スティーヴン・キング文、モーリス・センダック絵という伝説的な組み合わせで生まれた絵本『 ヘンゼルとグレーテル 』(NHK出版)。その翻訳を手掛けた歌人・穂村弘氏が、ヘンゼルとグレーテルの兄妹(きょうだい)のような「生き抜く力」を学べる本として選んだのは、楳図かずお『 漂流教室 』、吾妻ひでお『 失踪日記 』、阿佐田哲也『 麻雀放浪記 』の3冊。いずれもルーティン化した日常の外側で、極限状態をサバイブする人間を描いた作品だ。そこに通底する“生の実感”の正体を、穂村氏が語る。

『漂流教室』には大切なことのすべてがある

 楳図かずおさんの作品は、主人公が子どもなんです。『漂流教室』も『 14歳 』も『 わたしは真悟 』(いずれも小学館)も、全部そう。そして大人になった者は、みんなモンスターになる。『漂流教室』では、小学6年生の教室が丸ごと未来に飛ばされて、給食のおじさんや先生も一応いるんだけれど、大人はみんな人間性を失ってモンスター化していく。「正気の人間は子どもだけだ」という構図を、楳図さんは徹底的に、生涯を通じて貫いたんです。

 以前、新聞の読書相談コーナーで「孫が中学生になるので、人生の指針になるような本を与えたい。何がいいですか」という相談が来て、「『 漂流教室 』(楳図かずお、小学館文庫)です。ここにはすべてがあります」と答えた記憶があります。

『漂流教室』(楳図かずお、小学館文庫)/画像クリックでAmazonページへ
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1972~74年に『週刊少年サンデー』(小学館)で連載。小学6年生の教室が荒廃した未来世界に飛ばされ、子どもたちだけで生き延びようとするSFサバイバル。大人たちが次々と正気を失う中、主人公の少年・高松翔がリーダーとして立ち上がる。

 今読み返しても本当に感動して、涙が出ますね。愛や勇気を本気で信じている人間がこの世に一人はいる、ということが、あれを読むと分かる。楳図さんが亡くなられて、本当に残念です。

「死」を遠ざけると「生」も薄くなる

 今回選んだ3作品はどれも、生きている実感に満ちていると思って選びました。でも、その“生の実感”の正体は何なのか。突き詰めると、それは“死の実感”なんですよね。だから、死を遠ざけよう、隠蔽しようとすると、“死だけ”を遠ざけることはできないから、生の実感も一緒に遠ざけてしまうことになる。

 例えば、我々は「食べるものを得るために、自分で生き物を殺す」という行為から、めちゃくちゃ遠ざかっている。排せつ物だって、トイレの自動洗浄機能でどんどん遠ざかっていて、自分の排せつ物ですら一度も見ない人生を、どこかで理想化しているような気配があります。旅行もそうで、ネットであらかじめレビューや星の数を見て、最も良い行程を組んでから行く。でも、そもそも旅行の醍醐味は、偶然それらに出合うことですよね。

 旅行して、名所を訪れた記憶は全く残っていないのに、「運転中のレンタカーの中にセミが飛び込んできた」ことははっきり覚えている、ということがある。それは、偶然のアクシデントであり、“小さな死”の体験だからです。変な目に遭ったとか、失敗してヒヤッとしたとか、そういう偶然の出来事のほうが記憶に残ります。みんなが有名だと言っているものを計画的に見たところで、“自分の命”とはまるで関係ないですからね。

突然の妻の「ありがとう」が忘れられない

 妻と山を登っていたときのことです。僕が先に登っていて、ある所で視界が急に開けて、眼下に美しい湖が見えたことがあった。妻は10メートルほど後から追いついてきたのですが、同じ地点に立ったとき、僕に「ありがとう」と言ったんです。何のお礼なのか、僕には一瞬分からなかった。「何が『ありがとう』なの?」と聞いたら、「ここから湖が見えることを言わないでいてくれて、ありがとう」と。

数年前の山登りでの妻の何気ない「ありがとう」が、どんな旅行体験よりも強く記憶に残っている
数年前の山登りでの妻の何気ない「ありがとう」が、どんな旅行体験よりも強く記憶に残っている

 つまり、そういうことなんですよね。「来て来て、すごいよ、湖だよ!」と言われてしまうと、妻の体験としては薄れてしまう。彼女自身が、それを自分の目で見たということに価値があるし、偶然の出来事だけが本当の意味で“自分の体験”になるんです。僕たちは本来、生まれてから死ぬまでその原体験ベースで生きているはずなのだけれど、現代では自らの手で、それを少しでも薄めようとして生きている節があります。

「失踪してみたい」という欲望

 吾妻ひでおさんの『 失踪日記 』(イースト・プレス)は、家族もいるし、業界でもリスペクトされていた漫画家の吾妻さんが、ある日突然“逃げ出す”わけです。野宿をして、拾い食いをして、そうしているうちにガス工事などのアルバイトを始めて、そこの業界紙みたいなものに漫画を描き始めてしまう。漫画から逃げたはずなのに、パラレルワールドに行って、また別の形で描いている。その面白さというか。

『失踪日記』(吾妻ひでお、イースト・プレス)/画像クリックでAmazonページへ
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2005年刊。80年代に人気を博した漫画家が、ある日仕事を放り出して家を出たところから始まる実録ノンフィクション。ホームレス生活、ガス配管工としての労働、そしてアルコール依存症で担ぎ込まれた病棟での日々を、ユーモラスな絵柄と軽妙な語り口で描く。手塚治虫文化賞マンガ大賞ほか受賞多数、累計30万部を超えるベストセラー。

