人材や旅行、学びなど幅広い事業を展開するリクルート。グループ全体で売上高約2兆8000億円、約5万人の社員がいる大企業ですが、組織が硬直化する大企業病に陥らず、成長を続けています。リクルートの創業期メンバー、大沢武志さんが書いた本『心理学的経営 個をあるがままに生かす』では、同社の組織運営の実践知が解説されています。今回はこの本を、同社HRエージェントディビジョンの津田郁さんが紹介します。
優秀な人、ダメな人がいるのではない
前回「 リクルート 大企業病に陥らないエッセンスが詰まった1冊 」で、リクルートの経営のエッセンスが詰まった本として、創業期メンバーの大沢武志が書いた『 心理学的経営 個をあるがままに生かす 』(PHP研究所)を紹介しました。今回はその内容について、もう少し詳しくご紹介したいと思います。
『心理学的経営』において最も大切にされている考え方は、序章で述べられているように「人間をあるがままにとらえ、あるがままに生かす」ということ。それを何よりも重視しています。具体的には、一人ひとりに向き合い、内発的動機を高めて自己組織化を促します。さらには、あえて不安定な状態をつくることで組織を活性化させるのです。順に説明します。まずは、人間の捉え方についてです。
人間観については、例えばアメリカの心理・経営学者ダグラス・マクレガーによる有名な「XY理論」があります。簡単に言うと、「人間は生まれつき怠け者で、強制や命令をされなければ仕事をしない」とするX理論と、「生まれながらに嫌いということはなく、条件次第で責任を受け入れ、自ら進んで責任を取ろうとする」というY理論という観点から人間を考えるものです。ただし、これは二元論で西洋的な考えかもしれません。
一方、『心理学的経営』では、「人間はXであり、Yでもある。両面を併せもっていると捉えるのが大事だ」といういわば東洋的なものの見方と言えると思います。
今後、日本企業が人的資本に注力するとき、XY理論を基準(X or Y)にするのか、「XでもありYでもある(X and Y)」というスタンスに立つのかが、1つの岐路になるでしょう。
今まではどうしても社員を「優秀か否か」と判断しがちでしたが、実は優秀な人とダメな人がいるわけではなく、すべての人に強みと弱みがあり、その強みとなる潜在能力にこそ着目して、個人の力を活かしきることが大事なのではないか、とする本書の考え方には、今の時代に生きる1人の個人としても、納得度高く共感するところです。
個を生かす組織づくりとは
では、個人が潜在能力を発揮できるような組織はどのようにつくればいいのでしょうか。まずは当人に任せる「仕事」の観点です。本書では「モティベーション・マネジメント」を行い、適切な「衛生要因」「動機付け要因」があると個人が意欲的に仕事に取り組めるとしています。
衛生要因は、給与や勤務時間といったいわゆる雇用条件。こちらも大事ですが、ここだけを改善しても「不満の軽減」にしかならない場合が多いです。「不満」の反対は満足ではなく、「不満ではない」だけなのです。「真の満足」を得るためには、「目標達成」「責任」「承認」といった「動機付け要因」が必要となります。大沢はこれらに加えて、「新しい学習」の要素を紹介しています。現在、「リスキリング(学び直し)」や「アンラーニング(今まで学んだ知識や経験を一度捨てて新たに学び直すこと)」が注目されていますが、当時から仕事を通じた学習促進の重要性を指摘していました。
次に「チーム」の観点です。ここでのキーワードは「自律的小集団」です。端的に言うと「この指とまれ」方式で、何かのプロジェクトを始めたいと思った人が自発的に集まり、活動していく。そういった自律的小集団を認め、奨励していくことが必要です。実際リクルートでは、共通の問題意識を持つ人の小集団が、組織の枠を超えてそこらじゅうで生まれます。それらは非公式の集団ですが、活動の価値が認められ、公式のプロジェクトになることもあります。
そして大沢は、この自律的小集団こそ、大企業組織において個性が埋没してしまう個人の「人間回復」の手がかりであるとしています。人と組織の間の葛藤は、誰もが感じるものです。職場の中で気が合った仲間同士で小集団を形成する。そこでは相互に個々が認知され、個性が受け入れられます。だからこそ、個性の発露による創造的な活動が生まれ、自律性が育まれるのです。今は人的資本とともに「自律的な人材」も注目されていますが、そちらにも通じる内容です。
無秩序が組織を活性化する
どんな組織であれ、個人の役割が決まり、仕事が軌道に乗ると安定します。「完全な秩序」は望ましいように思えますが、実は最も危険な状態です。いつのまにか組織がサイロ化し、「こんな仕事がしたい」と手を挙げても「それはこちらの部署の仕事」といった縦割りの弊害が起こり始めます。いわゆる大企業病に陥ってしまうのです。
本書では、それを打破するのは「無秩序」であると説いています。「カオスと揺らぎ」とも言いますが、あえて組織が混乱する要因を取り込み、揺らがせ、不安定な状態をつくり出すのです。もちろん無秩序状態自体がいいわけではありません。ポイントは、このような状態に置かれた人間は、なんとか解消しようと励み、協力するということです。無秩序から秩序へと自己組織化するときに生まれる自己革新のエネルギー。これこそが組織を活性化させるのだ、と大沢は言っています。
実際にリクルートでは、大胆な異動や組織再編が躊躇(ちゅうちょ)なく行われます。近年では、2021年4月にそれまで個別の事業ごとだった国内7社が統合されました。日々の実務上はそれに伴う混乱ももちろんたくさん起きるのですが、未来にかけて非連続な成長を遂げ、イノベーションや社員一人ひとりの自己革新を起こすためには、このタイミングで必要な判断だったのだ、と同社で働く1人として考えています。
「自律的小集団」や「カオスと揺らぎ」など、世にあるセオリーとは正反対にも感じられる『心理学的経営』。その中心にあるのは、「人間をあるがままに捉え、生かす」という価値観です。昨今「人的資本」が話題になっていますが、人的資本の特徴は「心のある資本」であるということです。働く人のパフォーマンスはモチベーションや人間関係によって変化します。期待し、信頼すること、協働する人の組み合わせや関係性。こういった要素で価値が高まったり低くなったりすることが、人的資本の面白さであり、難しさでもあります。
『心理学的経営』には、人的資本を最大限活用するためのヒントがちりばめられています。時代を経ても、仕事と経営の本質を突いている1冊です。
取材・文/三浦香代子 写真/小野さやか