「憲政の運用発達は輿(よ)論に支配さるるもの」「選挙権は陛下が国民に下し給(たま)える鍵である。然(しか)るに国民はその鍵を抛棄(なげす)て顧みぬとは何事であるか」。有力政治家でありながら、明治政府内の自称“謀反人”だった大隈重信は、政争に敗れ下野したあとも、一貫して議会政治の理想を訴え続けた。『大隈重信演説談話集』と『大隈重信自叙伝』から大隈の生きざまを振り返ってみよう。

※本連載をまとめた書籍『古典に学ぶ現代世界』(日経プレミアシリーズ)を発売しました。

今も残る大隈の肉声が訴えるもの

 都の西北といえば、大隈重信(1838年[天保9年]~1922年[大正11年])が創設した早稲田大学である。そのキャンパス内にある早稲田大学歴史館。館内の一室で大隈の肉声を聞くことができる。表題は「憲政に於ける輿(よ)論の勢力」。1915年(大正4年)3月、大隈内閣の下で実施された総選挙に際し、大隈の演説がレコードに吹き込まれ、全国各地に送られたものだ。

 『 大隈重信演説談話集 』(早稲田大学編/岩波文庫)に収められた演説は、それから1世紀あまりを経てもとても新鮮である。「輿論の勢力は大なるものであってだ、ことに憲政の下に、全くこの憲政の運用発達は輿論に支配さるるものである」「輿論はすべて知識ある階級によって導かるるものである」。議会政治はまさに輿論の政治であり、その輿論を問うのが選挙である。

『大隈重信演説談話集』(早稲田大学編)。画像クリックでAmazonページへ
『大隈重信演説談話集』(早稲田大学編)。画像クリックでAmazonページへ

 大隈が思いを込めたのには理由がある。12回目となる総選挙において初めて、「解散の理由を明らかにして、反対党の論ずるところと政府の論ずるところを対照して」、選択を国民に問う形の選挙になったからだ。議会に基盤を置かない内閣が議会を懲らしめるために解散するのではなく、与党と野党が政策をもって国民輿論の支持を争う。そんな選挙である。

 「帝国憲法は、国家の自治である。国民が集合して、而(しか)して国民的勢力が議会に集注さるる」「かくの如き憲政は、輿論によって導かるる」。目の覚めるような肉声である。だが当時も今も、「往々世の俗人」は「政治は俗なものである」として、すまし顔で政治から距離を置く。

 「自己は学者である、自己は実業家である……というて、これらの人々即ち国民の中等階級、知識ある階級が政治から退けば、到頭劣悪なる一種の政治的商売が起るのである」。選挙への棄権、政治からの逃避が、政治の劣化をもたらす。「政治は俗なもの」として上から目線の冷笑を加える人たちこそが「世の俗人」なのだ。

 「選挙権は陛下が国民に下し給(たま)える鍵である」と大隈は表現する。「然るに国民はその鍵を抛棄(なげす)て顧みぬとは何事であるか」と棄権の増加を批判した一文もある(「選挙人に与う」)。「この大切なる鍵を泥棒に渡しその宝を奪われて、初めてその過ちを覚(さと)るとは何事ぞ」と。

 過ちは深刻だ。「官民の堕落は政治の腐敗、政治の腐敗は即ち国民の苦痛、生活難を惹き起こすという風に、自ら蒔きたる種は自ら穫らねばならぬ」。ならば最初から鍵つまり選挙権を適切に行使すべきではないか。街行く人にも得心のいく語りが大隈の持ち味である。

 明治維新で成立した新政府で、大隈は文字通り指導者だった。その立場は「進歩主義」「急激なる改革論者」だった、と『 大隈重信自叙伝 』(早稲田大学編/岩波文庫)で振り返る。「旧物を破壊し百事を改革して久しく懐抱したる壮大な希望を成し遂げんと欲し」た急進改革路線は、政府内でたびたび衝突を起こし、結局は明治政府から追い出される。明治14年(1881年)の政変である。

『大隈重信自叙伝』(早稲田大学編)。画像クリックでAmazonページへ
『大隈重信自叙伝』(早稲田大学編)。画像クリックでAmazonページへ

大隈に懺悔した伊藤博文

 在野の立場となった大隈が1882年(明治15年)に創設した学校が東京専門学校、現在の早稲田大学であり、かたや同年に結党し総理(代表)となったのが立憲改進党である。野に下った有力政治家が学校を創ったことを「世間ではよほど不思議に考えたらしい」。『自叙伝』の引き込まれるような語りによると、こうなる。

