近年、「ビジネスと人権」への関心が高まっており、日本でも人権課題に対する企業の姿勢を問われるケースが出てきています。国際連合(国連)の「ビジネスと人権に関する指導原則」では、企業に人権を尊重する責任があることが明確に規定されており、日本でも2022年に政府がガイドラインを策定しました。企業は、人権への取り組みを何から始めればよいのでしょうか。日本政府ガイドラインの策定に立案担当者として関わり、『 「ビジネスと人権」 基本から実践まで 』(商事法務)を執筆している弁護士の塚田智宏さんに聞きました。

人権尊重の責任はサプライチェーン全体

 ビジネスの現場では近年、「ビジネスと人権」に高い関心が寄せられています。特にグローバル展開をする企業には、自社のサプライチェーン全体で人権への負の影響(人権リスク)を評価し対処する人権デュー・ディリジェンス(DD)対応が求められるようになっています。とはいえ、「ビジネスと人権」の取り組みを考える際に、どの範囲で何をすればよいかはあいまいなため、多くの方が戸惑い、取り組みを進めることが難しくなっています。

 そもそも「ビジネスと人権」の考え方は、グローバルサプライチェーンでの搾取を防ごうとする動きが始まりでした。発端の一つとなったのがアパレル産業における児童労働等の問題です。1990年代にアパレル産業の製造委託先である東南アジアの工場で、児童が低賃金・劣悪な労働条件で働かされていることなどが発覚し、大きな問題となりました。その頃から、サプライチェーン上の特に発展途上国にある取引先において深刻な人権侵害が生じやすく、こうした問題に対応する責任をサプライチェーンでつながる先進国の多国籍企業も負うべきであるという議論が進み、2011年に国連の「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下、指導原則)が誕生しました。

 指導原則は「人権を保護する国家の義務」「人権を尊重する企業の責任」「救済へのアクセス」の3つを規定し、企業が事業活動をする際に、自社とグループ会社だけではなくサプライチェーン上でも人権DDを実施するよう求めています。

弁護士の塚田智宏さん
弁護士の塚田智宏さん
塚田智宏(つかだ・ちひろ)
カウンセル弁護士、森・濱田松本法律事務所外国法共同事業
2013年、慶應義塾大学法学部法律学科卒業。14年、弁護士登録。20年、ペンシルベニア大学ロースクール修了(LL.M., President)。21年、米ニューヨーク州弁護士登録、米国公認会計士登録(ワシントン州)。22年、経済産業省ビジネス・人権政策調整室及びデジタル通商ルール室に任期付公務員として赴任(室長補佐)(〜23年)。24年より、「1% for the Planet」の取り組みを参考に、自身の個人所得の1%を人権尊重・環境保護等のための活動を行う国際機関・団体などに寄付する取り組みを開始。

人権DDの義務付けに抵抗感

 指導原則の下、各国は国別行動計画の策定を奨励されており、これを受けて日本でも2020年、政府が策定した「『ビジネスと人権』に関する行動計画(2020-2025)」が公表されました。

 そして、2022年には、私が立案担当者として策定に関与した日本政府の「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」が公表されました。これは、国連の指導原則とほぼ同じで法的拘束力はありませんが、サプライチェーン上の人権侵害はもちろん、セクハラやパワハラなども含め、国内外で起きているあらゆる人権侵害を対象としています。

 こうしたガイドラインの制定・普及はもちろんのこと、いわゆる「ビジネスと人権」として明確に位置づけられてはいない施策の数々(例:労働時間規制の厳格化やパワハラ防止措置の義務化、公益通報者保護法の制定・改正)も、企業(ビジネス)と人権の関係性を規律するものである限り、指導原則の下で政府が「人権を保護する国家の義務」を果たす取り組みともいえます。

