日本の国際収支のうち「その他サービス収支」の赤字が拡大している。この「新時代の赤字」は原油輸入を超え、マイナス12兆円になるという予測もある。原油価格の上昇が円売りを促してきたという歴史を踏まえると、「新時代の赤字」が円売り材料として幅を利かせることに警戒すべきだと思われる。『弱い円の正体 仮面の黒字国・日本』(唐鎌大輔著/日経プレミアシリーズ)から抜粋・再構成してお届けする。
「新時代の赤字」は原油輸入を超える
その他サービス収支赤字、すなわち「新時代の赤字」は、デジタル赤字という象徴的な名称と共に様々なメディアに取り上げられるようになった。必然、注目度の高まりと相まって将来の見通しを具体的な数字と共に問われることも増えている。この点、2022年7月20日に開催された経済産業省の「第6回 半導体・デジタル産業戦略検討会議」の資料では、クラウドサービスなどを含むコンピュータサービスが生み出す赤字に関し、「現在のペースでいくと、2030年には約8兆円に拡大する」との試算が示され、これについて「原油輸入額を超える規模」という表現が付けられた(図表)。
この際、同資料では2021年の原油輸入実績として約6.9兆円という数字が紹介されているが、図示されるように、2014年や2022年、2023年のように、それよりもはるかに大きな輸入額だった年もある。それゆえ、この点はラフに「6〜10兆円」くらいと構えておけばよいだろう。提示された「8兆円」の積算根拠については「国内パブリッククラウド市場の規模に近似していると見なし、今後、国内パブリッククラウド市場の民間予測に基づく成長率と同程度に拡大すると仮定すると、2030年には年間約8兆円の赤字額になると推計」と資料には注記されている。こうした経済産業省予測が実現すると経常収支のイメージはどう変わってくるのか。
予測通りなら「新時代の赤字」は12兆円に
同会議ではその中の「コンピュータサービス」だけを切り出している。しかし、2023年を例に取れば、「通信・コンピューター・情報サービス」の赤字(▲1兆6149億円)はほぼ「コンピュータサービス」の赤字(▲1兆4407億円)で説明可能ゆえ、いずれで議論しようと大勢に影響はない。
仮に「コンピュータサービス」だけで▲8兆円もの赤字を記録すると考えた場合、2023年を例に取れば「通信・コンピューター・情報サービス」の赤字が約6兆円以上(約▲1.7兆円→▲8兆円)も拡大するイメージになる。「通信・コンピューター・情報サービス」を包含するその他サービス収支(≒「新時代の赤字」)は2023年で約▲5.9兆円の赤字だった。ということは、その他の条件が一定ならば、試算通りに「コンピュータサービス」の赤字が拡大すると「新時代の赤字」は2030年に約▲12兆円(▲5.9兆円+▲6兆円)に達する。
約▲12兆円という「新時代の赤字」が意味するところは小さくない。2023年の旅行収支は約+3.6兆円と過去最大の黒字だった。日本が直面する人手不足の現状と展望を踏まえれば、旅行収支黒字にはそれほど拡大余地はないと考えた方が良い。そうした状況にもかかわらず、現状が続けば、いくら旅行収支で黒字を積み上げても、今後拡大していくであろう「新時代の赤字」の半分も相殺できない可能性が視野に入る。
そこへ慢性的な赤字である貿易収支、統計上の黒字でしかない第一次所得収支黒字を合計したものが経常収支になる。こうした需給環境の現状や展望は執拗な円安が続いてしまう状況と無関係ではないように思える。
原油とコンピュータサービスの同質性
この資料の秀逸な部分はコンピュータサービスと原油を並べて議論した点だろう。確かに、日常生活に食い込んでおり、価格の決定権が相手方にあるという意味では中東産油国などから輸入する原油も、外資系企業から購入するデジタルサービスも共通する。筆者のコラムを読んでいただいた読者から「日本はデジタル原油を掘り当てないといけない」といった感想を頂戴したことがある。非常にうまい表現だと感じた。
しかし、原油は諸要因で価格変動する一方、おそらくデジタルサービスの単価は今後上がることはあっても下がることは考えにくい。デジタルサービスを提供する外資系企業で働く人々の給料は上昇傾向にあるのだから、値上げは不可避の展開に思える。日本人がその痛みから解放されるためには日本人の給料も同じかそれ以上に上昇する必要があるわけだが、その難易度が高そうなことは多くの国民が知る通りである。コンピュータサービスへの外貨支払いは原油へのそれと同様、日本経済にとって必要不可欠だが、その価格形成にほとんど関与できないという意味で厄介なコストとなる恐れがある。
日本の国際収支構造を突き詰めるほど、外貨が獲得しづらい体質になっている疑いは相当に強い。もともと、天然資源に乏しいことが交易損失の拡大(≒端的には海外への所得流出)を通じて実体経済の足かせとなりやすい歴史が日本にはあった。おそらく、デジタルサービスはそれと類似の足かせになっていく可能性がある。もちろん、デジタルサービスを抜きにして実体経済の生産性が改善することも難しいだろうから、それ自体が実体経済に対して持つ前向きな効用も無視してはならない。
しかしながら、原油を筆頭とする鉱物性燃料価格の上昇が為替需給をゆがめ、円売りを促してきたという歴史を踏まえると、「新時代の赤字」がそれに次ぐ、いやそれに勝る円売り材料として幅を利かせてくる未来は警戒すべきストーリーではないかと思う。2024年3月、財務省に国際収支分析をテーマとする有識者会議が発足した背景も、大きな構造変化が国民生活に不安をもたらす可能性を看過してはならず、処方箋を検討すべきだという問題意識があったと考えられる。
日本は「成熟した債権国」に位置づけられるものの、半世紀以上前に提唱された「国際収支の発展段階説」ではこうしたデジタルサービス経由で為替需給がゆがむ未来については想定されていなかった。今後、万が一、日本が「債権取り崩し国」に引っ張られる未来があるとすれば、「新時代の赤字」がその原動力となる可能性は十分懸念される。
唐鎌大輔著/日本経済新聞出版/1100円(税込み)


