その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はアライアス・アブジャウデ(著)、松丸さとみ(訳)の『 あの人はリーダーに向いているか 』です。「序章」をお届けします。
【序章】
「リーダーになれるか」が「仕事ができるか」になっている現代
数年前、私が指導医を務めていた、非常に優秀な医学生のティム*が、推薦状を書いてほしいと言ってきた。皮膚がんを専門にしたいと考えており、競争の激しい皮膚科研修プログラムへの申し込みのためだ。
喜んで引き受け、私はそれまで学生のために書いたなかで、もっとも説得力のある推薦状を書き上げた。そつなく患者と接し、カルテは緻密、チームとしての協調性や信頼性も高く、期待されるレベルを大きく上回る実力を身につけているとティムを絶賛したのだ。
あるせわしない月曜日の朝、回診を終えたところでティムに下書きを見せた。研修プログラムの申し込み手続きのストレスを軽減するだろうと思ったのだ。
ところが、オフィスで手紙を読むティムの顔を見ていると、冒頭では見るからにワクワクしていた表情が、読み終わるころには失望したかのようになっていた。
「何か問題でもあったかな?」と、目の前の状況に混乱しながらティムに聞いた。「何か問題でも?」と繰り返す。問題どころではない間違いを犯したのだろうと感じながら。
これまで見たことがないほど険しい顔をしたティムは、長い沈黙のあとに口ごもりながら、こう聞いてきた。
「リーダーの資質について、何でもいいので何かしら加えてもらえませんか」
どうやらリーダーとしての資質の方が、臨床現場での能力や研究の成果、学術界への貢献、同僚との協調性よりも重要なようだった。ティムは、専門分野のリーダーとして輝かしい未来が待っていると指導医が太鼓判を押してくれない限り、競争率が高いプログラムには入れないと確信していたのだ。
私は唖然としたが、優秀なティムにはすばらしい皮膚がん専門医になってもらいたいという強い思いに変わりはなかった。そこで推薦状を書き直し、リーダーシップという言葉をなんとか2回も入れて、指導力について過剰に言及した。
私たちの臨床病棟は、リーダーシップの能力が花開いて評価されるような場ではなかったし、ティムがこれまで意思表示してきたのは、できる限り最高の医師になりたいという思いであり、従来的な意味での「リーダー」ではまったくなかったにもかかわらずだ。
ティムは結局、プログラムに合格した。
それから数年後、リーダーシップの心理に関する本を執筆するべく準備していたとき、未来のリーダーである、あのスター医学生ティムに連絡してみようと思いたった。あれから優秀な成績で研修を終え、現在は病院で働きながら新薬の研究を行っている。
意外だったのは、彼がすでに、リーダーのポジションを2つも断っていたことだ(研修プログラムのチーフレジデントと勤務先病院の皮膚科の医長)。
「リーダーの資質を発揮するって話、何だったんだろうな」と私は彼に言った。
するとティムは、意外な言葉を返してきた。
「とんでもない。僕はリーダー向きじゃありません」
私は「でも推薦状では、未来のリーダーとして見られたがっていたのでは?」と尋ねた。あれほど必死に、リーダーとして有望だと書いてもらいたがっていたのに、ふたつのチャンスをあっさりと断ったティムの変わりように私は混乱していた。
「僕らは、ゲームに無理やり参加させられているんです」とティムは説明する。
「もし書き直してもらっていなかったら、今の僕はなかったと思います。でも僕はリーダーに向いてないんです、本当に」
ティムは、自分の心理を熟知しており、自分がリーダーに「向いていない」ことをわかっていた。しかし同時に、私たちの社会では、リーダーの資質が何よりも評価され、もし「リーダーに向いていない」とのメッセージを発しようものならプログラムへの申し込みは却下される可能性があると、ティムはわかっていたのだ。
ほとんどの人は、ティムのように、自分や社会をここまでは熟知していない。
生まれ持った性質や、リーダーという役職に社会が不健全なまでに執着しているという事実を無視してしまう。
