「両利きの経営を歓迎しているのは日本だけ」というのは、 『資本主義の先を予言した 史上最高の経済学者 シュンペーター』 の著者である名和高司氏。両利きの経営は、自社の本当の強みを深堀りするものではない故に本質ではないと言います。一橋ビジネススクール教授の楠木建氏を迎えて、対談していただきました。その3回目。

(前回から読む)

「両利きの経営」を歓迎するのは、痛い思いを一切したくない人たち

楠木建氏(以下、楠木):今、多くの企業がイノベーションに躍起になっています。過去の成功体験が邪魔をして、いわゆるサクセストラップに陥って、組織やシステムを変更できないところも少なくないでしょう。そうした問題を解決する人気の経営手法といえば「両利きの経営」ですね。

楠木建(くすのき・けん)一橋ビジネススクール教授<br>1964年、東京都生まれ。89年、一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より現職。専門は競争戦略とイノベーション。著書に『ストーリーとしての競争戦略 優れた戦略の条件』『「好き嫌い」と経営』(以上、東洋経済新報社)、『絶対悲観主義』(講談社)など多数。
楠木建(くすのき・けん)一橋ビジネススクール教授
1964年、東京都生まれ。89年、一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より現職。専門は競争戦略とイノベーション。著書に『ストーリーとしての競争戦略 優れた戦略の条件』『「好き嫌い」と経営』(以上、東洋経済新報社)、『絶対悲観主義』(講談社)など多数。
画像のクリックで拡大表示

名和高司氏(以下、名和):両利きの経営について本にまとめたのはスタンフォード大学の経営大学院と、ハーバード・ビジネス・スクールの2人の教授です。「知の深化(今まで培ってきたノウハウや経験をできるだけうまく活用しながら深めること)」と、「知の探索(同じことだけをやっていると行き詰まるから、新しいことにチャレンジすること)」を同時に行うことでイノベーションが起きて、社員のパフォーマンスが上がる、という理論で、『両利きの経営』という日本語版初版が発売されたのは3年以上前になりますね。

楠木:もともと知の深化と探索を提唱したのは、スタンフォード大学のジェームズ・マーチ教授で、半世紀も前のことです。それが時を経て両利きの経営として広まったものの、海外では今ではあまり注目されていません。それなのに、日本ではいまだ人気が衰えていないんですよね。断っておきますが、概念として間違っているわけではありません。僕にとって興味深いのは、日本で人気を維持し続ける点です。

 名和先生は著書『シュンペーター』の中で、「両利きの経営はリスクを取れない組織のトップに非常に優しい理論で、すごく都合がいい経営手法とも言える」とズバリ指摘されていましたね。僕も同意見です。よし、今までやってきたことは「深化」して残して、新しいことを「探索」して始める両利きの経営をすればいいんだ、という結論ほど都合のいいことはありません。なぜって、決断を先送りできますからね。

「両利きの経営」それ自体は筋が通った考え方だが、なぜ日本の経営者の間で特に人気があるのかに興味があると語る楠木氏
「両利きの経営」それ自体は筋が通った考え方だが、なぜ日本の経営者の間で特に人気があるのかに興味があると語る楠木氏
画像のクリックで拡大表示

名和:両利きの経営の成功例として、富士フイルムのイノベーションを挙げる人がいますが、それは間違いです。富士フイルムがイノベーションに成功したのは、もともとある強みを軸に新しい鉱脈を掘り当てたからです。具体的に言うと、カメラのデジタル化が進んで経営が悪化したとき、彼らは看板商品だった写真フィルムづくりを止めて精密化学メーカーとして根っこに戻り、液晶ディスプレー用のフィルムを開発しました。深化に深化を重ねて「進化」したわけで、新しいことに手を広げる「探索」ではないんですよね。

 シュンペーターも、「イノベーションとは革命(レボリューション)ではなく、進化(エボリューション)から生まれるもの」と言っています。富士フイルムはその後さらに医療機器や印刷システム、化粧品、健康食品などの開発にまで進化しましたね。従来通りに写真フィルムを作りつつ、新しいものも作り始めた、なんていういい加減なやり方ではありません。