 この本がベストセラーでありロングセラーになっているのは、『失踪日記』という題名で分かるように、やっぱり悪夢感を追体験したいからじゃないかなと。だって、失踪してみたいわけじゃないですか、みんな(笑)。

 僕がもし失踪したら、熱海あたりに四畳半の部屋を借りて、偶然知り合ったお総菜屋さんで働いている女性と暮らし、毎日自転車で送り迎えして、夜はお総菜の残りをこたつで2人で食べる──そんな場面を想像して、うっとりすることがあるんです。今より貧乏で、家も狭くて、健康保険証がないにもかかわらず、生きている感覚のようなものというか、命が可視化される感じがある。

 現代社会では、何のためにお金を稼いで、何のためにいい家に住もうとしているのか、だんだん分からなくなってくるときがある。何かが本末転倒というか。四畳半で、生きてさえいればいいんじゃないか。分かってはいるんだけど、なかなかそこまではできない。吾妻さんはやっぱり天才だから、失踪して腐ったものを食べたりしても、濃い時間を生きていた。憧れますよね、その魂に。

 吾妻さんは、アルコール依存症の療養病棟での日々を描いた漫画『 失踪日記2 アル中病棟 』(イースト・プレス)も描いているのですが、我々の生活の中では出会わないような、すごい人がいっぱいいることが分かる。実際にそういう人に会ったら印象が違うんだろうけど、吾妻さんの漫画で読むと、その人たちの姿を、いつまでも見ていたいと思ってしまうんです。

戦後×麻雀、強烈なサバイバル環境

 阿佐田哲也さんの『 麻雀放浪記 』(双葉文庫)も、同じです。まず舞台が戦後で、焼け跡を掘ったら“腕”が出てきた…といったところから始まる。リアルワールドでのサバイバルだけでもギリギリの世界で、そこに“麻雀”というメタ空間でのサバイバルが上乗せされて描かれる。これが独特の構造になっていて、すべてが生の実感に満ちている。そこには、愛とか友情とか裏切りとか、死とか、我々のルーティン化された日常の中では出合えない鮮烈さがあります。

『麻雀放浪記』(阿佐田哲也著、双葉文庫)/画像クリックでAmazonページへ
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1969年から『週刊大衆』(双葉社)で連載。終戦直後の焼け野原を舞台に、「坊や哲」がイカサマ技術を武器にばくち打ちたちと渡り合うピカレスクロマン。愛、裏切り、死が渦巻く極限のサバイバルを描き、昭和の麻雀ブームの火付け役となった。

 生きることは、本来、こんなに鮮烈なんだと突きつけられる感じがする。まさに名作中の名作です。もちろん、今の時代にそこまでのサバイバルを体験することは難しい。でも、その欲望は形を変えて残っている。

 今のTikTokやYouTubeには、「終電でわざと寝過ごして大月駅まで来ちゃいました」みたいな動画があります。実際にそんな目には遭いたくはないけれど、見てみたいわけですよ(笑)。「大月駅前、何もないですね…コンビニを探して歩きます」とか言って。ドラマチックなことは何も起きないのだけれど、すべてが“小さく絶望的な状態”で、だからこそ妙にリアリティーを持っている。我々は安全なところにいて、快適な状態のまま、そういうものを追体験したい。これらはユーザーに向けたコンテンツだけど。本当に生の実感を求めてどうなってもいいと思える、限られた人だけがリアルに突っ込んでいくんです。

「面倒臭い人」がいなくなった世界

 『失踪日記』や『麻雀放浪記』に出てくる人たちは、今の世の中では「面倒臭い人」として排除されてしまうような人たちなんです。でも、その面倒臭さの中にこそ、生の実感がある。共通しているのは、安全なルーティンの外側に出たときに初めて見える、圧倒的なリアリティーです。『漂流教室』は、まさにその代表と言えると思います。

 他者というのは絶対の未知性です。そして、絶対の未知性の根源は「死」なんですよ。他者の中には、自分にとっての死が眠っている。だから、他者は怖いに決まっている。でも、そのままでは社会の回転速度が落ちるから、未知性を持ったものを排除するという方向に行っている。

 先ほど「面倒臭い人」という言い方をしましたが、言うなれば、昭和の頃は面倒臭い人だらけだった。親戚が集まると絶対に1人は、面倒臭いおじさんなどがいた。でも今はそういう人が何かを言うと「そういうとこだよ」と注意されて終わりになる。その返しは最もコスパのいい返しで、何の説明もなしに存在を否定していくわけです。

 たまに心の余裕があるときに面倒臭い人を見ると、懐かしい感じがします。昔は、こういう人がいっぱいいたなって。僕が20代の頃の編集者のおじさんたちは面倒臭かった。でも自分がおじさんになってみたら、若い編集者に面倒臭い人なんて全然いない。面倒臭い人はみんなどこかにまとめて捨てられてしまったのか…。

 まあ当時は本当に嫌だったけどね、リアルにそんな人と仕事するのは(笑)。でも、自分が面倒臭い人になったとき、自分も同じように捨てられちゃうんだろうなって。そう思うと、今回紹介した作品の登場人物たちが、なんだか他人事じゃなくなってくるんです。

取材・文/金澤英恵 構成/大松佳代、長野洋子(日経BOOKプラス編集) 写真/洞澤佐智子 本写真/スタジオキャスパー