想(上)(下) 』です。「序章の抜粋」をお届けします。

【序章】

 2021年にインフレが舞い戻ってきて、原因は経済学の教科書どおりの、フリードマンが指摘したようなお金のばら撒き、つまり「ヘリコプター・マネー」にあると次第に理解されるようになった。これは彼の遺産をもう一度見直す時期を迎えたことを示唆している。フリードマンのマネタリズムが丸ごと復活することはないにせよ、その本質的な部分についての再認識が浸透するかもしれない。そのようになれば、マネーサプライに対する懸念が生じたときに、物柔らかだが見下すような態度のFedの幹部たちが事態をやり過ごしてしまったり、受け入れてしまったりすることは、もはや起きなくなるだろう。また、逆説的ではあるが、近年のフリードマンに対する超党派の攻撃も、彼の功績に新たな光を当てる可能性を開いている。一例は、このところ最も有望な進歩的政策実験となっているユニバーサル・ベーシックインカムであり、その現代的な起源は1939年のフリードマンの論文にさかのぼる。生前のフリードマンの人物像は保守主義と固く結びついていた。彼自身は、これに対抗する発想も抱いていたが、表面には明確に表れていなかった。結果的に所得保障型の政策を提唱している保守的な人々でさえ、その政策の歴史におけるフリードマンの役割を認識していないようだ。フリードマンが政治運動のシンボルとして扱われるようになるにつれて、彼の思想にある奥行きや複雑さが見えなくなっていった。ときには、フリードマン自身が彼の思想をスローガンに貶(おとし)めていた。また、経済学の専門的な議論に含まれる生き生きとした部分が部外者には伝わらなかった。本書の一つの目標は、フリードマンの思想の全体像を復元し、一般向けのイメージとして提示することである。

※ “Hebrews Prepare to Erect New Synagogue,” The Rahway Record, March 4, 1919; “Hebrew Auxiliary Plans Card Party and Outing,” The Rahway Record, April 24, 1925, 1; “Carteret Girl Tendered Party at Friedman Home,” The Rahway Record, November 20, 1926, 6.

 本書はフリードマンが書き、語った記録(アーカイブ)をくまなく調べ上げ、その全生涯を再現した初めての伝記である。私は彼の大学院生時代の受講ノート、生涯にわたる共同研究者や友人たちからの書簡、彼自身のさまざまな草稿、政治に関連した意見書、そして公刊された膨大な著作を織り交ぜながら描き出している。フリードマンは当初、そのときどきの出来事を伝える記事の見出しに反応する側にいたが、最終的には見出しに影響を及ぼす側に回った。私はその間の彼の心理の変化を読者に伝えることを目指した。物語はニュージャージー州ローウェイに住まいを定めたフリードマンの移民家族から始まる。続いて彼の知的な軌跡をたどりながら、経済学の主流からはみ出た変わり者が、この学問にそびえるような存在になっていく姿を追い、ブレトンウッズ体制崩壊後の世界が市場重視に転換していくうえで彼が果たした役割を解説して終わる。私はこの10年ほど、フリードマンが晩年に上級調査研究員(シニア・リサーチフェロー)として在籍したスタンフォード大学フーバー研究所に所蔵されている200箱を超す大量のアーカイブに没入してきた。スタンフォード大学の歴史学研究科の教員である私は、これらの資料に毎日のようにあたったほかに、フーバー研究所から研究支援を受けて、フリードマンの元同僚・教え子たちとも日常的に接触できるという環境にも恵まれた。多くの人たちがフリードマンの経済学の細かな点について快く説明してくれ、私の調査・研究の方向や結論を誘導しようとする例はなかった。私は研究者としてフリードマンに接近し、彼の思想を背景となる状況と関連づけ、敵味方の別なく、新しい世代のために彼の業績を読み取りやすく表現することを意図した。知的な営みの歴史を扱う者として、私は経済思想と、それが時代の推移に伴って変化していった様子、より広範な社会に及ぼした衝撃を要約して説明することに努めた。読者はこの物語を理解するにあたって特別な経歴や専門的な知識を必要としない。多くの章ではフリードマンと彼が生きた時代の中心的な人物との関係に焦点を合わせている。イギリス首相のマーガレット・サッチャーのように今でも名前を耳にする人物もいれば、FRB議長のアーサー・バーンズのようにあまり知られなくなった人物もいる。

 本書は20世紀を席巻した学問と言える経済学の部分的な評伝でもある。政治経済学の古い伝統から抜け出てきた現代の経済学は、グラフや方程式を用いる点が特徴で、これにより市場における人々の行動が分析の対象として取り扱いやすくなり、分析の条件も統一された。フリードマンはこの転換の一部を担ったが、同時に距離を置いてもいた。彼の最も重要な著作はテクニカルな論文ではなく、今でも読み返す価値のある書籍のほうである。見逃せないのは、フリードマンが政治経済学者であり続け、統治や倫理、正義に関わる問題に注意を払っていたことだ。それでいて彼は経済学者としても特別な技能を身につけて専門家の道を進み、40歳以下の優れた経済学者に贈られるジョン・ベイツ・クラーク賞やノーベル経済学賞を受賞し、アメリカ経済学会(AEA)の会長に就くというこの分野で最高の栄誉に浴した。

