ネット広告技術の進展により、マーケターは様々な手法で情報を顧客に届けられるようになった。しかしその一方で、顧客との対話や中長期的な関係構築といった取り組みは、依然として具体化しにくい現状がある。新著『ザ・マーケティング・イシュー 10年後も必要とされる日本企業の課題と解決策』の著者の一人である田中準也氏は、その実践の手がかりとして「スローアドバタイジング」という概念を提示する。本記事では、貝印とカンロの事例を交えながら、価値共創につながるコミュニケーション設計の在り方を考える。[日経クロストレンド 2026年6月17日付の記事を転載]

「熱狂的ファン」だけでなく「語れる人」を増やせ
顧客と中長期的な関係を構築しようとしたとき、よく挙げられるのが「ファンコミュニティをつくる」という発想です。しかし扱う商材によっては、そうしたやり方がなじまないケースもあるようです。
田中準也氏(以下、田中) まさにその通りだと思います。企業がファンコミュニティを形成・運営したり、自然発生的に立ち上がったコミュニティと関わったりする場合、「製品やサービスそのものをコミュニティの中心に置きやすいケース」とそうでないケースがあります。
エンターテインメントやガジェットは語りたくなる要素を持っていて、熱狂的なファンが生まれることもありますよね。高級菓子やクラフトビールのような嗜好品もそうかもしれません。一方で、日用品や薬のようなカテゴリーでは、「熱狂的なファンコミュニティをつくろう」と言われても難しい部分があります。
すると、製品のファンを中心にコミュニティを形成することを、前提にし過ぎないほうがいいということでしょうか。
田中 はい。ただ、だからといって「何も語られなくていい」「対話が起こらなくても構わない」といった話ではありません。例えば風邪薬について、「自分は○○派だ」「風邪のときはいつも○○を使っている」と話す人はいますよね。熱狂的なファンとは違うかもしれませんが、「これについては語れる」という人はいるわけです。
私は車が趣味で、かつてミニクーパーに乗っていました。ファンというより、元ユーザーという感覚ですが、乗っていた経験があるからこそブランドについていろいろと話せますし、その良さも分かります。メーカー自身も気付いていない価値や使い方を見つけてくれる人、あるいは製品やブランドについて自然に言及してくれる人、そういう「見てくれている人」「語れる人」を増やしていく活動はとても重要です。
ファンコミュニティやファンベースという考え方をそのまま適用するだけでなく、もっと要素分解した上で取り入れていく必要があります。「熱狂的な支持者をどれだけ増やすか」だけではなく、「語れる人をどう増やすか」「どうすれば継続的に見てもらえるか」という視点で、マーケティングやコミュニケーションに生かしていくことが重要です。
貝印がお手本、IPへの注目と活用
製品やサービスがコミュニティの中心になりにくいケースにおける、メディア・コミュニティの好例を教えてください。
田中 刃物メーカーの貝印(東京・千代田)の取り組みは、IP(知的財産)をつくり、活用しながらコンテンツやコミュニティを育てているという点で、お手本になります。
ここで強調したいのは、IPという概念を「キャラクターをつくる」という狭い意味で捉えないでほしいということです。その会社が保有する技術やデザイン(意匠)、特許、ブランドも含めてIPであり、それを独自の「差異化の証し(エビデンス)」として生かしながら、企業や製品が持つ本質的な価値を継続的につくっていく活動が、IP化と言えます。
以前、貝印の上席執行役員で、CMO(最高マーケティング責任者)とCCO(最高クリエイティブ責任者)も兼任されている鈴木曜さんにインタビューした際、同社では「DUPS³(デザイン・ユニークネス・パテント・セーフティ・ストーリー・サステナビリティ)」という開発方針が経営の共通言語になっており、単なる特許・意匠出願だけではなく出願した権利に基づいた商品PRなどの活用も含めて、IPの取り扱いを大切にしているという話を聞きました。カミソリ一つの中にも、多数の特許が盛り込まれているそうですが、同社ではそれらが持っている「知財価値」を、プロモーションを通じて顧客に響く「ストーリー(顧客価値)」へと能動的に翻訳して届けています。顧客との中⾧期的な関係づくりにおいて、知財(IP)という手触り感のある根拠がいかに有用であるかを経営レベルで認識し、推進しているのだと思います。
「この会社っていいよね」という文脈を生み出す意義
やみくもにコンテンツやコミュニティをつくるのではなく、その核となり得るIPを自社が持っていないか、それを育てていく余地がないかを検討することが、取り組みのカギになりそうですね。
田中 はい。BtoC(消費者向け)、BtoB(企業間取引)を問わず、目的意識を持ってIPをつくり、育てていくことが必要です。貝印のように、企業が提案・提供するすべてのものが着実にIPになっていくと、ファンマーケティングやファンコミュニティが展開しやすくなります。
また、貝印は『Kiss our humanity 心に触れて"整える"時間』というラジオ番組も展開しています。この番組は、同社のグルーミングツールブランド「AUGER(オーガー)」がスポンサードする1社提供によるもので、番組の名前には、ブランドのコンセプトをそのまま採用しています。ブランドディレクターでもある鈴木さんがパーソナリティーを務めています。
