スティーヴン・キング文、モーリス・センダック絵という伝説的な組み合わせで生まれた絵本『 ヘンゼルとグレーテル 』(NHK出版)の翻訳を、歌人・穂村弘氏が手掛けた。童話が時代を超えて読み継がれるように、説明も前置きもいらない、ただ読めば分かる──そんな傑作が世の中にはある。穂村氏が挙げるのは、永井豪『 デビルマン 』、内田善美『星の時計のLiddell』、江戸川乱歩『 孤島の鬼 』の3冊。それぞれのジャンルで頂点を極めた、天才たちによる伝説の傑作に、穂村氏は何を見ているのか。

「全人類必読」という書店のPOP

 ある書店に入って、思わず笑ってしまったことがあるんです。『 デビルマン 』(永井豪、小学館)の所にPOPが付いていて、「全人類必読」と書いてあった。リアルに考えると、『デビルマン』のような“悪魔”観は宗教によって違うから、例えばキリスト教の人が読んだときの感覚はまた違ってくると思う。だから厳密に言えば、「全人類必読」とまでは言えないかもしれない。でも、悪魔というものがイメージ的な存在でしかない多くの日本人に限っていえば、「その通り!」と思ったんです。

『画業50周年愛蔵版 デビルマン』(永井豪、小学館)/画像クリックでAmazonページへ
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1972~73年に『週刊少年マガジン』(講談社)で連載。悪魔アモンと合体した少年・不動明が、同胞である人間を守るために戦う姿を描いたダークファンタジーの金字塔。少年漫画の枠を超えた過激な描写と絶望的な結末で、多くの読者にトラウマを刻んだ。

 永井豪さんには無数の傑作があるけれど、代表作は何かと聞かれたら、これはもう間違いなく『デビルマン』なんです。同じ天才でも例えば楳図かずおさんの場合は『 漂流教室 』という人も『 わたしは真悟 』という人も、また『 おろち 』(いずれも小学館)など初期のホラーという人もいて、意見が割れると思う。でも永井さんの場合は『デビルマン』で決まり。近年は他のあらゆる傑作が、デビルマンにつながる物語だったという流れもあります。

異物を内側に持っていることこそが「人間らしさ」

書店で『デビルマン』に掲げられた「全人類必読」のPOPの衝撃と、納得感が忘れられないという穂村さん
書店で『デビルマン』に掲げられた「全人類必読」のPOPの衝撃と、納得感が忘れられないという穂村さん

 『デビルマン』の主人公は、悪魔と合体して“半分悪魔”になった少年なんです。人間からは化け物扱いされる。でも物語を読み進めると、本当に恐ろしいのは悪魔ではなく、疑心暗鬼に駆られて同胞を迫害していく“人間たち”の方だと分かってくる。半分悪魔である主人公こそが、実は最も人間らしい存在なんです。この逆転の説得力がすごかった。

 考えてみると、『 チェンソーマン 』(藤本タツキ、集英社)も『 寄生獣 』(岩明均、講談社)も『 鬼滅の刃 』(吾峠呼世晴、集英社)も『 呪術廻戦 』(芥見下々、集英社)も、近年のヒット作はすべてこの構造に似ているんですよね。メインキャラクターが「異物」なんです。『チェンソーマン』は悪魔だし、『寄生獣』は右腕に寄生生物がいるし、『鬼滅の刃』は妹が鬼だし、『呪術廻戦』は最強の“呪いの王”が主人公の中にいる。

 主人公が本当の意味で“人間らしく”あるためには、悪魔や寄生生物や鬼といった、人間にとっての“絶対的な異物”を自分の内側に抱える、あるいは身近に感じなくてはいけない。そういう逆説的な構造ですよね。ただの人間のままでは、本当の人間にはなれない。その原点の一つが『デビルマン』だと思うんです。

 今回翻訳した『 ヘンゼルとグレーテル 』(NHK出版)でも、同じことを感じました。お菓子の家にすんで鳥を操る「魔女」こそが、自由に生きる存在であり、「人間」の可能性を暗示していたのかもと。

穂村さんが翻訳を手掛けた『ヘンゼルとグレーテル』(スティーヴン・キング文、モーリス・センダック絵、NHK出版)/画像クリックでAmazonページへ
穂村さんが翻訳を手掛けた『ヘンゼルとグレーテル』(スティーヴン・キング文、モーリス・センダック絵、NHK出版)/画像クリックでAmazonページへ