楠木:従来の看板商品を手放すのは、ものすごく大きな痛みとリスクを伴う決断ですよね。一度根っこに戻る作業は、停滞感のあることでもあります。そうした痛い思いを一切したくない人たちが、「両利きの経営」に飛びついているんですね。

 深化と探索はコインの裏表のようなもので、表裏一体だと思います。探索することは深化であり、深化そのものが探索することになる、というのが本当のところだと思います。

名和:おっしゃる通りで、空き地を見つけてちょっと掘ってみても、鉱脈に当たる確率は極めて低いけれど、自分がよく知ってる土地なら鉱脈を当てやすいわけです。自分の強みは一番近いところにあって、そこを深堀りしてほかに負けないものに育てていく。これは企業の成長に限らず、一個人の成長にも通じる話ですね。

みんなもともと持っていたものを、捨てる決断をしたくない

楠木:名和さんは、強みは一番近いところにあって、それを深堀りする重要性について、一貫して主張されていますよね。でも、世の中は一貫して誤解し続けている。それはなぜかというと、みんなもともと持っていたものを捨てる決断をしたくないからです。なかには、捨てるべきものだと分かっているけれど、捨てるのが嫌だから見て見ぬふりをしている人もいるでしょう。

名和:そういう人たちにとって、何も捨てずに済む両利きの経営は本当に都合がいい。それで深化という名のもとに、もともとの事業を続けて、新しいことを探索すればいいんですから。なんのリスクも取らずに済む都合のいいことばかり取り入れて、やっている感を得て気持ちよくなっているだけ。それではイノベーションはおろか、成長することもできません。

楠木:繰り返しますが、両利きの経営というコンセプトが悪いわけではないんですよね。ただ、誤用・誤解している人が多い。時代とのズレもあると思います。今の潮流はコングロマリット・ディスカウント(多くの産業を抱える複合企業の企業価値が、単体事業を営む企業の株価より低下して、低く評価されること)です。何をやったって競争がある。自分の土俵にフォーカスして深堀りすべき、ということで、他の企業ができないことを極めることでしか競争に勝つことはできない、という論理です。両利きの経営とはある意味真逆の考え方です。

名和:ファーストリテイリング会長兼社長の柳井正さんにお会いしたときにも、まったく同じことを言っていましたね。「いずれ我々はGAFAに全部取られる可能性があるから、本気で専業を深堀りしてやらない限り、生き残れない。広さではGAFAに太刀打ちできなくて、専業だけが生き残る道。余計なことをするな。そんな暇はないはずだ」と。

楠木:競争に勝つにはそれしかないんですよね。本気で勝とうとしている人はそうしている。痛みもリスクも伴わないことだけをやって勝負に勝てればいいですが、世の中そんなに甘くありません。あれもこれも、と「探索」しても、それをもっとうまくできる競合他社がいればやっても意味はありません。トップが腰を据えてリスクを取り、桁違いの時間とコストをかけて強みを磨いていかないと勝てない。もし、自分の会社の経営陣が繰り返し両利きの経営と言っていたら、要注意だと思いますね。決断を回避している可能性がある。

名和:確かにそうですね。経営者とはリスクを伴う意思決定をする人のこと。それなのにリスクを取らずに済む選択肢を取るというのは、やる気がなくて、やったふりをするだけの軽い経営者ということになります。

楠木建氏(左)と名和高司氏(右)
楠木建氏(左)と名和高司氏(右)
画像のクリックで拡大表示

文/茅島奈緒深 構成/中野亜海 写真/稲垣純也

(次回に続く)

行き詰まりを打開する方法は、シュンペーターにある!

柳井正や松下幸之助などの分かりやすい例を引きながら、シュンペーターの「イノベーションとは何か」をお伝えします。まさに、「経済学は、シュンペーターから始めよ!」です。

名和高司、日経BP、2090円(税込み)