 こうした具体的な各法令における人権保護の強化の動きはあるものの、いわば「ビジネスと人権」のど真ん中の政策である、人権DDの実施を企業に義務付ける法令の制定について、日本政府は積極的ではないと思われます。企業への過度な負担を懸念していると思われますが、こうした姿勢は、人権関連施策に積極的な欧州連合(EU)でも聞かれるところです。

 EUでは、2024年7月、人権DDと環境DDを一定規模以上の企業に義務付けるルールである「企業サステナビリティ・デュー・ディリジェンス指令(CSDDD)」が発効しました(厳密には、CSDDDはEU加盟国に国内法の整備を求め、企業は各国内法に基づき人権・環境DD実施義務を負います)。

 ところが、企業の負担の重さなどを懸念する声を受け、2025年2月にCSDDDなどを簡素化する「オムニバス法案」が公表されました。2025年4月時点で、オムニバス法案のうちEU加盟国による国内法化と企業へのCSDDDの適用開始時期を遅らせる条項についてはすでに採択されており、今後、オムニバス法案によるその他のCSDDDの修正が(どの程度)採択されるか注目されています。こうした動きが出てきていることからも分かるように、法令違反による制裁リスクの下で人権・環境DDを法的に義務付けられる企業の負担は非常に重いものになり得ます。

まずは法律を守る

 負担が大きいとはいえ、私たちは人権への取り組みをおろそかにするわけにはいきません。「ビジネスと人権」への取り組みは、何からどのように進めていけばよいのでしょうか。私は、やや抽象的ですが、指導原則に従って、「自分たちで何がより深刻で優先すべき人権リスクかを考えながら、できるところからでもまずは取り組みを始めましょう」とお伝えしています。

 各企業が置かれている立場や状況はそれぞれ異なります。例えば、外国人技能実習生に対する人権侵害は日本国内で早急に対策が求められる問題の一つですが、そもそも自社や取引先が技能実習生を雇用していないとすれば、そのような企業にとっては関係のない話と言えます。ですので、自社が何から取り組むかは、それぞれの企業がそのビジネスの状況に応じて自分たちで考える必要があるのです。

 このように、何をすればよいのかという「正解」がなく、各企業の判断に委ねられていることが、人権に対する取り組みを遅らせている要因の一つになっています。

 これから本格的に取り組みを始める企業で、何をすればいいのかイメージが湧かないという場合は、同じ業界の先進的な企業を参考にすることをお勧めします。例えば、メディア業界ならば、ハラスメントの問題や長時間労働などの問題が指摘されることもあります。それぞれの業界に共通する課題があるでしょうから、それらに優先的に取り組んでいくことが考えられます。

 もし、そうした課題がうまく見つからない場合はどうすればいいのでしょうか。「人権」というとビジネスマンにとってはやや縁遠いイメージがあるかもしれません。特に中小企業にとっては「まず法律を守る」ことから始めることも考えられます。例えば、セクハラの加害者は被害者に民事上・刑事上の責任を負うことがあるように、法律は人権を保護しています。ですから、法律を守ることは、人権を尊重することでもあります。日本のように人権を保護する法制度が相対的に整備されている国では、まずは法律を守ることが取り組みの第一歩になります。

 一方で、「ビジネスと人権」の議論の発端となった発展途上国は、人権を保護する法律そのものが脆弱であることが多くあります。例えば化学物質を規制する基準値が非常に低いため、法律を順守していても健康被害が起きてしまう。そういう国でビジネスを行う場合は特に、法律を順守することは当然として、法律に違反していなくても人権侵害が起きてしまっていないかを考える必要があります。

「『ビジネスと人権』の取り組みは、自分たちで何がより深刻で優先すべき人権リスクかを考えながら、できるところからでもまずは着手するべきだ」と話す塚田さん
「『ビジネスと人権』の取り組みは、自分たちで何がより深刻で優先すべき人権リスクかを考えながら、できるところからでもまずは着手するべきだ」と話す塚田さん

