12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。緊急トラブルの対応現場で出会ったすご腕の先輩SEの五十嵐優一と共に徹夜でトラブル対応にあたる過程で、後藤はSEの仕事への前向きな気持ちを取り戻していく。五十嵐はそんな後藤にあるアドバイスをする……。(この物語はフィクションです)

イラスト:冬乃郁也
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「ぼくの場合、もっともっと勉強が必要ですね」

 どの分野でナンバーワンを目指すにしろ、今のぼくの知識や技術はまだまだ不十分だ。

「IT業界は成長スピードが速い。常に勉強していないとエンジニアとしての価値がなくなる。ドッグイヤーとかマウスイヤーなんて言葉くらいは聞いたことがあるだろ」

 ドッグイヤーとは、犬の1年は人間の7年分で、それくらい速いという意味だ。マウスはおそらくもっと速いのだろう……。

「IT業界の進化は本当に速いと思います。特にAIの進化には驚きました」

「そう。だから勉強して当たり前。エンジニアは一生勉強しないといけない。オレの場合、もっと成長したいというモチベーションもあった。だがそれ以上に、取り残されないようにするには、必死に勉強せざるを得なかった」

イラスト:冬乃郁也
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「ぼくも、実は勉強は大好きです」

「いい心がけだ」

「勉強そのものは、楽ではありません。仕事に疲れたあとやゆっくりしたい休日に、貴重な時間を割いて勉強するからです。でも、勉強して知識や技術を身に付けると、仕事に生かされるんです。仕事が速くできたり、今までできなかったことができたりすると、とても楽しいんです」

「まさしく後藤の言う通りだ」

「たまにはいいこと言うでしょ」

 五十嵐さんはフフッと笑い、若い頃の話をしてくれた。

「オレも若い頃は仕事ができなくて、自分自身が嫌になってさ」

「え、そうなんですか?」

「ああ。若い頃って、仕事ができないから、しんどいことのほうが圧倒的に多かった。仕事を任されてもトラブルや失敗ばかり。逃げ出したかった」

「そうなんですね……」

 五十嵐さんでも、逃げ出したいときがあるなんて。 

「でも、圧倒的な技術力がある先輩って、忙しそうにしているけど、ちょろちょろと適当にしてもうまくいくだろう」

「たしかにそう思います」

「いくつものプロジェクトを掛け持ちして、トラブルがあったら救世主のように現れ、あっという間に解決して次の現場に向かう。まさしくスーパースターだ」

五十嵐さんがそう思う先輩だから、きっとすごい人だったんだろう。

「ぼくもそんなエンジニアになりたいです」

「本当にかっこよかった。笑顔を絶やさず、余裕の表情を浮かべて仕事をしていた。オレも、技術を磨けば、こうなれるはずだ。能力がない自分や、追い詰められた毎日から卒業できる、そう思って技術力を高めようと勉強をした。あんな先輩になりたいと思ったからこそ、必死にがんばった」

 ぼくも五十嵐さんと同じ、いやそれ以上に濃い時間を過ごして、五十嵐さんみたいになりたい。

 五十嵐さんは、「そういえば」と言って、アメリカで勉強した後輩の話をしてくれた。

「後輩が会社をやめて、アメリカの有名な大学で勉強してIT系の修士号を取った。そいつの話だと、今やアメリカのIT系大学では学生の半分が中国系だそうだ。ちなみに4分の1はインド系」

「アジアからわざわざアメリカに行くのは、やはりアメリカンドリームですか?」

「まさしくそうだ。ただ、そのドリームをつかむためには莫大な勉強が必要だ。入試ももちろん難しいが、アメリカの大学では、日本と違って徹底的に勉強させられる。鬼のように毎日課題が出され、しかもそれがめちゃくちゃ難しい。プログラムの勉強なんて、教えてくれることはなく、『作れ』ばかりだそうだ。例えば、『キャッシュメモリーを作れ』って」

「ええっ。キャッシュメモリーなんて、パソコンには必ず実装されているような汎用技術です。それを今更作れなんて言うんですか」

「コンピューターの成り立ちをイチから体感しろということだろう。でもその大学を卒業すると初任給は平均1700万円らしい。新卒の初任給だぞ」

「日本ではあり得ないです」

「中国は、超優秀なエリートであっても、労働環境は九九六と言われる。朝9時から夜9時まで週6日働く。しかも、年収はたった300万円くらいしかない」

「それだけですか? 時給で計算するとエリートとは思えません。長時間労働で、どう見てもブラックです」

 ぼくがエリートなら、絶対にそんな環境では働きたくない。

「一方、アメリカのグーグルやアップルなどのいわゆる『ビッグテック』クラスの大企業は給料が格段に高い。それに、能力さえあれば働き方は任せられていて、時間に縛られることが少ない。そんな夢の世界が待っている。だからみんな勉強をがんばるんだ」

「勉強をして技術を身に付けることが、夢の階段なんですね。たしかに、技術があれば、見える景色が違ってくる気がします」

「後藤が言うように、オレが若い頃も勉強は楽しかった。技術や知識を身に付けているということ自体が楽しかった。わからないことがわかる、そしてそれが仕事に生かせる。誰から指示されるわけでもなく、ただ、自分のために勉強する。非常に有意義な時間だった」

「五十嵐さんの保有資格数、社内でずっとナンバーワンだったって聞きました」

「なんでそんなことを知っているんだ」

「服部課長が、メッセージで送ってくれました。五十嵐さんにいろいろ相談しろって」

「服部課長、結構マメな人間だろ。後藤のことも気にかけている。オレにも連絡があった。後藤が悩んでいるみたいだから、話を聞いてやってくれって」

「服部課長が、そんなことを?」

 驚いた、あの服部課長が……。もしかして、今日のトラブル対応に五十嵐さんを呼んだのは、ぼくが退職願を出そうとしているのに感づいたから? 机の引き出しに退職願を入れておいたから、見られた可能性はある。

 五十嵐さんに真相を尋ねてみるか。

 いや、きっとごまかされるだろう。

 ぼくがそんなことを考えている間も、五十嵐さんは資格に関する話を熱心にし続けていた。

「資格はいいぞ。特に国家資格は合格基準が明確だから、基準点を満たせば合格。年齢はもちろん関係ない。上司にゴマすりをしなくたって、昇進枠が空いてなくてもいい。後藤にもってこいだ」

「なるほど……」

 若干、ぼくへの悪口のようにも感じた。五十嵐さん、こういうこと言わなければ最高なんだけどな。

 でも、五十嵐さんが言う通り、資格というのは、不器用なぼくに向いているかもしれない。

「努力して、その基準さえクリアすれば、国が褒めてくれる。『合格です』と。しかも、自宅に大臣の名前が入った合格証まで送り届けてくれる」

「ぼくも『応用情報技術者試験』に合格しましたけど、たしかに、快感でした。そして、大きな自信を得ることができました!」

「合格したときの達成感は最高だろ。それに、合格すれば『ネットワークスペシャリスト』『ITストラテジスト』、なんて称号までもらえるんだ。楽しいったらありゃしないさ」

 そういう五十嵐さんの顔は、たしかに楽しそうだった。

 ぼくもそんな顔がしたい。心から、そう思った。

(つづく)

▼本連載は左門至峰氏の小説『ぼく、SEやめて転職したほうがいいですか?』(日経BP、2023年6月19日発行)を著者の許諾の下で転載しています。本文表記は原則、書籍発行時の記述をそのまま掲載しています。

日経クロステック 2023年9月5日付の記事を転載]