スティーヴン・キング文、モーリス・センダック絵という伝説的な組み合わせで生まれた絵本『 ヘンゼルとグレーテル 』(NHK出版)。その翻訳を手掛けた歌人・穂村弘氏が、ヘンゼルとグレーテルの兄妹(きょうだい)のような「生き抜く力」を学べる本として選んだのは、楳図かずお『 漂流教室 』、吾妻ひでお『 失踪日記 』、阿佐田哲也『 麻雀放浪記 』の3冊。いずれもルーティン化した日常の外側で、極限状態をサバイブする人間を描いた作品だ。そこに通底する“生の実感”の正体を、穂村氏が語る。
『漂流教室』には大切なことのすべてがある
楳図かずおさんの作品は、主人公が子どもなんです。『漂流教室』も『 14歳 』も『 わたしは真悟 』(いずれも小学館)も、全部そう。そして大人になった者は、みんなモンスターになる。『漂流教室』では、小学6年生の教室が丸ごと未来に飛ばされて、給食のおじさんや先生も一応いるんだけれど、大人はみんな人間性を失ってモンスター化していく。「正気の人間は子どもだけだ」という構図を、楳図さんは徹底的に、生涯を通じて貫いたんです。
以前、新聞の読書相談コーナーで「孫が中学生になるので、人生の指針になるような本を与えたい。何がいいですか」という相談が来て、「『 漂流教室 』(楳図かずお、小学館文庫)です。ここにはすべてがあります」と答えた記憶があります。
今読み返しても本当に感動して、涙が出ますね。愛や勇気を本気で信じている人間がこの世に一人はいる、ということが、あれを読むと分かる。楳図さんが亡くなられて、本当に残念です。
「死」を遠ざけると「生」も薄くなる
今回選んだ3作品はどれも、生きている実感に満ちていると思って選びました。でも、その“生の実感”の正体は何なのか。突き詰めると、それは“死の実感”なんですよね。だから、死を遠ざけよう、隠蔽しようとすると、“死だけ”を遠ざけることはできないから、生の実感も一緒に遠ざけてしまうことになる。
例えば、我々は「食べるものを得るために、自分で生き物を殺す」という行為から、めちゃくちゃ遠ざかっている。排せつ物だって、トイレの自動洗浄機能でどんどん遠ざかっていて、自分の排せつ物ですら一度も見ない人生を、どこかで理想化しているような気配があります。旅行もそうで、ネットであらかじめレビューや星の数を見て、最も良い行程を組んでから行く。でも、そもそも旅行の醍醐味は、偶然それらに出合うことですよね。
旅行して、名所を訪れた記憶は全く残っていないのに、「運転中のレンタカーの中にセミが飛び込んできた」ことははっきり覚えている、ということがある。それは、偶然のアクシデントであり、“小さな死”の体験だからです。変な目に遭ったとか、失敗してヒヤッとしたとか、そういう偶然の出来事のほうが記憶に残ります。みんなが有名だと言っているものを計画的に見たところで、“自分の命”とはまるで関係ないですからね。
突然の妻の「ありがとう」が忘れられない
妻と山を登っていたときのことです。僕が先に登っていて、ある所で視界が急に開けて、眼下に美しい湖が見えたことがあった。妻は10メートルほど後から追いついてきたのですが、同じ地点に立ったとき、僕に「ありがとう」と言ったんです。何のお礼なのか、僕には一瞬分からなかった。「何が『ありがとう』なの?」と聞いたら、「ここから湖が見えることを言わないでいてくれて、ありがとう」と。

つまり、そういうことなんですよね。「来て来て、すごいよ、湖だよ!」と言われてしまうと、妻の体験としては薄れてしまう。彼女自身が、それを自分の目で見たということに価値があるし、偶然の出来事だけが本当の意味で“自分の体験”になるんです。僕たちは本来、生まれてから死ぬまでその原体験ベースで生きているはずなのだけれど、現代では自らの手で、それを少しでも薄めようとして生きている節があります。
「失踪してみたい」という欲望
吾妻ひでおさんの『 失踪日記 』(イースト・プレス)は、家族もいるし、業界でもリスペクトされていた漫画家の吾妻さんが、ある日突然“逃げ出す”わけです。野宿をして、拾い食いをして、そうしているうちにガス工事などのアルバイトを始めて、そこの業界紙みたいなものに漫画を描き始めてしまう。漫画から逃げたはずなのに、パラレルワールドに行って、また別の形で描いている。その面白さというか。
この本がベストセラーでありロングセラーになっているのは、『失踪日記』という題名で分かるように、やっぱり悪夢感を追体験したいからじゃないかなと。だって、失踪してみたいわけじゃないですか、みんな(笑)。