業務委託先のセクハラにも責任を負うのか

 指導原則では、人権への負の影響について、「Cause(引き起こす)」「Contribution(助長する)」「Directly linked(直接関連)」という3つの類型について責任を負う必要があると指摘しています。この「直接関連」は、例えば、自社の製品の原材料の一部でも人権侵害が行われている状況下で製造されている場合などを広く含む概念であり、自らがその人権侵害を認識していたかどうかは問いません。このように、「直接関連」が企業に取り組みを求める範囲は、非常に広範で時にあいまいです。

 例えば、みなさんの会社でも業務を委託している取引先があると思いますが、その取引先の社内の、自社が発注した業務とはまったく関係のない部署でセクハラが起きたとしたらどう考えるべきでしょうか。こうした場合も「直接関連」に含まれ、発注元の企業が責任を負うとも考えられますが、こうした考えを推し進めていくと、何らかの取引がある以上は、その取引先のあらゆる人権侵害に責任を負うということになりそうです。指導原則の成立の背景にさかのぼって考えると、こうした人権侵害も「直接関連」に含むと指導原則が考えているのかは、必ずしも明確ではありません。

 日本政府ガイドラインが指摘する通り、人権リスクと無縁な企業は存在しないのですから、現実問題として、自分たちが発注した業務とは無関係の部署でのセクハラなど取引先におけるすべての人権侵害を防止するのは不可能です。そうすると、まずは、自分たちが発注した業務に関連して人権侵害が起こらないようにすることが重要ではないでしょうか。取引先と十分な協議もなく納期や依頼内容を変更して、取引先の従業員の長時間労働を誘発してしまうようなケースはかねてより指摘されているところであり、そうしたことが起きないように、まずは自分たちと関わる人たちの状況を具体的に想像することが人権侵害を防ぐ上で大切と言えます。

「共通言語」を知らないと始まらない

 これまで説明してきたように、「ビジネスと人権」を考えるためには、指導原則を理解することが必要です。そのためには、国連広報センター(*1)が公表している指導原則の和訳を読むことも重要ですが、いわばルールそのものですので、それだけではなかなか理解が進みづらいと思います。

 その場合には、『 正しいビジネス 世界が取り組む「多国籍企業と人権」の課題 』(ジョン・ジェラルド・ラギー著/東澤靖訳/岩波書店)を読むのがよいでしょう。この本は、指導原則の起草者によって書かれたもので、どのような経緯を経て指導原則が作られたのかが克明に記されています。指導原則は、CSDDDをはじめとする「ビジネスと人権」の海外法令の基礎にもなっており、これらの法令を正しく理解する上でも非常に重要な一冊です。

*1 https://www.unic.or.jp/texts_audiovisual/resolutions_reports/hr_council/ga_regular_session/3404/

『正しいビジネス 世界が取り組む「多国籍企業と人権」の課題』(ジョン・ジェラルド・ラギー著)。画像クリックでAmazonページへ
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 指導原則は、「ビジネスと人権」について議論するための世界の「共通言語」になっています。指導原則は私を含め企業に助言する弁護士も参照しますが、当然、国内外を問わず、人権保護を政府や企業などに求める市民社会側の方々も指導原則に基づいて対話を働きかけます。例えば、サプライチェーン上の発展途上国にある取引先で人権侵害が発生している場合に多国籍企業が対応を求められることがありますが、その根拠は指導原則であることが多いのです。指導原則を理解できていなければ、人権侵害事案への対応を巡って適切な対話をすることができません。

 典型的な誤りは、指導原則のもと、取引先における人権課題も自社が社会的責任を負うにもかかわらず、「取引先の問題は当社とは関係ありません」などと指導原則を踏まえずに回答してしまう例です。平時においても有事においても、関係者と対話しながら人権DDを適切に実施し、人権尊重責任を果たしていくためには、指導原則の理解が不可欠です。そのためにも、この本はお薦めしたい一冊です。

文/橋口いずみ 取材・構成/伊藤真理江(日経BOOKSユニット)、小谷雅俊(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子