 現実社会でもそうですよね。我々は時代の運命に翻弄されるし、社会システムの奴隷でもある。特に歴史的に女性の運命がそうだった。それに抗おうとした女性たちは、みんな「魔女」と呼ばれた。でもそれは主体性を持った女性の別名であって、つまり、あの人たちこそが「人間」なんですよ。

 僕は10歳のとき、友達の家で偶然『デビルマン』の最終回を読んでしまって、本当にトラウマになったんです。「こんなの見せていいのか?」というような、少年漫画としてはありえない最終回だった。ただ、今回僕がどうしても語りたいのは、「妖鳥シレーヌ」のエピソードです。

10歳の少年の心に焼きついた「愛」のかたち

 シレーヌという強い女性型の悪魔が、デビルマンに挑んでいくシーンがあります。戦いの前に屋根の上に立ち、月に向かって「うつくしき月よ、そなたはこれからおこることを見ないほうがよい」と呼びかける。惨劇が起こるから見ない方がいいと。まず月に呼びかけるという段階ですごいのだけれど、シレーヌは戦いの末に羽をむしられ、血みどろの姿で、“このままでは死んでも死にきれない”と慟哭する。

 そのとき、仲間のカイムという悪魔が降りてきて、「シレーヌ、合体だ」と提案します。ただ、合体すれば“どちらかの意識”しか残せない。カイムの意識が支配すれば生き延びられるかもしれないけれど、シレーヌの意識が支配したら2人とも死んでしまう。瀕死(ひんし)のシレーヌは、カイムにそんなことはさせられないと、一度は合体を拒否する。するとカイムは黙り、やがてこう言うんです。「シレーヌ 血まみれでもきみはうつくしい」と。そう言われたシレーヌはカイムを受け入れて合体し、デビルマンに最後の戦いを挑むんです。

 これがもう、鳥肌ものの感動で…。10歳だった僕でさえ、分かったんですよ。カイムが黙ったとき、「カイムはシレーヌのことが好きなんだよ、好きに決まってんじゃん!」って。でも、カイムは最後まで「好きだ」とは言わない。その姿に本当の「愛」を感じたとき、自分がこの先おじいさんになるまで生きても、これほどに純度の高い愛に巡り合うことはないだろう、と気付いてしまったんです。

 現実の愛はお互いの資源の奪い合いで、バランスシートが釣り合ったところを「愛」と呼んでいるだけじゃないかと。真の愛は無償のものなんだということをシレーヌとカイムによってインプットされたから、余計にそう感じてしまう。もちろん、創作の話だと理解はしているのですが。愛とは戦いなんだということや、「敵と味方」という二項対立がこの世の仮の姿だということも、この物語からは全部分かる。真の愛とは何かを知りたい人は、やっぱり『デビルマン』を読むべきだと思います。

祈りを感じる、伝説の漫画家

 内田善美さんの『星の時計のLiddell』(集英社)は何がお薦めかというと、まず絵がすごいんです。コストパフォーマンスというものが度外視された、緻密で丁寧な絵。絵から祈りを感じる——というのが、一番近い表現かもしれません。

『星の時計のLiddell』(内田善美、集英社)。写真は、穂村さんの私物
『星の時計のLiddell』(内田善美、集英社)。写真は、穂村さんの私物
1985~86年刊行の全3巻。1981年のシカゴを舞台に、同じ家の夢を見続ける青年ヒューと、彼の夢の謎を追う友人ウラジーミルが、「夢の家」と少女リデルを探す旅に出るミステリアス・ロマン。緻密な描写と詩的なセリフで「伝説の漫画」と称されるが、作者の引退後は再版されておらず、古書市場では高値で取引されている。

 この作品では、主人公の青年が繰り返し見る夢の中に、古い家が出てきます。あるとき、その夢の中で女の子に出会い、「幽霊さん」と呼びかけられる。その奇妙な体験を経て、ある日、青年は街の古道具店の店先に飾られた古い写真の中に、その少女を見つけます。写真の古さからすると、その少女はもう死んでいるか、老人になっている。でも、青年はその1枚の写真を手掛かりに、なんとか少女を探そうとします。