同じように、ファンを育てにくい商材を展開しているBtoC企業や、消費者と直接の接点がないBtoB企業が、魅力的なラジオ番組やYouTubeチャンネルを展開することも、広義のIP化と言えます。単に「この番組を提供している会社ってやっぱりいい会社だよね」という文脈をつくるだけでなく、ブランドが持つ技術やデザインといった機能的価値の背景にある「ストーリー(使われる場面や前後の体験全体)」をお客さまへ余すことなく届け、ブランドの世界観(BI)を力強く発信しているからです。
企業自体のファンではなくても、番組のファンになってくれた人が、そのロゴ入りグッズを身に着けたいと思うようになるかもしれません。これがIPを起点とした、コミュニティ形成の在り方だと思います。
カンロは「箱推し戦略」で長期的なファンベースを構築
他に、製品やサービスをコミュニティの中心に据えにくいケースについて、コミュニティ形成や価値共創をうまく進めるやり方はありますか。
田中 製品やサービスを横断する「企業ブランドのファン」を増やすことを目的とする方法が考えられます。具体例として、私もお手伝いしているカンロのパーパス浸透の取り組みを紹介します。
同社は2022年にパーパスを『Sweeten the Future 心がひとつぶ、大きくなる。』に刷新しました。パーパスに関しては策定するだけではなく、浸透させ、自発的な行動に変換してもらうことが必要です。消費者や生活者はもちろん、工場で製品を作っている人も、店頭に商品を置いてもらうために活動する営業担当者も、全員が一丸になるために、パーパスを掲げているわけです。中でもカンロは、行動への転換を見据えた企業コミュニケーションに力を入れています。
具体的には、企業ブランド「カンロ」としてのコミュニケーションの強化です。「カンロ飴」「カンデミーナ」「ピュレグミ」といった製品ブランドと企業ブランドの結び付きを強め、「カンロという企業が作っている製品群」として認識してもらうことに力を入れています。
個々のブランドへの宣伝予算が限られる中で、企業コミュニケーションに資源を集中投下することで、長期的なファンベースを形成しようという判断です。これをカンロは「箱推し戦略」と呼んでいます。
桑田佳祐さんとのコラボ展開
カンロは、どのような企業コミュニケーションを展開しているのですか。
田中 2025年の秋から、アーティストの桑田佳祐さんとのコラボレーションを実施しています。桑田さんとコラボした企業CMの展開や、ラジオ番組「桑田佳祐のやさしい夜遊び」のスポンサードを通じて、ブランドの世界観を広げています。
桑田さんもカンロも世代を超えて愛されている存在です。コラボレーションによってカンロのユーザーと桑田さんのファン、それぞれの接点を相互に流通させるだけではなく、新たな価値を創造していくことを期待しています。
人は「ゆっくりした時間」や「せかされない体験」も求めている
ここまで、前後編にわたってメディアやコミュニティの在り方について解説いただきました。最後に、田中さんご自身が現在取り組んでいる活動について教えてください。
田中 2025年7月から、講談社Cステーションとinterfmがタッグを組んだラジオ番組「J LIVE RADIO」のパーソナリティーを務めています。その中で、今こそ「スローアドバタイジング」という考え方が必要なのではないかと考えるようになりました。
ここでいう「スロー」とは、スローフードやスローライフに使われる「ファスト」の対義語である「スロー」です。「タイパ」という言葉に象徴される時代精神がある一方で、人は「ゆっくりした時間」や「せかされない体験」も求めています。忙しい毎日の中でも、緑茶を一杯ゆっくり飲む時間に価値を感じるように、コミュニケーションにも、スローが必要とされているように思うのです。
「J LIVE RADIO」では、時間をかけてじっくりとリスナーとの関係をつくり、番組のブランドをつくりたいと思っています。番組のTシャツを作ったり、ロゴを自分たちで考えたり、手作りで少しずつ育ててきました。
そんな形で番組に関わっていたところ、もう1人のパーソナリティーで、講談社の長崎亘宏さんに、「僕たちがやっていることって、スローアドバタイジングじゃない?」と言われて、はっとしたのです。海外の業界関係者に聞いてみたところ、そういったマーケティング用語は存在しないようなのですが、「ニュアンスは分かる」と言われたそうです。
マーケティングはデジタルだけでは完結しない
「スローアドバタイジング」とは、面白い表現ですね。
田中 思えば私が好きだった広告は、もっとじっくり価値をつくっていたように思います。カルチャーをつくったり、習慣をつくったり、価値観そのものに影響を与えたり……。「今すぐ買ってください」と訴えるだけではなく、長い時間をかけてブランドとの関係性を育てていたはずです。
もちろん、「マス広告に戻ろう」という話ではなく、オフラインが正しいということでもありません。スローアドバタイジングを体現する方法は企業によって様々でしょう。ラジオかもしれませんし、ポッドキャストかもしれませんし、コミュニティ運営かもしれません。重要なのは、オフライン、オンライン問わず、コミュニケーションをもっと長期的な視点で捉えること、継続性や持続性を持ちながら、対話を積み重ねていくことだと思っています。
私も長らくデジタルマーケティングに関わってきましたが、マーケティングはデジタルだけで完結するものではないと改めて思います。フィジカルな体験や、人と人との接点、手触り感のあるコミュニケーションをどう設計するかがますます重要になっていく。情報が高速で流通する時代だからこそ、「あえてスローにやる」という意思決定が、これからのブランドには必要なのではないでしょうか。

サン 代表取締役会長 プロデューサー/コネクター
田中洋 編著/日経BP/3850円(税込み)
