その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はベン・S・バーナンキ(著)、高遠裕子(訳)の『 21世紀の金融政策 大インフレからコロナ危機までの教訓 』。「日本語版への序文」をお届けします。

【日本語版への序文】

 本書のテーマは、21世紀における中央銀行の金融政策の手段(ツール)、枠組み(フレームワーク)、コミュニケーション戦略の劇的な変化である。この背景には、中央銀行の政策運営を取り巻く経済環境の劇的な変化がある(と論じるつもりである)。本書で重点的に述べるのは、当然ながら、私がかつて率いたことがあり最もよく知る中央銀行の米連邦準備制度(Federal Reserve System:Fed)になるが、他の主要中央銀行についても、世界情勢やその国や地域ならではの特殊な状況にいかに対応しているかを見ていく。なかでも日本銀行(日銀)は、他の主要中央銀行にかなり先駆けて、慢性的な低インフレと低金利という問題に直面した点で特筆すべき存在である。そして多くの場合、こうした問題に対する新たな政策立案においても先駆者であった。足元での(日本を除く)世界的なインフレの高騰はいずれ収束するだろうが、その暁には低インフレと低金利という課題が世界的に再浮上するだろう。その場合、日本の金融戦略が、再び世界の重要なモデルになる可能性がある。

 いくつか予備知識を記しておこう。日銀はFedより古い由緒ある機関である。創設は1882年で、政治、経済、社会の変革が行われた明治維新の時代に遡る。創立以来、大半の期間は、強力な大蔵省(財務省)をサポートする役割を演じてきた。だが、1998年、中央銀行の独立性を求める世界的な機運の高まりを背景に新日本銀行法が施行され、政策委員会を最高意思決定機関として、金融政策を独立して決定できる権限が日銀に付与された(偶然にも、イングランド銀行が独立を獲得したのも1998年であった)。

 だが、諺にもあるように、何かを望むときは慎重にしなくてはならない。日銀は独立性を獲得したが、それは日本経済にとって特に難しい時期に金融政策に責任を負うことを意味した。日本は1970年代から1980年代にめざましい経済成長を遂げた。その多くは、きわめて効率的な製造業部門と卓越した輸出力に負っていた。当時は、面積や人口がアメリカよりはるかに小さい日本がアメリカの経済的優位をいずれ脅かすと見立てた論者が少なくなかった。世界に影響を与えた日本型システムは、ジャスト・イン・タイムの在庫管理方式、製造プロセスの持続的・漸進的改善、多くの労働者の終身雇用を特徴としていた。

 だが、日本の将来に対する楽観論は、持続不可能なほどの不動産価格と株価の高騰を招く。1989年から1990年の金融・財政の引き締めに伴ってバブルが崩壊すると、金融セクターを直撃して膨大な額の金融資産が消滅し、家計と企業の支出は急減した。暴落によって、経済成長の低迷と物価が継続的に下落するデフレの「失われた歳月」が20年以上にわたって続くことになる。長引く銀行システム問題、生産性の伸び率低下、労働人口の減少によって、日本経済の弱体化に拍車がかかった。これが、日銀が金融政策の独立性を獲得した時点の環境だったのである。

 こうした難題に直面した日銀が考案し、導入した政策手段は、後に2007~2009年の世界金融危機の最中とその後に、世界中でなんらかの形で採用されることになる。特筆すべきは1999年2月に、現代の中央銀行としては初めて政策金利をゼロ近辺に引き下げたことである。次いで同年4月、現在ではフォワード・ガイダンスと呼ばれるようになった手段の初期形態を導入し、デフレ懸念が払拭されるまで政策金利を事実上ゼロで据え置くことを約束した。このコミットメントはゼロ金利政策(zero-interest-rate policy:ZIRP)と呼ばれるようになる。だが2000年8月には利上げを実施する。振り返ってみると早過ぎたわけだが、特定の状態になるまで、ある金融政策をとり続けることを約束するという考え方は、世界の政策立案者に大いに影響を与えることになった。たとえば私が連邦準備理事会(Federal Reserve Board:FRB)議長を務めていたときには、少なくとも失業率が一定の水準に達するまで政策金利を引き上げることはないと言明した。もっと近いところでは、2020年9月にジェローム・パウエル議長が、経済が完全雇用を達成するまで政策金利をゼロ近辺から引き上げることはないと明言している。

