人材や旅行、学びなど幅広い事業を展開するリクルート。グループ全体で売上高約2兆8000億円、約5万人の社員がいる大企業ですが、新規ビジネスに挑戦するベンチャーの気風を保っています。同社の組織運営のエッセンスを解説した本『心理学的経営』(リクルートの創業期メンバー、大沢武志さんが執筆)を、同社HRエージェントディビジョンの津田郁さんが紹介。本書で、今話題の「人的資本」を創業時から重視してきたことが分かると言います。
日本の意欲ある社員比率は世界最低水準
私は現在、リクルートのいわゆる人材紹介事業のなかにあるリサーチグループでマネージャー兼研究員をしています。リサーチグループは労働市場全般に関する研究を行う部署。労働市場で何が起きているのか、今後どういった働き方や人々の価値観の変化が起きるのか、といったことをリサーチし、社会に情報提供をしています。
近年、世界的に「人的資本」に注目が集まっています。アメリカでは、「企業価値の約9割は有形資産ではなく、人的資本や知的資本の無形資産から創出されている」(*)といったデータがあります。日本政府も企業に、従業員の育成や多様性といった人的資本に関わる19項目を開示するように求め、2023年度から一部は有価証券報告書への記載も義務付けられるようになります。
では、日本国内における人的資本の現状はどうでしょうか。「企業がどれだけ人的資本に投資をしているか」という2010・14年の各国比較を見ると、日本はOJT(職場内訓練)を除くOFF-JT(職場外訓練)の費用が対GDP比で0.10%。これはアメリカ2.08%、フランス1.78%に比べて著しく低い水準であり、しかも減少傾向です。さらに、2017年に米ギャラップ社が調査した「熱意あふれる社員の割合」をみると、日本は6%で、調査対象国139カ国のうち132位という結果でした。
つまり、日本では、人的資本がないがしろにされている上、働く社員たちの意欲も低い──といった状況なのです。
日本は、企業と社員の関係性を考え直さなくてはいけない時期に来ています。かつて企業は、終身雇用や年功序列という安定を与える代わりに、社員の「ライフタイム・コミットメント」を期待していました。しかし、今では、ビジネス環境が大きく変化し、働く人々の価値観も多様になっています。働きやすさや働きがい、市場価値の向上、自己実現など、社員が企業に期待する内容が変わってきています。
一方で企業も、激しい環境変化のなかで、イノベーションや労働生産性の向上をより一層社員に期待するようになっています。
イノベーションや生産性向上、自己実現は、個人がいきいきと働いてこそ可能になるものでしょう。企業は多様な個を生かす経営にシフトしていかなくてはいけません。
組織運営のポイントが分かる1冊
では、実際にどうすればいいのでしょうか。
この「多様な個を生かす」という考え方は、リクルートが創業当時から大切にし続けてきているものであり、よく他社の経営者や人事の方からも「どうシフトしていくべきでしょうか」といった問い合わせをいただきます。
そうした悩みを持つ方に私がお薦めしたいのは、リクルートの創業時メンバーである大沢武志が書いた『 心理学的経営 個をあるがままに生かす 』(PHP研究所)です。1993年に刊行された本ですが決して古くはなく、今でも読むたびに発見があります。書籍自体は大沢の経営の考えがまとめられたものですが、リクルートの組織運営に関するエッセンスが詰まっています。
まず特徴的なのは、本書の章立てです。一般的な経営論であれば、経営の「目的」や「ビジョン」から始まり、「戦略」「組織設計」「業務」などがあり、「個人」や「職場」は後回しでしょう。
『心理学的経営』はまったく逆の順序で、いの一番が「個をあるがままに生かす」。それから個人の心の動きに着目し、その動機付けをどうするかという「モティベーション・マネジメント」、いきいきとした「チームづくり」と「自己革新と組織設計」、あるがままの個を経営に生かすための「リーダーシップ」と続きます。あくまで人間を中心に置き、「個を生かす」ことに着目する。ただしそれに終始するのではなく、それをいかに組織たらしめるのかについての実践知が記されています。
本書では、そもそも人間とは「無駄な情緒や感情を持つもの」であり、それこそが人間の本質だとしています。あるがままの個を受け入れ、いかにそれを解放し、企業を経営していくかが重要だと説いているのです。
この反対が、効率化を優先させたいわゆる官僚型組織でしょう。しかし、そうした組織の中では仕事が縦割りになり、個性が失われ、大企業病の温床となってしまいます。本書はそうした危険にも警鐘を鳴らした1冊とも言えます。
昨今の人的資本に関する議論は「情報開示」に偏りがちです。しかし本当に議論すべきは、人間中心の経営への本質的な転換であると考えています。そのような経営とは何か、個を生かす経営とは何かを知りたい人には、ぜひ読んでもらいたい1冊です。
取材・文/三浦香代子 写真/小野さやか