 本当に自分が欲するものは、まだこの世に存在しないか、自分ではまだ見たことがない何かだ──そういう性質を持つ人間が、一定数いると思うんです。既にある何かや、誰かが薦めてくれるものでは満たされない。そういう人は昔からいて、『西遊記』もそういう構造ですよね。三蔵法師たちは、誰も見たことのない経典を求めて、当時の感覚からすると宇宙に行くくらい遠い天竺(てんじく)まで旅をする。途中で力尽きる可能性が高いのに、それでも行くんです。

 内田さんは活動期間がとても短く、いくつかの傑作を残しているのに、増刷をしていない。この作品に流れているのは、物質とお金をベースにした世界への強い違和感であり、実際、内田さんの作品も「今、世の中に出回っている本」しかありません。読める機会は限られてしまうと思うのですが、もしその機会が訪れたらぜひ手に取って、読み継いでほしいと思います。

乱歩の「本当の欲望」が胸を打つ

 江戸川乱歩の『 孤島の鬼 』(創元推理文庫)は、“悪夢”そのものです。ここには、当時の社会から疎外されたあらゆる要素が詰め込まれています。

『孤島の鬼』(江戸川乱歩著、創元推理文庫)/画像クリックでAmazonページへ
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青年・蓑浦(みのうら)が、恋人が殺害されたことをきっかけに絶海の孤島へと向かい、異形の者たちがすむ地獄のような世界と対峙する長編探偵小説。結合双生児、同性愛、人造の奇形などのさまざまな要素が詰め込まれている。江戸川乱歩の最高傑作との声も多い。

 特に象徴的なのは、男女の結合双生児(秀ちゃんと吉ちゃん)が、絶海の孤島の土蔵に閉じ込められている場面。女の子の秀ちゃんは驚くほど美しく、知性と品格に溢れている。とはいえ、教育を十分に受けられなかった境遇から、彼女が綴った手記はそのほとんどがひらがなで書かれています(※ただし作品中で、読者が読みやすいよう、ひらがなを漢字に置き換えてある)。

 「母と似たもので、父というのがあるのも知ってますが、父のほうは、あれがそうだとすると、二へん三べんあいました」

 こういった、“親”の概念すら持たずに育った者ゆえの純粋な言葉には、心を締め付けられます。「親がいない」という以前に、「親という概念そのものが最初から与えられていない」絶望的な境遇。それは、地獄のような世界の中に咲いた、あまりにもイノセント(無垢)な魂の叫びです。

 乱歩という人は、自分の中に潜む「本当の欲望」を生涯かけて書き続けた人でした。変身や変装への願望を追い求め、まるで「いい歳をして、ごめんなさい」と前置きしながらも、「しかし私はこれが好きでたまらぬのです」と小説を書いているよう――。人間の本当の欲望というものは、不思議と胸を打つんです。

 『芋虫』という作品は、戦地から帰ってきた兵隊が四肢を失い、言葉も発せない状態になっている話です。妻に介護されながら生きるのですが、その関係は次第にゆがんでいき、看護と虐待、献身と嗜虐(しぎゃく)が入り混じった異様なものになっていく。これが“反戦小説”として読まれてきた。

 でも、なんか違うんですよね。反戦を意図して書いたというよりは、そうした極限状態における人間の欲望を、特殊な喜びとして描いていると感じます。でもそれが結果として、戦争の残酷さをむき出しにしてしまい、反戦にまで見えてしまう。

「乱歩の本質は、“欲望”にあると思うんですよね」
「乱歩の本質は、“欲望”にあると思うんですよね」

 『人間椅子』も『屋根裏の散歩者』も、みんな同じなんです。好きな女性の家に大きな椅子として入り込んで、「ああ、今、私の上に彼女は座っている」と愉悦に浸る。あるいは屋根裏から糸を垂らして、ちょうどぽっかり開いた口の上に毒薬を落としてみようか、と考える。何の恨みもなくても、口が開いていたら毒薬を垂らしてみたい。「なんでそんなことをしたんだ」と言われても、「そりゃ、してみたいでしょう」という話なわけです。そうした欲望をすべて書いてしまうのが、乱歩のなんと素晴らしいことかと思います。

取材・文/金澤英恵 構成/大松佳代、長野洋子(日経BOOKプラス編集) 写真/洞澤佐智子 本写真/スタジオキャスパー