 2001年3月、日銀はもう1つの斬新な政策――いわゆる量的緩和(quantitative easing:QE)政策を導入した。「量的」と呼ばれる所以は、政策金利ではなく、市中銀行が日銀に預け入れる当座預金(準備預金)の量をターゲットとするからである。その狙いは、当座預金を増やせば、市中銀行はその一部を貸し出しに回し、それによりマネーサプライが増加し、信用が拡大し、支出が増える、というものだった。目標とする当座預金量を達成するため、日銀は公開市場で金融資産を買い入れる。大半は短めの国債だが、より期間の長い日本国債(Japanese Government Bond:JGB)の場合もある。国債の売り手が代金を銀行に預け入れると、日銀の当座預金量は計画どおり増加した。だが、理由については本書で論じるが、日本の最初の量的緩和策は経済を刺激する点で特に効果的なわけではなかった。Fedは2008年後半にQEを導入した際に、短期債ではなく長期債の買い入れに重点を置く違う形のQEを活用した。日銀は後にFedの修正版QEを導入することになる。ただ、短期の政策金利をこれ以上下げられないとき、中央銀行のバランスシート拡大につながる債券の大量買い入れが金融政策手段になることに気づいた点は、日銀の功績だと言えるだろう。

 世界金融危機時、他の主要中央銀行と同様、金融システムと経済を守るために、日銀は幅広い政策手段を総動員した。金融ストレス時の伝統的な慣行に従い、最後の貸し手(ラストリゾート)の役割を担い、いわゆる金融支援特別オペレーションにより、銀行に対して低金利の(担保)融資を無制限に実行した。こうしたオペレーションは、その後、拡張され、銀行システムに確実に十分な流動性を確保するため、新たな貸出プログラムが追加された。日銀は最終的に、金融機関以外の企業にも融資を実行することになる。2年後の2010年10月5日、日銀は「包括的な金融緩和政策」を発表する。これはゼロ金利政策を改めて掲げるとともに、国債だけでなく、(社債、コマーシャル・ペーパー、株式、不動産投資信託の証券〈REIT〉など)さまざまな民間金融資産を対象に資産の買い入れを行うものだった。これ以前も以後も、これほど幅広い民間金融資産を買い入れた中央銀行は他にない。それでも、諸外国と同じように、金融危機からの景気の回復は遅く、低インフレと低金利の問題は根強く続いた。

 2012年、日本経済の復活を公約に掲げた安倍晋三が首相に選出される。アベノミクスと称された政策は、柔軟な財政政策、構造改革、積極的な金融政策という「3本の矢」で構成されていた。安倍首相によって日銀の総裁に任命された黒田東彦総裁のもとで、日銀の金融政策はさらに積極的に、おそらく他のどの中央銀行よりも積極的になった。第1弾として2013年1月に2%のインフレ目標を正式に導入し、目標が達成されるまで緩和政策を維持すると約束した(Fedは前年に同様の行動をとっていた)。2013年4月には、追加の刺激策として、「量的・質的緩和」(quantitative and qualitative easing:QQE1)を導入。これはFedのQE同様、長期金利の引き下げを狙った量的緩和を含む政策であった。2016年1月には、欧州中央銀行(European Central Bank:ECB)の例に倣い、マイナス金利を導入して政策金利をマイナス0.1%に引き下げた。

 アベノミクスのプログラムが最初に発表された当時、私を含め多くのエコノミストは、慎重ながらも楽観的な見通しをもった。大衆心理は強力になりえる。数十年来のデフレ、低インフレで、日本の国民のあいだにこうしたトレンドが続くとの予想が根づいていた。日本の家計と企業がアベノミクスを過去との決別――レジーム・チェンジと捉えれば、人々のインフレ期待の上昇につながるのではないかと我々は予想した。インフレ期待が実際に変化すれば、労働者は賃上げを要求し、企業が値上げを断行することで現実のインフレ率が上昇するだろう。歴史を振り返れば、政策レジームの刷新で期待が大きく変化した先例はある。1932年にフランクリン・ルーズベルトが大統領に選出された後に起きた出来事は、その一例である。(すべての銀行を一時的に閉鎖する)銀行休業(バンク・ホリデー)宣言や金本位制からの離脱など、大統領就任後にルーズベルトが打ち出した劇的な政策は、国民の心理の変化につながり、壊滅的な銀行恐慌や破壊的なデフレの終息に寄与した。

