「一冊の本で、学習、教育、組織論、ビジネス、哲学という幅広い分野を横断して、現代社会に生きる私たちにとって大事なイシューに対峙するための知恵をここまで盛り込んでいる本は、他には思いつかない」。こう語るのは、認知科学者であり慶應義塾大学名誉教授である今井むつみ氏です。長年、認知について研究を続けてきた今井氏が『 知性の罠 なぜインテリが愚行を犯すのか 』(デビッド・ロブソン著/土方奈美訳/日経ビジネス人文庫)の魅力を紹介します。

賢さとは何か、だけではなく…

 本書の邦題は『知性の罠』、英語のタイトルは“The Intelligence Trap”、副題は『なぜインテリが愚行を犯すのか』だ。

 このタイトルを見た読者は、「この本は、成功した著名人がなぜその後失敗したかという話ね」と思われたと思う。コナン・ドイルやアルバート・アインシュタインなど、人類最高の知性の持ち主と賞せられる人たちが、後半生では、心霊現象に取りつかれたり、突拍子もない仮説にとらわれたりというエピソードを知り、「天才も年をとればただの人だね」とちょっと親近感を持ったかもしれないし、自分が高い地位にある人は、「気をつけなくちゃね」と思ったかもしれない。

 しかしこの本の価値はそんな浅いものではない。この本は、何についての本か。

 この本は、まず、「賢さとは何か」についての本である。同時に「ほんとうの熟達とは何か」という本でもあり、「この時代に誤情報に騙(だま)されず幸せに生きる」ための本でもあり、「教育で必要なことは何か」に示唆を与える本でもある。

 そう、私が関心を持つテーマ――学び、教育、知識、熟達――が一冊に凝縮されている本なのである。さらに、本書の内容は、成功する組織、いずれは没落する組織という組織論にも敷衍(ふえん)される。そして読者は「人間の知性とは何か」という哲学的な考察にも踏み込んでいけるのだ。

 一冊の本で、学習、教育、組織論、ビジネス、哲学という幅広い分野を横断して、現代社会に生きる私たちにとって大事なイシューに対峙するための知恵をここまで盛り込んでいる本は、他には思いつかない。

アインシュタインは、総じては「賢くなかった」

 一般的に人生で成功した人は「賢い人」だと考えられる。「成功」した人は、どういう人たちか。

 例えば、東京大学やハーバード大学などの難関大学に入学を許可された人たち。彼らは「賢い、頭がよい」と世間ではいわれる。だれもが名前を知っている一流企業に勤務している人たち。その中でも、組織でトップまで上り詰めた人は「すごく賢い人」とみなされる。有名大学の教授、世界中で作品を読まれている小説家や輝かしい受賞歴をもつ演奏家、美術家なども「賢い人」とみなされる人たちの典型だろう。ノーベル賞を取ろうものなら、「人類最高の知性」と称賛される。

 しかし、本書では、ノーベル賞を受賞したり、歴史に名を残したりした著名人――例えばコナン・ドイルやアインシュタインのような人――が、知性の一面では非常に優れた資質を持つ一方で、総じてはあまり「賢くなかった」ことを指摘する。コナン・ドイルは『シャーロック・ホームズ』シリーズを次々に出版し、ホームズの見事な論理推論を披露する一方で、自身は心霊現象を信じ、10代の少女の「妖精がいる」という話を真に受けて、恥をさらした。

 アインシュタインは、1905年には量子力学、特殊相対性理論、そして最も有名な質量・エネルギー等価の原理をまとめ、その10年後には一般相対性理論を発表し、ニュートンの万有引力の法則を否定した。

 しかしアインシュタインは、その後の人生を通じて、電磁気力や重力を統一理論にまとめ、さらに壮大で包括的な宇宙論を構築しようとした。それから25年にわたってアインシュタインは次々と新たな統一理論に向けた小理論を生み出していったが、いずれもあっという間に他の研究者によって否定されてしまった。