僕がもし失踪したら、熱海あたりに四畳半の部屋を借りて、偶然知り合ったお総菜屋さんで働いている女性と暮らし、毎日自転車で送り迎えして、夜はお総菜の残りをこたつで2人で食べる──そんな場面を想像して、うっとりすることがあるんです。今より貧乏で、家も狭くて、健康保険証がないにもかかわらず、生きている感覚のようなものというか、命が可視化される感じがある。
現代社会では、何のためにお金を稼いで、何のためにいい家に住もうとしているのか、だんだん分からなくなってくるときがある。何かが本末転倒というか。四畳半で、生きてさえいればいいんじゃないか。分かってはいるんだけど、なかなかそこまではできない。吾妻さんはやっぱり天才だから、失踪して腐ったものを食べたりしても、濃い時間を生きていた。憧れますよね、その魂に。
吾妻さんは、アルコール依存症の療養病棟での日々を描いた漫画『 失踪日記2 アル中病棟 』(イースト・プレス)も描いているのですが、我々の生活の中では出会わないような、すごい人がいっぱいいることが分かる。実際にそういう人に会ったら印象が違うんだろうけど、吾妻さんの漫画で読むと、その人たちの姿を、いつまでも見ていたいと思ってしまうんです。
戦後×麻雀、強烈なサバイバル環境
阿佐田哲也さんの『 麻雀放浪記 』(双葉文庫)も、同じです。まず舞台が戦後で、焼け跡を掘ったら“腕”が出てきた…といったところから始まる。リアルワールドでのサバイバルだけでもギリギリの世界で、そこに“麻雀”というメタ空間でのサバイバルが上乗せされて描かれる。これが独特の構造になっていて、すべてが生の実感に満ちている。そこには、愛とか友情とか裏切りとか、死とか、我々のルーティン化された日常の中では出合えない鮮烈さがあります。
生きることは、本来、こんなに鮮烈なんだと突きつけられる感じがする。まさに名作中の名作です。もちろん、今の時代にそこまでのサバイバルを体験することは難しい。でも、その欲望は形を変えて残っている。
今のTikTokやYouTubeには、「終電でわざと寝過ごして大月駅まで来ちゃいました」みたいな動画があります。実際にそんな目には遭いたくはないけれど、見てみたいわけですよ(笑)。「大月駅前、何もないですね…コンビニを探して歩きます」とか言って。ドラマチックなことは何も起きないのだけれど、すべてが“小さく絶望的な状態”で、だからこそ妙にリアリティーを持っている。我々は安全なところにいて、快適な状態のまま、そういうものを追体験したい。これらはユーザーに向けたコンテンツだけど。本当に生の実感を求めてどうなってもいいと思える、限られた人だけがリアルに突っ込んでいくんです。
「面倒臭い人」がいなくなった世界
『失踪日記』や『麻雀放浪記』に出てくる人たちは、今の世の中では「面倒臭い人」として排除されてしまうような人たちなんです。でも、その面倒臭さの中にこそ、生の実感がある。共通しているのは、安全なルーティンの外側に出たときに初めて見える、圧倒的なリアリティーです。『漂流教室』は、まさにその代表と言えると思います。
他者というのは絶対の未知性です。そして、絶対の未知性の根源は「死」なんですよ。他者の中には、自分にとっての死が眠っている。だから、他者は怖いに決まっている。でも、そのままでは社会の回転速度が落ちるから、未知性を持ったものを排除するという方向に行っている。
先ほど「面倒臭い人」という言い方をしましたが、言うなれば、昭和の頃は面倒臭い人だらけだった。親戚が集まると絶対に1人は、面倒臭いおじさんなどがいた。でも今はそういう人が何かを言うと「そういうとこだよ」と注意されて終わりになる。その返しは最もコスパのいい返しで、何の説明もなしに存在を否定していくわけです。
たまに心の余裕があるときに面倒臭い人を見ると、懐かしい感じがします。昔は、こういう人がいっぱいいたなって。僕が20代の頃の編集者のおじさんたちは面倒臭かった。でも自分がおじさんになってみたら、若い編集者に面倒臭い人なんて全然いない。面倒臭い人はみんなどこかにまとめて捨てられてしまったのか…。
まあ当時は本当に嫌だったけどね、リアルにそんな人と仕事するのは(笑)。でも、自分が面倒臭い人になったとき、自分も同じように捨てられちゃうんだろうなって。そう思うと、今回紹介した作品の登場人物たちが、なんだか他人事じゃなくなってくるんです。
取材・文/金澤英恵 構成/大松佳代、長野洋子(日経BOOKプラス編集) 写真/洞澤佐智子 本写真/スタジオキャスパー
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