患者から多くの苦情が寄せられる受付スタッフの調査に行ったはずが、より大きな問題を抱えていたのは、実は依頼主である院長で……。なんと、院長のパワハラを理由に退職者まで出る事態へと発展していきます。トレーニングを受けた調査員が客を装って医療機関のサービスをチェックする「覆面調査」を受けた実例をミステリー仕立てで紹介する新刊『覆面調査員は見た! 医療現場のマナー事件簿』から、特に“あるある”なケースを抜粋してお届けします。

(イラスト:オザワミカ)
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依頼内容

 今回の依頼元は耳鼻咽喉科クリニック。ある受付スタッフに対して、患者から複数の苦情が寄せられているそうです。具体的には「受付の人が怖いから予約の電話をしたくない」「あんな態度の悪い人は、受付じゃなくて中の仕事に変えた方がいいんじゃないか」など。

 これまでに一度だけ、院長はこのスタッフに、患者対応について注意したことがあるのですが、ろくに返事もせず反省の色が見えないばかりか、しまいには逆ギレされてしまったとのこと。「早めに改善しないと患者離れが起きてしまう……」と、院長は危機感を抱いています。


院内の空気を凍り付かせた院長の怒鳴り声

 早速、覆面調査員A子が調査に向かいました。中に入ると、受付にいたスタッフから「こんにちは。初診ですか」と声を掛けられました。笑顔もアイコンタクトもない上に、口調も素っ気なかったため、愛想のない印象を受けました。その後、受付終了時間ぴったりに1人の患者が来院したのですが、「あ、診察の受付は終わりました」と事務的にあっさり断っており、A子は驚きました。

 A子が待合室で順番を待っていると、診察室から大声が聞こえてきて、院内の空気が一気に凍り付きました。子どもが院長の診療を受けている最中でしたが、処置を嫌がって暴れており、付き添いの母親と看護師が2人掛かりで押さえ付けている様子。彼らに向かって、院長が「もう!動かないで!ちゃんと押さえといて!」と建物中に響き渡る声で指示していたのです。

 診察室から出てくると、子どもはあっけらかんとしている一方、母親は浮かない顔をしていました。受付スタッフの対応以上に、院長が声を荒らげていたことをA子は問題視していました。

院長のパワハラを理由に退職したと「慰謝料」を求められ…

 今回のクリニックのスコアをレーダーチャートに示します。

出所:『覆面調査員は見た! 医療現場のマナー事件簿』
出所:『覆面調査員は見た! 医療現場のマナー事件簿』
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 今回は、院長に対しても厳しい指摘をしなければならない状況でした。院長を傷付けないように配慮しつつ、丁寧に結果をフィードバックしたところ、院長から悩みを打ち明けられました。

 看護師のB子から、急に「退職する」との申し出を受けたというのです。しかも、その原因として告げられたのが「院長のパワーハラスメント」。数日前、覆面調査のときと同じく、処置中に子どもが動いてしまい、危ないと感じた院長は、「なんでちゃんとやらないんだ!いつも言っているだろ。いつになったらうまくできるようになるんだ!」と、大きな声でB子を叱ったそうです。

 診察を終えた後、院長は冷静になって自らの行動を反省し、「大声を出して悪かった」とB子に謝りました。しかし翌日、B子から「これまでずっと我慢してきましたが、もう耐えられなくなりました」と退職願を渡されたのです。

 院長は、普段はとても穏やかな人物です。一方で、忙しかったり、細かい作業を求められたりして余裕がなくなると、つい感情的になってしまうとのこと。「昔からの悪癖で、気を付けるようにはしているのですが、どうしても大きな声を出してしまうのです……」と、かなり落ち込んだ様子でした。

 話はこれで終わりません。後日、B子から連絡があり、「先生の威圧的態度のせいで急に退職することになったので、退職金をいただきたいと思っています。パワハラの分、当然、多めに提示してもらえますよね」と、脅しにも近い要求をされたのです。

 労働トラブルによって診療に集中できなくなる事態は避けたいとの判断から、院長はやや高めの退職金を支払いました。この一件を受け、院長は、焦ると大声を出してしまうという自身の欠点を直すことを決意。院長の振る舞いは確実にクリニックの雰囲気を悪くしており、患者から苦言を呈されていた受付スタッフの対応にもそれが影響している可能性が考えられます。そこで我々は、パワハラ防止に向け、院内の風通しを良くする手伝いをすることになりました。

パワハラの線引きとなる「業務の適正な範囲」とは?

 職場におけるパワハラとは、同じ職場で働く人に対して、職務上の地位や人間関係といった職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与えたり、職場環境を悪化させたりする行為です。厚生労働省は、職場のパワハラに当たり得る言動として、「1)精神的な攻撃(暴言、名誉毀損、侮辱、脅迫など)」「2)身体的な攻撃(暴行、傷害など)」「3)過大な要求(明らかに不要あるいは遂行不可能な業務の強制、仕事の妨害など)」「4)過小な要求(能力や経験とかけ離れた程度の低い業務を命じる、仕事を与えないなど)」「5)人間関係からの切り離し(隔離、仲間外し、無視など)」「6)個の侵害(私的な部分に過度に立ち入る)」──の6類型を示しています。

 最近は、「パワハラ」と言われるのを心配して、十分に部下の指導ができないといった上司側の悩みをよく耳にしますが、もちろん部下が上司の指示に不満を感じたからといって、全てがパワハラになるわけではありません。「業務の適正な範囲」であればパワハラには該当しないのです。

 ただし、この範囲の線引きはなかなか難しいのが実情です。各職場で「どこまでが業務の適正な範囲なのか」を明確にしておく必要があります。実際にパワハラが疑われる事案が発生した際には、そのときの状況など、事実関係を詳細に調査した上で、当該の職場における共通認識や過去の裁判例などを参考に判断します。

 今回の事例では、まず院長が全スタッフに向けて、これまでの自分の行動を謝罪し、「パワハラ撲滅宣言」をしました。さらに、パワハラの相談窓口を設置してキャリアコンサルタントに委託。「パワハラだと感じた事例」について、キャリアコンサルタントにヒアリングしてもらい、その結果に基づいて「業務の適正な範囲」を検討。パワハラに関する院内ルールを策定し、就業規則にも関連規定を設けました。

 加えて、スタッフ向けの研修も実施し、具体例を挙げながら「この行為はパワハラに当たるか」を解説しました。スタッフ全員がパワハラに対する正しい知識を身に付けることにより、パワハラの発生を防ぐだけでなく、不適切なパワハラの指摘を回避する効果も期待できます。

最近は、レストランやタクシーなどで“感じが悪い”スタッフや運転手に当たって、不快な思いをする機会が以前よりも減ってきたと感じます。一方で医療機関では、インターネットの口コミで低評価を付けたくなるような残念な出来事に遭遇することがそれなりにあるのではないでしょうか? トレーニングを受けた調査員が客を装って医療機関のサービスをチェックする「覆面調査」を受けた25事例を取り上げ、問題の原因を探り、解決を目指します。

榊原陽子著/日経BP/3190円(税込み)