そして「誰もがリーダーの資質を持っているわけではない」という基本的な心理学的前提(と、そこから引き出せる結論「誰もがリーダーになれるわけではない」や「世の中にはリーダーだけでなくフォロワーも必要」)を無視して、リーダーシップ向けワークショップ、ブートキャンプ、専攻科目、コーチ、リーダーシップを教える教授などを、大量かつ盲目的に消費している。
社会で、何かが起きているのは間違いない。そしてそのせいで、逆にリーダーシップは珍しいものとなった。つまり、本物のリーダーは希少な存在になったのだ。
それが形として現れたものに、リーダーをつくり出すべく登場した「リーダーシップ工場」がある。リーダーシップ研修業界のプラットフォーム「チーフ・ラーニング・オフィサー」の概算によると、リーダーシップ研修は年間500億ドル規模に達し、3570億ドルの学習、能力開発市場の中でもっとも成長著しいジャンルとなっている。近年では、景気に左右されず毎年成長を続けている唯一の分野だ。
私たちの社会は、リーダーを「つくる」システム全体に賛同し、導入を進めてきた。ところが、尊敬に値し、誇りに思えるリーダーが恐ろしく不足していることからわかるとおり、このシステムは破綻している。その原因の究明は急務である。
例えば、至るところにエグゼクティブコーチがいる。優れたリーダーをつくる専門家だ。人事部に籍を置き、リーダーの最適化、ブランド化、改善を担う。
また、リーダーシップの役割への需要はとどまるところを知らず、これに対応するため役職名はますます無意味なものになっていく。サンフランシスコの人気レストランは、「チーフ・ペイストリー・オフィサー」を創設したほどだ。さらには、名称に「リトルリーダー」がついた託児所も増えている。まるで、リーダーシップ研修に乗り出すのに早すぎることなどないと言っているかのようだ。
それなのに、どちらの方向を見ても、リーダーの不在や、失敗に次ぐ失敗が目にとまる。
毎日のトップニュースはほぼすべてが、失脚したり、経営破綻に追い込まれたり、犯罪に手を染めたりしたリーダーの話題だ。
例えば、注目を集めたサム・バンクマン=フリード。米司法省から陰謀や詐欺など7つの罪に問われ、押しも押されもせぬ暗号通貨のリーダーの座からバハマ諸島の刑務所フォックス・ヒルへと転落した。あまりにも劣悪な環境で、フォックス・ヘルとあだ名される場所だ。
私たちは、リーダーシップを神話化して特別扱いすると同時に、根本的な性格や持って生まれた気質にかかわらず、誰もがリーダーの座にたどり着けるとするシンプルな研修法を受け入れてきた。
ところがそうして行き着く先は、まるでフォックス・ヘルなのだ。
数え切れないほどのMBAプログラム、オンライン研修、エグゼクティブ能力開発ブートキャンプが一丸となり、リーダーシップとは学んで身につけられるものだというメッセージを発している。
決して、運、状況、経験、そして何よりも心理面が、複雑に交差し合った結果としてなるものではないというのだ。
そう、心理面。
今のような一大産業や「学問」になる前、リーダーシップとは気質であり、人柄であった。さらにそのうえ、心理が果たす役割を分析するべく丹念につくられたリーダーシップ研修を受けて、ふるいにかけられる必要があったのだ。
口先だけのサポートではなく、なかにはリーダーに適した心の姿勢を持ち合わせておらず、諦めるよう促されるべき人もいること、そして非常に重要な点として、だからといってそれがダメな人間という意味ではないことを認める研修だ。
これは、盲目的な信奉者に手放しで称賛されるような、個人崇拝されるリーダーの話ではない。優秀なリーダーシップに適した資質もあれば、リーダーのポジションに昇進したら人に不満を抱かせたり、人を傷つけたりする資質もあるという話だ。
「どのような資質でも、しっかりと教え込めばリーダーとして成功できる」という考え方や、「適切なリーダーシップ研修プログラムに申し込めば、あるいは適切なエグゼクティブコーチについてもらえば、リーダーシップは身につけられる」という考え方を捨てない限り、無能なリーダーが社会にはびこる危機や、リーダーシップに隠された純粋な自己愛(ナルシシズム)、さらには実体よりも役職を崇拝することがもたらす病的な影響から逃れることはできないだろう。