 残念ながら、アベノミクスの成果は多くの人が期待したほど劇的なものではなかった。新戦略は当初ある程度成功を収め、しばらくは成長が加速し、労働市場は堅調になった。インフレ率も上昇した。ただ、それはごく軽微で、1%かそれ以下だった。より積極的な政策を3年実行しても、2%のインフレ目標の達成は依然遠い目標に思えた。2016年9月、日銀はみずからの政策の「包括的評価」を行い、2%のインフレ目標を達成ないし上回るには、継続的な刺激策が必要だと結論づけた。だが、大規模な国債の買い入れ(QE)を継続する計画によって、日本の国債市場に深刻な打撃を与えることなく無限に買い入れのペースを維持できるのか、あるいは買い入れる債券が枯渇するのではないか、との実務的な問題が浮上した。

 この問題に対処するため、日銀はもう1つの重要なイノベーションとして「イールドカーブ・コントロール」(長短金利操作)を開始する。この枠組みのもと、(すべての中央銀行が対象にしている)翌日物金利だけでなく、長期金利を操作対象にした(具体的には、10年物日本国債の利回りを操作対象として、当初、ゼロ%程度に固定された)。日銀は必要に応じて指定利回りで国債を買い入れることによって、長期ペッグを実行した。つまり、買い入れ対象の資産の量を明示するのが一般的な従来のQEプログラムとは違って、イールドカーブ・コントロールは、長期金利の目標達成の必要に応じて買い入れ量を変化させることができる。イールドカーブ・コントロールによって日銀は、イールドカーブの両エンド、つまり短期金利と長期金利の両方を通じて、供給する刺激を射程内に収めることができる。重要なのは、ターゲットとする長期金利が信頼できると債券市場参加者に受け止められれば、国債の買い入れ額を減らして長期金利をコントロールすることができ、買い入れる債券が枯渇するリスクを減らすことができる点だ。

 2020年に始まった世界的な新型コロナの大流行(パンデミック)で、日銀や他の政策当局はさらなる難題に直面した。当初は企業活動の停止によって深刻な景気後退が起こり、その後、景気が回復するにつれて、多くの国でのインフレ率が急上昇した。日本は最悪のインフレを免れたが、その一因は、人々が相対的に低いインフレが続くとの予想を持ち続け、それが自己実現的な予言になったことにある。そのため、他のほとんどの中央銀行と違って、日銀はインフレを抑制するために連続的な引き締めを実行する必要がなかった。じつは日銀の最大の悩みは、インフレ・ショックが収束した暁に、日本が長年耐えてきた低成長、低インフレのパターンにずるずると後戻りするのではないか、という点だ。

 日銀が2%のインフレ目標を持続的に達成できなかったのはなぜだろうか。少なくとも2013年にアベノミクスが開始されて以降、問題は努力が足りなかったからではない。黒田総裁率いる日銀は、強力な拡張政策を一貫して維持してきた。たとえば対国内総生産(GDP)比で日銀のバランスシートは、他の主要中央銀行に比べてかなり(圧倒的に)大きく、バランスシート上の資産の種類も幅広い。それでもデフレ基調は収まっていない。明らかなのは、長年にわたりインフレがなかったことから、デフレ心理が払拭しきれていない点だ。人々は賃金や物価が下落するか横ばいにとどまると予想しているため、労働者は賃上げを要求せず、企業は価格を引き上げない。さらに、デフレを背景に、日本の金利は長期にわたってきわめて低い水準に抑えられ、日銀が利下げで政策を緩和する余地は限られていた。日銀がインフレ目標を達成するには、需要を押し上げ、ひいては物価を押し上げる(政府支出などの)財政政策が必要なのかもしれない。

 全体として、政策の独立性を獲得して以降の日銀の実績はまちまちだと言えるだろう。近年はインフレ率と成長率の引き上げにかなり積極的だが、日銀の政策立案者が根強いデフレないし超低インフレを容認し、国民に広くデフレ心理が根づいた、いわゆる失われた数十年の経験によってインフレ目標の達成が阻まれた。他方、日銀の経験は、金融政策に限界があること、デフレを回避し成長を取り戻すには、同時に金融以外の政策も必要であることを浮き彫りにしている。おそらく日銀の経験は、(現在とは違った)インフレ率や金利が低いときに世界の主要中央銀行が直面する課題の先例とみなすべきなのだろう。本書では特にアメリカに照らして、こうした課題と、それに対する中央銀行の対応を深く掘り下げている。

【目次】

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