歌人・穂村弘氏が、スティーヴン・キング文、モーリス・センダック絵という伝説的な組み合わせで生まれた絵本『 ヘンゼルとグレーテル 』(NHK出版)の翻訳を手掛けた。悪夢のような濃密さに満ちたこの一冊を、どう読み、どう日本語に移し替えたのか。兄妹(きょうだい)への不条理な試練、両親への複雑な感情、そして子どもの目線が持つ根源的な死への恐怖と魅力──。翻訳の過程から見たこの童話の本質を、穂村氏に聞いた。

穂村弘 ほむら・ひろし
歌人・エッセイスト
1990年、歌集『シンジケート』でデビュー。その後、短歌のみならず、翻訳、評論、エッセー、絵本など幅広い分野で活躍中。訳書にルイス・キャロル作の『スナーク狩り』(集英社)など。『短歌の友人』(河出書房新社)で伊藤整文学賞、『鳥肌が』(PHP研究所)で講談社エッセイ賞、『水中翼船炎上中』(講談社)で若山牧水賞を受賞。

子ども目線の「死の濃度」

 キングとセンダック、この二人の絵本があるなんて。知ったときは驚きました。以前、ルイス・キャロルの原作で『ムーミン』のトーベ・ヤンソンが絵を描いた『 スナーク狩り 』(集英社)という本を訳したことがあり、あのときも「彼らと一緒に名前が並ぶなんてうれしいな」という感覚があった。今回の『 ヘンゼルとグレーテル 』(NHK出版)もそれに匹敵する組み合わせで、やってみたいと思いました。

『ヘンゼルとグレーテル』(スティーヴン・キング文、モーリス・センダック絵、穂村弘訳、NHK出版)/画像クリックでAmazonページへ
『ヘンゼルとグレーテル』(スティーヴン・キング文、モーリス・センダック絵、穂村弘訳、NHK出版)/画像クリックでAmazonページへ
かいじゅうたちのいるところ 』(冨山房)の作者モーリス・センダックが遺した、生前最後に手掛けた絵に、『シャイニング』『IT(イット)』など子どもと恐怖の物語を書き続けてきたスティーヴン・キングが文を書き下ろした、唯一無二の『ヘンゼルとグレーテル』。穂村氏は「悪夢的な魅力を感じながら訳した」と語る

 翻訳するにあたり、『シャイニング』『IT』『スタンド・バイ・ミー』『キャリー』といったキング原作の映画も見返しました。キング作品は怖さの中に魅力がありますね。そして、どの作品にも子どもが出てきて、子どもが“死”に関わっている。子どもは大人のように世界を“パターン”で捉えない。その柔らかな世界に死の感覚が突然襲いかかると、見ている者にとって怖いんです。

 それに、例えば思春期であること自体が“死の濃度”を帯びているところもある。生と死って、オン・オフの関係ではないと思うんですよね。実は重なり合っていて、強く生がある場所にこそじわじわと死がにじみ出てくるような感覚がある。

 この絵本『ヘンゼルとグレーテル』もそうですが、童話には、子どもがあまり経験しないであろう“死”を一度通過する物語が少なくありません。『赤ずきん』や『白雪姫』も同様です。だからこそ、子どもの心に鮮烈に残るのでしょう。キング作品にも同じことが言えて、もともと童話とキングの親和性は高いんですよね。

ヘンゼルもグレーテルも「父親を許しすぎ」問題

親に森へ捨てられた兄ヘンゼルと妹グレーテルが、お菓子でできた家にたどり着く。そこに待ち受けていたのは子どもを食べる魔女。グリム童話の中でも最もよく知られた物語の一つであり、時代ごとに無数のバリエーションが語り継がれてきた。

 『ヘンゼルとグレーテル』にはいろいろなバリエーションがあります。グリムだけでも版ごとに変化しているし、世界中に類話がある。

穂村さんは、ヘンゼルとグレーテルの父親への扱いの甘さに対して疑問を投げかける
穂村さんは、ヘンゼルとグレーテルの父親への扱いの甘さに対して疑問を投げかける

 『赤ずきん』なんかが分かりやすくて、シャルル・ペロー版では“食べられっぱなし”だったのが、グリム版では猟師が現れて助ける話になっていった。後者は現代の我々がよく目にする物語の感覚に近いけれど、時代が変わっても「現実」は圧倒的に不条理なままです。

