感触や試用を重視する買い物客に対して、どう働きかけるのか。「ショッピングの科学」を論じてベストセラーとなった『 なぜこの店で買ってしまうのか ショッピングの科学 』(パコ・アンダーヒル著/鈴木主税、福井昌子訳/ハヤカワ・ノンフィクション文庫)を岸田雅裕・ラッセル・レイノルズ・アソシエイツ日本代表が読み解きます。『 ビジネスの名著を読む〔戦略・マーケティング編〕 』(日本経済新聞出版)から抜粋。
試着室は大事な一瞬
本書が説くショッピングの科学の第3原則は、買い物客自身の勢いを逆手にとって、買う気にさせることです。相手の力を利用して投げる柔道のようにです。暗黙のうちにお客の好みや欲求を利用し、思いがけない方向に導くことが重要です。
そのためには手に取ってみたい、試着してみたいという気持ちにさせることが不可欠となります。商品にじかに触れたり、聞いたり、においをかいだりすることが衝動買いを誘発するのです。
感触や試用を重視する買い物客に対して、どう働きかけるのか。著者はショッピングの科学は自然科学と社会科学、それに芸術的な要素から成り立っているとし、その例を挙げています。
その1つが試着室。多くの衣料品店の調査では、店員とお客が話すとその商品を買う確率は1.5倍になり、お客が試着室を利用した場合にはそれが2倍になると言います。しかし、多くの店は試着室をせいぜい公営プールの更衣室並みにしか見ていないようです。
試着は買い手があと一歩で心を決める大事な一瞬なのです。もし、特別なディナーの席で着ようとする服ならば、同行者とテーブルに座った感じを味わえるように試着室をセッティングし、生け花を飾れば、より雰囲気が高められるはずです。お客の買いたいという気持ちを盛り上げて買ってもらえば、販売員が押し付けがましくしなくても売れるわけです。
最後になぜこの本を取り上げたのかをお伝えします。本書に書かれているように、その内容は常識的な事柄ばかりです。しかし、戦略を描いただけでは競合に勝ち、顧客の信頼を獲得することはできません。顧客の購入経験をどう心地よいものにするかというオペレーションまで考え抜くことが重要なのです。
「神は細部に宿る」のだと思いますが、本書は買い物客のリサーチを通じて、細部に迫る視点を提供してくれます。
生活シーンの演出が決め手に
試用の重要性について、もう少し深く検討してみましょう。今どき店に来て買うのは値が張るモノであることが多いので、とりわけ、消費者の「感覚的欲求」に応えて比較検討する機会を提供することが重要です。「商品を比べる基準がわからないと、客は一般に安いほうを買おうとする。だが、店がほんの少しでも知識を与えるようにすれば、一部の買い物客は必要以上の金額を支払うようになる。3つのブランド、3つの選択肢があり、それぞれを比べる機会があれば、客は少なくともよりよいものを選ぼうとするはずだ」と著者は断言しています。
その例として著者は、マットレス販売店の例を挙げています。「たいていはむきだしのベッドが店内にずらりと並び、客がすみずみまでチェックしてくれるのを待ちかまえている。マットレスの値段は千差万別だが、400ドルのマットレスでも2000ドルのマットレスでも、在庫管理には同じ費用がかかる。5人に1人の割合で客をつかまえて最初は安いマットを試してもらい、徐々にグレードアップさせていけば上出来だ」
では、お店を訪れたお客に徐々に商品をグレードアップしてもらうには、どうしたらよいのでしょうか。私自身、最近マットレスを買う機会があり、2つの店に行って異なる体験をしたので、このケースを例にとって述べてみましょう。
初めに訪ねたのは、多数のメーカーのマットレスを扱う大型の家具店でした。そこで体験したのは、まさにこの本の記述のようなものでした。シーツのないベッドがずらっと並び、販売員からずっとつきっきりで説明を受け、明るい照明の下で、販売員の言葉に従って横になるのを繰り返しました。マットレスごとの硬さ、体の沈み具合の差は体感できましたが、実際に使った感じはわかりませんでした。
もう1つは、自社のマットレスのみを扱うお店で、そこのベッドにはシーツが掛けられており、大半のマットレスは少し照明を落として寝室のような雰囲気を醸し出した場所に設置されていました。販売員は最初に比較しながら説明した後、あとは我々夫婦だけにしてくれて、それから枕もいくつかの高さ、形、硬さのものを持ってきてくれました。我々は枕をとっかえひっかえしながら、寝心地をイメージすることができました。
どちらで買ったかは一目瞭然です。このメーカーのマットレスは、大型の家具店でも扱っていたのですが、そこではまったく買おうという選択肢にさえ入っていなかったのです。「良い店の接客は柔道に似ている」の例えを借りるなら、最初の家具店の柔道は、力任せに組み伏せようとする格闘技でしかなかったのでしょう。これに比べて後者は、枕やシーツの感触を味わっているうちに我々が自ら買う気になりました。まさに、柔道で相手に向かっていく勢いをそのまま生かして一本を決められたようなものです。
ジョブズの技で買う気に
このようにうまい柔道をとる、過去12年で最も優れたお店は何かと問われたらアップルストアだと思います。ここでは、五感を通してアップルの商品に接することができます。アップルストアに入ってくるお客は、そもそも何かを買いたいと思いながら入ってくるのだと思いますが、そこでのお店や販売員とお客の関係は柔道のような仕掛けがいっぱいです。
うまい柔道をとる店には3つの要素、すなわち、店舗設計、品ぞろえ、従業員による運営ががっちりつながっているといいます。アップルストアに入っていくと、「効果」「技あり」「一本」という感じです。
まず、遠くからでも一目でそれとわかるアップルのロゴが入った店舗外装。店に入ると、製品のデザインの延長にある禅寺のような簡素な内装と、お客が触って感じることを最大化する導線。そして、お客によって異なる距離感に合わせてその体験が最大になるように導いてくれるスタッフ。
写真を整理してアルバムを作りたいと思っていると伝えれば、タブロイド端末の「iPad」とパソコンの「Mac」で何ができるのかをガイドしてくれます。まるで個人ツアーのガイドのようです。
連載第1回「 なぜこの店で買ってしまうのか ショッピングの科学の3段階 」で「消費者が製品を手に取る現場について理解を深めることは小売業者にとどまらず、製造業に携わる人にも役立つでしょう」と書きましたが、アップルストアで消費者はそのブランドを体験しているのです。スティーブ・ジョブズはそこまで自社製品の届けられ方の細部にまでこだわっていたのです。
もっとも「ショッピングの科学における真実は移ろいやすいものだ。人間を分析するうえでの基本的な部分はだいたい変わらないが、店舗そのもの、そして客の好みや行動は常に進化しつづけている」と著者が指摘するように、スマートフォンとタブレットが万人に普及しようとしている今、アップルストアもずっと同じことをしていたのでは、今の地位を保つことはできないでしょう。顧客視点で心地よい体験をどうすれば提供できるかを常に考えつづけ、実現する努力が必要なのです。
ポーターら巨匠の代表作から、近年ベストセラーになった注目作まで、戦略論やマーケティングに関して必ず押さえておくべき名著の内容を、第一線の経営学者やコンサルタントが独自の事例分析を交えながら読み解きます。
日本経済新聞社編/日本経済新聞出版/2640円(税込み)