 私がとりわけ注目したのは、フリードマンが受け入れ、再生し、普及させた二つの経済思想の系統、すなわちシカゴ価格理論とマネタリズムである。このうちシカゴ価格理論は最も基本的なレベルでは、簡潔に言ってミクロ経済学であり、希少性の条件下での人間の合理的な行動を分析対象にしていた。フリードマンが学び、教鞭を執ったシカゴ大学にそのルーツがあることにちなんで名づけられた。この理論は経済学を受講する学生であれば、今の大学で習う内容とほぼ同じである。ただし、「シカゴ」バージョンには独自性があった。経済分析を従来の枠内にとどめることを拒否した。フリードマンは価格理論を教室の外に持ち出した。「価格を自由にする」という一貫したテーマを掲げて、次々に具体的な政策に適用していった。フリードマンが教育バウチャーの導入を支持したのも、徴兵制度の廃止を求めたのも、政府に対して自国通貨の価格統制(固定相場)の中止を説いたのも、すべてこの考えが根底にあった。しかし、シカゴ価格理論にどれほど影響力があっても、経済学における異端の潮流という扱いだった。また、読者はこれから本書でフリードマンが自分の学問に精緻な数学を取り入れることにどれほど頑なに抵抗したかを知って驚くだろう。

 経済学の世界でフリードマンはもっぱらマネタリストとしてその名を馳せた。マネタリストとは、貨幣数量説を中心に経済の動きを理解する学派の人々を指し、彼はこの呼称を嫌々ながらも受け入れていた。そして、貨幣数量説の根幹をなしていたのは、物価の水準と経済に供給されているマネーの量との関係を示す1本の方程式だった。もっとも、フリードマンの特徴はこの方程式を学派の経済分析の基本部分にとどめず、異端の経済学全体へと押し広げたことだった。経済生活において、マネーには潮の満ち引きを起こすのに似た大きな力があると考えていた。フリードマンがマネーに執着しているように見えたため周りから嘲笑されたが、彼こそ1970年代のスタグフレーションの到来を予知した数少ない経済学者の一人だった。結果的にマネタリズムは現代的なインフレ研究を生み出し、その重要な遺産は今も受け継がれている。フリードマンがこの学問に与えた影響は、最近の経済学が拒んできた方法論、アプローチ、手段を活用したことに由来する。彼はデータに深く分け入り、理論と測定結果を照合し、歴史を「自然に行われた実験」と見なして詳しく観察した。彼は知的な探究にあたって恐れを知らなかった。間違うことに尻込みしなかった。そして、より重要な点は、不人気になることを怖がらなかったことである。

 フリードマンの成功には見過ごされてきた秘密がある。キャリアの各段階に彼の将来を左右する女性の同志たちがいたことで、それを初めて強調しているのがこの私である。内気で引っ込み思案だった妻のローズ・ディレクター・フリードマンは隠れた存在であろうと最大限努力した。夫との間でやり取りした手紙まで焼いてしまい、彼女自身が準備や整理を手伝った膨大なアーカイブに痕跡を残さなかった。それでも私はフリードマンの経済学の専門家としての側面、社会のために活動する知識人(パブリック・インテレクチュアル)としての側面の両方で彼女が果たした役割を本書で再構築した。フリードマンにとって最も重要な知的パートナーはアンナ・ジェイコブソン・シュウォーツだった。創造的な発想ができて、洗練された調査を進める彼女だったが、男性の同僚たちによって働きバチのような立場に追いやられていた。仲間内ではフリードマンだけがシュウォーツの力量を見抜いた。そこで二人は一緒に画期的な著書『合衆国金融史』を執筆した。ただし、ノーベル賞受賞によって称賛されたのはフリードマンのみだった。私は数十年に及んだ二人の協力関係に光を当て、歴史とその叙述を愛してやまないシュウォーツの思い入れが、いかにして統計的な研究の成果を盛り込んだこの大著を現代の古典にしたのかを本書に記した。また、フリードマン夫妻の夏の別荘を訪れていた常連のなかには、ある女性の経済学者グループがいた。私は知られざるこのグループを明るみに出した。彼女たちは真夜中まで続いた会話を通じて、消費の分析について新しいアイデアを出し合い、徹底的に煮詰めた。それが一時凋落しつつあったフリードマンの名声を回復することに一役買ったのである。

 フリードマンの活力のもうひとつの源泉は、固く結ばれたシカゴ大学の男性の経済学者たちの友愛だった。彼らのなかには、妻ローズの兄アーロン・ディレクター(彼もまたあまり知られていない人物である)から、世界的に高名なオーストリアの経済学者で、ニューディール政策を打ち破ろうとする裕福な実業家たちにフリードマンを引き合わせたF・A・ハイエクまでが含まれる。さらに、フリードマンを導いた良き教員だったヘンリー・サイモンズも挙げなければならない。頭の回転が速く、輝かしい才能をもつサイモンズは歯に衣を着せない自由市場の擁護者にして増税論者で、主要な経済部門における政府の規制強化を求める活動家だった。彼の悲劇的な自殺によって、この一見不可能な組み合わせは、フリードマンの思考に対する影響が薄れていった。

 私はフリードマンが認識を欠いていた部分や、彼の欠点についても、一貫して率直に取り上げようと努めた。公民権運動への対応はその一つに数えなければならない。人材採用や公共施設の利用をめぐる人種差別を違法と定めた包括的な立法措置である1964年公民権法にフリードマンが声高に反対したことは、彼のレガシーに暗い影を落としている。私はフリードマンの姿勢にまったく同意できないが、それでも彼の信念、人生経験、社会的背景を踏まえて、彼がいかにしてこの見解に達したのかを正確に描こうとした。

【目次】

(上)

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