 「政府部内では我輩は謀反人になっているんである。だから大隈は学校を造って、西郷の私学校のように輩下を養成するんである、油断がならぬとなったんである」。だから「最初は生徒が来ぬのに閉口した」。その試練を乗り越えて、学校は盛んになっていった。

 明治政府の指導者であり、明治14年の政変で大隈と鋭く対立した伊藤博文との、その後のやり取りがよい。

伊藤「大隈さん私は全く誤解しておりました。済まなかった。こうなって漸(ようや)く分かりました」
大隈「ソウカ、ソンなら今までの誤解料に少し金を出しなさい」
伊藤「ウム、ウム」
大隈「未(ま)だ未だ金だけではいけぬから、ウチ(学校のこと)で一つ演説をしてその訳を云いなさい」

 さて伊藤はどう応じたか。「伊藤と云う男は正直な男で、学校でトウトウ演説した。これは『伊藤の懺悔(ざんげ)演説』と云ってナ、チャンとその演説の書き物は、今にウチにあるんである」。講談でも聞くような語り口は『大隈重信自叙伝』の魅力だが、そこには明治政府という作品をともに創った政治家たちの共感が溢(あふ)れている。

大隈重信(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」https://www.ndl.go.jp/portrait/)
大隈重信(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」https://www.ndl.go.jp/portrait/)

「足の一本や二本ぐらい大したことない」

 大隈という政治家に目を見張るのは、その胆力である。幕末に結ばれた不平等条約の改正交渉に携わっていた、黒田清隆内閣の外相時代の1899年(明治22年)10月18日。大隈は外務省前で爆弾を投げられる。重傷を負い、右足切断の手術を受ける。

 「省の玄関を上ろうとしたが、一本の足が少しも利かない。利かない筈だ。この時すでに微塵に砕けていたのである」。「一本足で室(へや)に辿(たど)り着き、すぐ寝台(ねだい)に横臥してみ」たものの、「どうもその痛いことは堪らぬ。其処(そこ)でブランデーを飲んで、少しでもその痛みを減らそうとしたが、ブランデー位では屁の役にも立たない」

 その後の語りが大隈らしい。「けれど暗殺者如何に勇猛といえども、我輩の三寸不爛(さんずんふらん)の舌頭(ぜっとう)を奪うことは出来なかった。中央政府に均(ひと)しき、我輩の中枢が破壊せられざる限りは、足の一本や二本位いは、あっても無くても大した事はない」。この気概に裏打ちされているからこそ、国民に訴える演説の迫力が増すのである。

 爆弾を投げたのは、条約改正の内容に不満を持った国家主義団体、玄洋社の来島恒喜。来島は現場で自決した。その来島に対しても「蛮勇でもなんでも我輩はその勇気に感服するのである」。そう語る大隈は自らが犠牲になったテロを称揚しているのではなく、政治に懸ける真剣さを評価したとみるべきだろう。

 大隈は来島の法要には必ず代理の参拝者を派遣し、1922年の大隈の死後には大隈の遺志として嗣子の信常が代理を派遣した。そんな後日談を歴史家の伊藤之雄氏は、評伝『 大隈重信(上) 「巨人」が夢見たもの 』(中公新書)で紹介する。

 大隈という政治家には失敗も多く、その実績を成功物語としてだけ記すわけにはいかない。訳知り顔の識者たちはそんな評価を下す。たとえそうであるにしても、この巨人の足跡をたどることは、政治に対する希望を取り戻すことにつながるように思える。

写真(本)/スタジオキャスパー

日経プレミアシリーズ『 古典に学ぶ現代世界
名著の中に問題解決の道を探す

AIと超高齢化、ポピュリズムと全体主義、権力の偏重とタテ社会、人情と情緒、外交と経済運営――。長きにわたって読み継がれてきた古典は、私たちが抱えている課題解決へのヒントになる。ジョージ・オーウェルから有吉佐和子まで、数々の名著を現代の視点から読み解く。「日経BOOKプラス」の好評連載を大幅加筆。

滝田洋一著/日本経済新聞出版/1210円(税込み)