8月15日が近づくと、日本は歴史の季節になる。今年は戦後80年の節目に当たるのでなおさらだ。「事実が語るのは、歴史家が声をかけたときのみです」。「歴史家の解釈とは別に、歴史的事実のかたい芯が客観的に独立して存在するといった信念は、途方もない誤謬(ごびゅう)です」。清水幾太郎訳で長い間読まれてきた歴史入門書を、2022年刊行の近藤和彦訳の新版で味わってみよう。

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歴史の事実とは歴史家が選択したもの

 毎年8月15日が近づくと、日本はにわかに歴史の季節となる。今年は先の戦争が終わってから80年の節目に当たるのでなおさらで、石破茂首相による戦後80年談話をめぐって政治論争が起きている。歴史が現代政治の磁場のなかで翻弄されるのは、日本だけなのだろうか。

 そうではあるまい。ちょっと頭を冷やして歴史に触れるために、E・H・カー(1892~1982年)の『 歴史とは何か 新版 』(近藤和彦訳/岩波書店)をひもといてみよう。どこかにかっちりとした、客観的な歴史的事実なるものはあるのか。挑発的にそう問いかけ、ノーとの回答を指し示す。

『歴史とは何か 新版』(E・H・カー著)。E・H・カーはイギリスの歴史家・国際政治学者。画像クリックでAmazonページへ
『歴史とは何か 新版』(E・H・カー著)。E・H・カーはイギリスの歴史家・国際政治学者。画像クリックでAmazonページへ

 その理由は…と、筋を運ぶ語り口は皮肉と諧謔(かいぎゃく)に満ちている。いかにも英国紳士らしい言い回し。そう。この名著はもともとケンブリッジ大学で、次いで英BBC放送で行われた講演が下敷きになっているのだ。

ルビコン川を渡ったのはカエサルだけではない

 カエサルがルビコン川を渡った。だれもがよく知る歴史的事実である。でもルビコン川を渡った人間は無数にいたはず。ならばなぜカエサルの行為だけが歴史的事実なのか。同じ事実でも違いはあるのか。そんなカーの問いかけに、どっちも事実だよな、でもちょっと違和感があるな…と思いだしたら、読者はもうカーの術中にはまっている。

 ありふれた比較からカーが提起したのは、事実の重みの違いであり、歴史的事実の選択といった問題である。「事実が語るのは、歴史家が声をかけたときのみです」。そして「歴史家はどうしても選択的です」。だから「歴史家の解釈とは別に、歴史的事実のかたい芯が客観的に独立して存在するといった信念は、途方もない誤謬(ごびゅう)です」。

 「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使って自己を語る事である」。小林秀雄の言葉(「アシルと亀の子Ⅱ」)である。以前はずいぶん主観的だなあと感じたものだ。だが、解釈を離れて歴史上の事実は存在しない、というカーの主張とそれほど離れているわけではない。

 歴史上の事実の選択という点で、カーはもっと挑発するかのような例をあげている。自動車にひき殺されたロビンソンという、演習問題のような事例だ。ひき殺した犯人は飲酒運転したジョーンズである。

「クレオパトラの鼻」という偶然の持つ意味

 ジョーンズは(A)ふだんより多くの量のアルコールを飲んでの帰り道、(B)ブレーキに欠陥のある自動車に乗り、(C)見通しのきわめて悪いコーナーに差し掛かった。(D)ちょうどその角にある店にタバコを買いに来たロビンソンが、道を横断しようとしていたところ、クルマにぶつかり死んでしまった。さあ、事故の原因と責任はどうなる。

 今の感覚なら(A)だけで「危険運転致死傷罪」または「過失運転致死傷罪」となるだろう。カーの本の初版が出た1961年当時の社会通念を映してか、「ふだんより多くの量」などと記してあるのはご愛嬌。そして(B)に注目すれば修理業者になるというが、今なら自動車メーカーの製造物責任が問われかねない事例だ。

 さらに(C)道路に死角をつくった道路管理当局、つまり行政の責任にも矛先が向かうはず。今なら責任追及は厳しかろう。もちろん、(D)ロビンソンがタバコを切らしたという偶然も無視できないが、これはその前の(A)(B)(C)とはだいぶ重みが違う。いわば「クレオパトラの鼻」のような歴史上の偶然の出来事なのである。

 ここでロビンソンの事故死の原因として(D)を重視する人物が現れたとしよう。タバコを切らさなかったら、彼は道路を横断しなかったろうから、ロビンソンのタバコへの欲求が彼の死因である。この原因を忘れた調査は時間の浪費である――といった主張である。いかにも極端で、本筋から外れていると読者は苦笑するだろう。

 この問題設定もお見事。歴史的事実とは何かを判断する際の基準の大切さに得心するはずだ。だがロビンソンの事故死は単なる演習問題ではない。論敵である、哲学者のカール・ポパーや思想史研究家のアイザイア・バーリンに対する強烈な当てこすりなのである。

 ポパーやバーリンの立場は要するに非決定論。歴史の偶然性を重視する。個人の気まぐれやちょっとした偶然によって、歴史の進路は変わってしまうという。対するカーは社会の進歩の流れを重視する歴史家である。歴史の趨勢からあえて目を背け、偶然や気まぐればかり重視するのは、タバコへの欲求が事故死の原因と言うようなもの、と皮肉るのだ。

歴史は決定か、非決定かという難問

 まさかポパーやバーリンは(D)のような主張はすまいから、カーは相手の主張をゆがめたうえで反論する「ストローマン(ワラ人形)の論法」に陥っているようでもある。実は、歴史の流れを認めるか、あるいは非決定なのかという論争の背後には、より重要な対立が控えていた。

 ロシア革命に対する評価であり、レーニンによる革命は必然だったのかという論争である。革命に至る大きな流れを描いたカーの大著『ボリシェヴィキ革命 ソヴェト・ロシア史』(原田三郎、田中菊次、服部文男、宇高基輔訳/みすず書房)に対し、バーリンは革命を歴史的必然とみていると批判した。

 「実際の出来事を起こるべくして起きたかのように叙述し、起きていたかもしれない他のあらゆることについて検証を怠っているといった攻撃」。これはカーが受け止めたバーリンらによる批判である。それに対しカーは「進歩としての歴史」としてロシア革命を位置付け、バーリンの立場を「たら・れば」学派と退ける。

 確かに、もし日本海軍がミッドウェー海戦に勝っていたら、の類いは「たら・れば」学派の最たるものだろう。だが『 反啓蒙思想 他二篇 』(松本礼二編)『 マキアヴェッリの独創性 他三篇 』(川出良枝編)『 ロシア・インテリゲンツィヤの誕生 他五篇 』(桑野隆編)など、岩波文庫で次々と刊行されているバーリンの著作をひもとくがよい。「たら・れば」学派どころか、そこにはカーとは違った意味で豊饒(ほうじょう)な思想史の記述がある。

 カーの言う「変化こそ歴史における進歩の要因であるとの感覚」は、今となってはどれほど共感を得られるか分からない。むしろカーから学ぶべきは、「現在と過去のあいだの終わりのない対話」を欠かさないことにある。歴史に語りかけ、その声に耳を澄ます。そうした謙虚な姿勢こそが、内外の視界不良の度合いが高まるなかで、私たちの道しるべになるのではなかろうか。

写真/スタジオキャスパー

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