 1905年には大いに役立った有名なひらめきが、その後はとんでもなく方向を見誤る原因となった。そしてアインシュタイン自身が自らの理論を否定するような見解に徹底して目をつむった。最後にはアインシュタインの同僚たちは、彼の姿をキャンパスで見かけると彼に話しかけられないように姿を隠すようになったそうだ。

 本書では、彼らのような「天才」を「凡人以下」にしてしまった思考バイアスをつぶさに分析している(それを書くとネタバレになるので、本書を読んでほしい)。

 コナン・ドイルやアインシュタインが陥った罠(わな)はだれでも嵌(は)まる可能性が高い。彼らをダメにした思考バイアスは私たちだれでもが持っているものだ。彼らのように偉人ではなく、一般人の私たちも、この思考バイアスのせいで、手痛いやけどを負う。特にそれは、ものごとが順調に進み、平穏無事な人生を謳歌しているときに、突如襲ってくるかもしれない。

 同時に、本書では、若いころから一貫して「偉人」であり続け、アインシュタインたちのような「知性の罠」に陥らなかった人たちのことも、事例をあげて述べている。生涯を通じて偉人であり続けた人たちの特徴は○○であったことだ(読者は○○を本書から探してほしい)。これも、簡単ではないが、日ごろ意識していれば、実践できることである。

一流の達人はどのような特徴を持つのか

 本書はまた、「熟達」の認知過程について、非常に深い示唆を私たちに与えてくれる。何かの分野で熟達し、一流の達人になることを目指す。それが多くの人の「学び」のゴールであると思う。

 一流の達人はどのような特徴を持っているのか。これについては、私自身、『 学びとは何か 〈探究人〉になるために 』(岩波新書)、『 「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策 』(日経BP)、『 学力喪失 認知科学による回復への道筋 』(岩波新書)などの著書で異なるアングルで繰り返し述べてきたことだが、一言で言えば、一流の達人は優れた直観を持つのである。

 今直面している重要な問題の中には、じっくりと考慮する時間がない事態が多々存在する。その時は、「直観」や「ひらめき」に頼らざるを得ない。本書では「直感に頼るのは専門家にとり、ほとんどの状況ではきわめて効率的な対処法であるのは間違いない」と述べられている。

 しかし、本書の著者、デビッド・ロブソンは、直観に頼ることの代償を二つ挙げている。一つは、マインドセットの問題で、成功したことによって自信過剰になり、他者の意見を受け入れにくくなってしまうことだ。もう一つの問題は、認知のレベルで起こる。

 あることにある程度習熟すると、無関係な情報を排除し、そのことに関係ある情報のみに注意するような注意システムが形成される。すると考えるより身体が反応し、無意識かつ自動的に行動ができるようになり、仕事の効率はよくなる。

 その半面、行動がワンパターンになり、当意即妙、臨機応変な行動がとれなくなる。本当の達人は、そういう罠に陥らず、マンネリとは無縁で、常に新境地を開拓しつづける人たちなのだ。

 本当に本物の達人――それは当該分野での一流の達人であると同時に、人生の達人でもある――の資質は何か。その答えが本書にある。それは、生まれつきのものではない。努力次第ではだれでも習得できる可能性がある。ただし、簡単ではない。このような「本物の達人」になるための鍵は教育にある。

 「東京大学入学」「ハーバード大学入学」を人生のゴールにせず、一生学び続け、「知性の罠」「成功の罠」に陥らないマインドセットを育てる教育とは? 「ほんとうの意味で賢い人間」を育てる教育とは? そのヒントも本書にある。

 これまでの内容がメインコースだとしたら、デザートは組織論だ。

 「知性の罠」「成功の罠」は組織にも当てはまる。ある時代に超一流の企業として栄華を誇った企業が、ある時から衰退の一途をたどることがある。このような企業は、共通した特徴を持っている。そして、それは、華々しく成功した後で罠に陥った個人(偉人)の延長線上にある。組織がそうならないためには? そのための示唆も本書から得られるはずだ。