その結果、私たちはこんなリーダーと闘い続けなくてはならなくなる――例えば、影響力のある教科書を執筆したほど優れた化学の教授なのに、教え子350人中82人が有機化学の授業が難しすぎると請願書に署名したことを受け、その教授をクビにしたニューヨーク大学の学部長たち。
または、従業員の生活がかつてないほど経済的に不安定になるなか、自分の昇給を交渉するようなCEO。
暴利をむさぼっているせいで、営利病院より利益を上げる非営利病院。
ささいな言い分を通したり自己中心的なニーズを満たしたりするために、臆さずに政府機能を閉鎖する議員。
このような疑問に私が向かい始めたきっかけは、私にリーダーシップ研修への参加を促す広告メールが急増したことだった。こうした広告メールはたいてい削除ボタンを押して終わりにするのだが、それは、社会全体のレベルで何かが起きていることに気づくまでだった。簡単には削除できない何かが起きていたのだ。
最初に気づいたのは数年前、あるビジネススクールから講演の依頼を受けたことだ。承諾の確率を上げるためか、主催者はメールのなかで私を「ソートリーダー」〔特定の分野の専門知識を持つ、影響力のある権威的人物〕と持ち上げた。初めて見たフレーズだ。
私はこの表現に、いささか気味の悪さを感じてしまった。マインドコントロールじみたところがあるうえ、精神科医として、統合失調症の症状である「思考吹すい入にゅう」(外部の力によって思考が自分の頭に吹き込まれたと思い込む)や「思考伝播」(自分の意志に反して思考が外部に伝えられていると思い込む)を連想してしまったのだ。
この「ソートリーダー」は、受け身的な人物の頭の中にアイデアを植えつけたり、私の考えを深い認知レベルで広く拡散したりする能力を示唆しているのだろうか?
観客に対して、私はそのようなパワーを持ち合わせているのだろうか?
そんなことはない、と思った。
それでも依頼はありがたいと思い、すぐに承諾した。ところが、イベントの間に起きた出来事によって、私はもっと考えを巡らせる必要があるかもしれないと思った。
まずはじめに、ソートリーダーシップとはどうやら、混み合った分野のようだった。
テクノロジーから教育、ボランティアなど各専門分野のソートリーダーとして紹介されたスピーカーは、私以外に複数人いた。
また、講演中に観客の誰かが意見を述べたり質問したりしようとするたびに、司会を務めるビジネススクールのチーフ・デベロップメント・オフィサーはわざわざ、発言者を正式なリーダーシップの役職名(それがいかに変わったものであれ)までつけて紹介した。
ということで私は、おなじみのチーフ・エグゼクティブ・オフィサーに加え、チーフ・グリーン・オフィサー、チーフ・エンゲージメント・オフィサー、チーフ・ブランド・マネージャー、エグゼクティブ・バイスプレジデント・フォー・オペレーショナル・エクセレンスと知り合った。なかには、「兼業」として紹介されたリーダーさえいた。この男性は複数の領域でリーダーを務めており、すべてリストアップするには役職が多すぎるという意味だ。
また、「フィアース・チーフ・ファイナンシャル・オフィサー」といった具合に、「フィアース」(猛烈な)という役職名を冠するリーダーも数人いた。まるで猛烈さがリーダーの資質として求められ、役職名の重要部分であるかのようだ。
翌朝、ビジネススクールの上級役員から感謝のメールが届いた。文面は、「ご参加くださったことに、リーダーシップは感謝申し上げます」で始まっていた。
このメールは署名欄に名前が記された特定の個人から来たものだったが、その人物は、通常のメールのような「私」やスクールを代表した「私たち」という言葉を使わなかった。代わりに不自然な言葉で、自分のことを「リーダーシップ」と複数回にわたり呼んでいた。
なぜ、特別に何かを伝えるわけでもない不適切な言葉にこだわるのだろうか?
ほかの疑問もふつふつと湧いていた。
シリコンバレーではなぜ、率いるべき従業員もおらず、漠然としたビジネスモデルとわずかな予算しかない小さなスタートアップ企業を運営する20代たちが、自らにプレジデント、CEO、CTOといった役職をつけているのだろうか?
