12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。緊急トラブルの対応現場で出会ったすご腕の先輩SEの五十嵐優一と共に徹夜でトラブル対応にあたる。長い夜が明け、システム復旧の道筋と共に後藤にも未来が開き始める。(この物語はフィクションです)

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也
画像のクリックで拡大表示

 ぼくなんか、出世ができないことなどに腹を立てたり、他人を気にしたりしていた。所詮はちっぽけな人間。失敗したって恥ずかしいことではない。失うものも何もない。

 一度くらい、燃え尽きるまでやってみたい。

「そういえば、後藤の会社、副業もOKなんだろ? 服部課長はプロ級のゴルフの腕前を生かして、土日にゴルフのインストラクターをやっているらしいじゃないか。人生をエンジョイするタイプの副業だな」

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也
画像のクリックで拡大表示

「たしかに、IT技術者にとっては、副業はチャンスだって聞いたことがあります」

「オレたちエンジニアは手に職がある。また、ニーズもあるから副業との相性はいい。実際、給料以上を副業で稼ぐやつもいる」

「給料以上ってことは、年収が倍以上になりますね。それはすごいです」

「人生は何かと勉強だ。後藤の経験を深める仕事なら、副業をのぞいてみてもいい。ただし、後藤の場合はのぞくだけな」

「どっぷり入り込まないってことですか」

「そうだ。副業をやる目的を間違えなければ、一度くらいはやってもいいと思う。副業の目的は小遣い稼ぎと思われているが、副業だって立派な仕事。納期や品質に対して責任がある。会社ではできない仕事の経験を積む場として価値がある」

「なるほど……」

「例えば、オレはこの前、雑誌にクラウドのセキュリティーに関する記事を書いた。記事を書きながら、知識を体系的に再整理することができた。オレの本来の仕事ではないから副業みたいなもんだが、貴重な経験をさせてもらった」

「そんなライターの副業があるんですか。一体、どこで募集しているんですか?」

「公には募集してない。さっき、ネットで発信しろって言ったろ。自分のサイト、といってもブログなどのSNSでいい。本当に中身がよければ、そこからいろいろなオファーが届く」

「なるほど。家に帰ったら、早速サイトを立ち上げてみます」

「そうだ。思い立ったが吉日。失敗してもいいから1歩を踏み出そう」

「たしか、副業に関して、依頼者とエンジニアを結びつけるサイトがあると聞きました。あれはどうですか?」

「活用するのはいいと思う。ただ、ライバルが多い。例えば、プログラムを書くというコーディングの仕事に関しても、数百人単位で登録者がいる。そこでも仕事をもらおうとすると、マーケティングが必要だ。先ほど『1歩前に』と言ったように、自分を売り込んでライバルより秀でる工夫も要る。それでも最初は格安の仕事から受けていかないと厳しいだろう」

「どの世界も競争なんですね……」

「そうなんだ。厳しい世界なんだ。副業をお勧めするもう1つの理由として、自分の力量を再認識できるということがある」

 どういうことだろう。ぼくは五十嵐さんの話を、身を乗り出して聞いた。

「例えば、プログラムの仕事を個別に受ける仕事だって、サラリーマンからしたら副業だが、独立したフリーランスからしたら本業だ。会社の力を使わず、自分の力だけで稼いでみると、いかに会社の給料が高いかがわかる。そしたら、会社で働かせてもらっていることのありがたみがわかる」

「なるほど……」

「だから、副業を絶対にやれとは薦めない。自分の実力やお金を稼ぐ難しさを認識したり、会社ではできないことを経験したりするために、やってみてもいい、という感じだ」

「はい」

「副業を体験するだけであれば、空席理論という考え方も知っておくといい」

「空席理論……?」

 初めて聞く言葉だ。

 一体、五十嵐さんはどれだけの量の本を読んでいるのだろう。ぼくもビジネス書を手に取ることは多いけれど、きっと、その比にならないくらいの量なんだろう。

「ライバルがいるところで勝負しないということだ。業界を絞るとか、ニッチな市場を攻めるというのとも、若干似ているが違う考え方だ。空席理論はある意味もっと進んだ発想だ。空いている席を探すんだ。だから、能力がないやつでも誰でも座れる」

「例えばどんな仕事ですか?」

「プログラムでいうと、ほとんどの人はプログラムを作成することを請け負う。そこはライバルだらけだ。そこで、誰もやっていない仕事を探す。例えば、プログラムの仕様書を書きますとか、設計書を作りますとか、補助金申請を承ります、そんな仕事だ」

「たしかに、誰もやっていない可能性がありますね」

「プログラム言語も、マニアックな言語の場合、空席の可能性がある。IT資格試験の対策だって、IT業界には数百、もしくは千くらいの資格がある。誰もやっていない資格があるはずだ」

「なるほど、ちょっとやってみるには面白そうですね。でも、大もうけはできませんね」

「ああ、そうだ。だから副業にちょうどいい」

「なるほど」

 まさに小遣い稼ぎの「副業」という言葉がフィットする。

「空いた席だからライバルはいない。だけど、ライバルがいないからと言って、顧客からお金をもらうことは簡単じゃない。本当に喜んでもらえるサービスを提供しないと、お金は払ってもらえない」

 やはり真剣に仕事をする必要があるんだ。副業を小遣い稼ぎに感じていたが、中途半端にやるくらいなら、やらないほうがいい気がした。

 ただ、ぼくがこれから何か1つを極めていくとして、最初から大きなことはできない。経験を積むためにも、ライバルがいないところで戦うという空席理論は大事な考え方のような気がする。五十嵐さんは、それを伝えてくれたのだろう。

(つづく)

▼本連載は左門至峰氏の小説『ぼく、SEやめて転職したほうがいいですか?』(日経BP、2023年6月19日発行)を著者の許諾の下で転載しています。本文表記は原則、書籍発行時の記述をそのまま掲載しています。

日経クロステック 2023年9月4日付の記事を転載]