 僕の感覚で言えば、キングをもってしても、ヘンゼルとグレーテルは自分たちを捨てたお父さんを簡単に許しすぎだと思う。だから最後は若干重めに、父親が兄妹に“誓いを立てる”というニュアンスで訳しました。兄妹を家から追い出すように吹き込んだ継母だけが悪いんじゃない。言いなりになった父親も悪いだろう、と。

グレーテルが「魔女化」する快感

 僕の中だけにあるアナザーストーリーは、魔女を殺した後、グレーテルが“二代目魔女”になって、お菓子の家で楽しく、子どもたちだけで暮らすというものです。なんなら自分たちを捨てた両親は酷い目に遭わせる。それが僕にとってのハッピーエンドなんだけれど、まあ、それでは『ヘンゼルとグレーテル』じゃなくなってしまいますよね(笑)。

 でも、忘れていたのですが、何年も前に出した歌集『 水中翼船炎上中 』(講談社)の中で、「窓ひとつ食べて寝息をたてているグレーテルは母の家を忘れて」という短歌を作っていたんです。お菓子の家の窓を食べて、グレーテルはすやすや眠っている。苦しかった実家のことなんか、もう忘れている。僕の中の喜ばしい結末のイメージは、そういう感じです。

 そもそも、あの兄妹にとって“家”という制度はろくなものじゃない。口減らしで子どもを捨てるような家に戻ったところで、幸せにはなれないだろうと。“お菓子の家”こそが子どもにとっての真の家で、そこで魔女として生きる方が、よほど人間らしい。物語の中では「魔女」が自由に生きる存在で、「人間」と呼ばれている者たちの方が、よほど不自由な社会システムの「奴隷」のようなものなんです。

 キング版のこの絵本でも、魔女を殺した後のグレーテルには“無敵感”がある。森の獣たちも兄妹には手を出さないし、もはや「父親のことなどどうでもいい」という雰囲気さえある。最初はお兄さんのヘンゼルがグレーテルを守ろうとして頑張るのだけれど、彼はちょっと打たれ弱くて、失敗するとすぐにくじけてしまう。

 一方で、グレーテルは主体性を持って、どんどん強くなっていきます。まさに“魔女化”していくわけですが、その変貌には快感がありますね。最初から賢かったのかもしれないけれど、“元の家”ではそれを隠さざるを得なかった。それが、“お菓子の家”で賢さが顕在化する。眠っていた何かが、不条理な出来事の中で目覚めていくんです。

悪夢がなくなったら「寂しい」

 本書のコメントで「悪夢的な魅力を感じながら訳しました」と書いたのですが、僕は悪夢をよく見るタイプなんです(笑)。見ているときはうなされて苦しいから、目が覚めるとまずはホッとする。でも、現実に戻ったら戻ったで、“ああ、世界の味が薄くなってしまった”と落胆するんです。さっきまでうなされていたときの、ものすごく“濃い感じ”に対して、現実は平板で、色も匂いも薄いなって。

 子どもの頃はもう少し、悪夢と現実の落差がなかったと思うんです。起きてもなお、命の味は濃いままだった。それがだんだん薄くなってきた。大人になるにつれ経験値が上がると、すべてを“パターン”で見るようになりますよね。初対面の人と会っても、「あ、この人はあのタイプだな」と思ってしまう。現実に素のまま突っ込んでいく感覚を避けるようになるし、それが上手くなっていく。現実をルーティンで回す割合が、子どもの頃に比べて格段に増えていくわけです。

 だから、旅行やギャンブルや恋愛をすると、そのルーティンが崩されて非日常体験になる。でも子どもの頃は、毎日が非日常体験に近かった。年を取るとどこかで、あの頃の“世界の真ん中”で生きているような感じに憧れるようになります。悪夢を見ると、その感覚がよみがえるんです。ホラー映画などもそれに近い体験で、映画が終われば平板なルーティンの世界に帰っていくんですが、このキングとセンダックの『ヘンゼルとグレーテル』にも、その悪夢的な濃さがあるなと感じました。

「僕の場合、完全に“悪夢度”のない夢は割とレアで、5%、10%の軽い悪夢度の場合もあれば、100%悪夢のときもあります」
「僕の場合、完全に“悪夢度”のない夢は割とレアで、5%、10%の軽い悪夢度の場合もあれば、100%悪夢のときもあります」

 悪夢がなくなったら、寂しいですよ。横尾忠則さんも悪夢を見るのがお好きとおっしゃっていましたけど、僕もそう思います。

取材・文/金澤英恵 構成/大松佳代、長野洋子(日経BOOKプラス編集) 写真/洞澤佐智子