私の患者にもいる、トップに上りつめるために殺人的な競争に巻き込まれている人たちに、私は何と言うべきだろうか? 精神科の診療中に、自分は向いてないので、誰もが不幸になるだけだと認めさせることになるのだろうか?
学術界や非営利セクターの人事部は、ビジネス界を下に見たがるにもかかわらず、なぜビジネス界と同じようにリーダーシップ研修には無批判に夢中になるのだろうか?
もし家庭で、優柔不断な配偶者や無気力な子どもに対し、あるアクティビティをすることを「責任者として決定した」と伝え、従わないという選択肢はないと伝えたら、どうなるだろうか?
世の中は本当に、チーフ・ハピネス・オフィサーなど必要としているのだろうか?
チーフ・スピリチュアル・オフィサーもしかりだ。
それに、チーフ・メタバース・オフィサーはいったい何をするのだろうか?
こうした疑問や考えは、どれも同じ社会の源から来ているように思えた。点と点を結んで浮かび上がってくるストーリーは、リーダーシップへの執着が深刻な問題になること、そしてフォロワーが道に迷うことを物語っている。
社会で同時に起きているこうした事象によって、私はあることに気づかされた。
ゆがんだリーダーシップ観を偏在させ、本物のリーダーシップを不在にさせる何かが起きていると。
そしてそれは、深く分析するに値する。
私たちは、リーダーシップというコンセプトをかつてないほど崇拝するようになった。
自分には価値があると考える「自尊心」という言葉は今や、会社、教育、医療、さらには子育てまでのさまざまな分野において、揺るぎない「リーダーの資質」を発揮できて初めて感じられるものという意味になっている。
私たちはエグゼクティブの役割に執着し、「誰もがリーダーになれる」という理論の誤りを無視している。産業全体が、自分もリーダーになれる運命にあるのだと人に思い込ませ、その運命を勝ち取るよう手助けするようになった。
にもかかわらず、逆説的かつ悲劇的に、リーダーシップを放棄する非常に多くの事例が、役員会、政府、非政府組織、学術界から出続けている。
この言葉をつづっている、私が勤務し教鞭もとるスタンフォード大学では今、研究の不正の告発を受けて学長が突然辞任し、大学全体が動揺している。
辞任を報じるニューヨークタイムズ紙の記事に対する読者の反応をじっくり読んでいたら、あるコメントに目がとまった。
「正直言って、辞任理由がセックス・スキャンダルじゃないのはむしろ珍しいんじゃないかな。記事は全部読まなかったけど。最後どうなったか教えてね」
リーダーに対する期待は今や、こんなものなのだ。リーダーを判断する基準は、こんなものなのだ。人々はここまで幻滅しているのだ。
リーダーへの敬意を失っているのに、なぜそこまで必死になってリーダーになりたいのだろうか?
自分の手で敬意を元に戻せると本気で思っているのだろうか?
それとも、もっと腹黒い力によって突き動かされているのだろうか?
優れたリーダーと、それを信じるフォロワーを再び取り戻すにはどうしたらいいのだろうか?
私はこれまで、それなりの時間をリーダーシップに関する考察や執筆に費やし、コーチング(私が指摘する問題のいくつかをおりなす「エグゼクティブコーチング」を含め)に関する学術研究も発表してきた。
今なら、私の精神科医としての学びや業務から、昔ながらの「リーダーシップ」という言葉は確かに、新しい意味―豊かであり空虚、魅力的であり不快―として使われるようになったことがわかる。
この概念の境界線を私たちがどこまで広げたのか、そしてその弾力性の限界まで押し広げたせいで破裂し、自分がそのしっぺ返しをいかに受けることになったのかを、私たちは立ちどまって考えなくてはいけない。
さらに、精神科医の視点から見て、優れたリーダーシップを下支えする本物の心理とは何かを見直し、その本質的な価値や基準に立ち返らなければならない。
リーダーの必須条件として、お金では買えない人柄、心理、気質を復活させることが急務だ。リーダーシップがなぜ暗礁に乗り上げているのかを理解するにはまず、リーダーシップの概念を精神科医のカウチに座らせ、分析する必要があるだろう。
【目次】




