私たちは意思決定をする際の「基準」を無意識のうちに設定し、しかも簡単に変えてしまう――。米デューク大学のダン・アリエリー教授が、行動経済学をもとに人間の不合理性を解説した名著 『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』 (熊谷淳子訳/ハヤカワ・ノンフィクション文庫)を、慶応義塾大学大学院経営管理研究科の清水勝彦教授が読み解きます。 『ビジネスの名著を読む〔戦略・マーケティング編〕』 から抜粋。
意思決定は「基準」次第
意思決定に不可欠なプラスとマイナスを評価する「基準」を、私たちが無意識のうちに設定し、しかも簡単に変えてしまうとアリエリーは指摘します。さらに、その「基準」次第でどのように異なった選択をするかを、いくつもの視点から説明します。それを読むと、実際の意思決定がいかに「不合理」になされているかがよく分かります。
企業経営でも日常生活でも、私たちは意思決定せずにやりすごすことはできません。これまで意思決定を取り扱ってきた書物の多くは、いかに「合理的」にものごとを決めるべきかを説いてきました。まず、問題をはっきりさせ、その次に選択肢を洗い出し、さらにそれぞれのプラスとマイナスを定量化し、ベストを選ぶというわけです。
合理的と思われた意思決定がいかに基準次第かを、最も分かりやすく説明できる事例の1つがレストランのランチです。例えば、Aランチの値段が900円、Bランチが1200円、Cランチが1500円とします。その場合、多くの客が真ん中のBランチを選びます。しかし、もしCランチがなければ、より多くの客がAランチを選ぶのです。つまり、Cランチは「そのものを売る」以上に「比較の基準」としてBランチを魅力的に見せる役割を果たすのです。
こうした現象は、その基準に引っ張られるという意味で「アンカーリング」と呼ばれます。1992年に米国企業が経営者の報酬の詳細な開示を義務付けられたのは、そうすれば高い給料は出しづらくなると期待されたからです。実際には、より高い他社の報酬がアンカーになり、経営者の報酬は上がる一方です。
アリエリーも「私たちは、より高い給料を求めてやまない。そのほとんどはたんなる嫉妬のせいだ」と断言しています。意思決定を合理的にすることは大切です。しかし、それが「不合理的に決まった基準」に左右されやすいことも忘れてはなりません。
経営者は自分に都合のよい基準を選ぶ?
以前、ジョン・S・ハモンドらが書いた「Smart Choices」(邦訳名は『意思決定アプローチ』ダイヤモンド社)という本から次のような合理的な意思決定を紹介したことがあります。
(1)問題(Problem)を正しく捉える
(2)目的(Objectives)を明確にする
(3)選択肢(Alternatives)を考える
(4)それぞれの選択の結果(Consequences)を考える
(5)それぞれのプラスマイナス(Tradeoffs)を比較する
(6)不確定要因をはっきりさせる
(7)どこまでのリスクを負えるかを考える
(8)その他の決定への影響を考える
最初の5つのステージの頭文字を取ってPrOACT(先手を打つこと)の大切さが強調されていました。
ただ、意思決定にしても、毎日の生活にしても「分かっちゃいるけど、できない」ことが多々あります。それは、人間の本性、つまり「不合理性」によるところが大きいのです。だからといって「合理的になれ」と怒鳴ってもすぐなれるわけもなく(そうであれば、みんな意思決定などで悩みません)、むしろそうした「不合理性」の背景にはどのようなメカニズムがあるかを知ることが、より現実的に有益です。
意思決定、あるいは物事の「善しあし」が議論されることは多いですが、意外に「基準」に関しては「当然分かっているだろう」ということなのか、見過ごされていることが多いと思います。本書でまず取り上げられるのは「善しあし」は相対的であること、したがって基準次第で結果の解釈も異なってくるということでした。
企業においても「10%の売り上げ成長」が良いかどうかは、比較の対象、例えば、一番の競争相手の成長、あるいは業界平均、または自社の過去の実績などに比べて初めてはっきりします。ただ、大体、経営者が説明するのは、経営者にとって最も「都合のよい基準が選ばれる」ことも研究で明らかになっています。またアリエリーは、報酬制度と関連して入社時の期待よりもはるかに高い報酬(30万ドル)を得ているのに、不満を口にする社員の例も紹介しています。
「ええ、ただ……」若い社員は口ごもった。「デスクが近い同僚ふたりが、働きぶりはぼくとたいして変わらないのに、31万ドルもらっているんです」
自分のものは価値が高いと思ってしまう
もう1つの、経営に関する重要な意味を持つ「基準」は「自前かどうか」です。経営の世界では、情報を共有化しなかったり、他部門がいいこと(ベストプラクティス)をしているのにもかかわらず、それを取り上げようとしなかったりする傾向を「NIH(Not Invented Here)」症候群などと言いますが、逆に自分が持つと、同じものでも価値が高いと思い込んでしまうような「保有効果」「自前主義」は「歯ブラシ理論」と呼ばれているのだそうです。誰もが歯ブラシを欲しがり、誰もが歯ブラシを必要とし、誰もが1本持っているが、誰も他人の歯ブラシは使いたがらない──という意味です。
そうした歯ブラシ理論の背景としてアリエリーは3つ挙げます。1つ目は、自分の持っているものにほれこんでしまうこと。2つ目は、手に入るかもしれないものではなく、失うものに注目してしまうこと。そして3つ目はほかの人が取引を見る視点も自分と同じだろうと思い込んでしまうことです。
結局、自分、自分の持っているもの、あるいは自分が持っているという事実を基準にしてしまうと(そういう場合が多いのですが)、本当に欲しい結果は得られないことが多いということです。「幸福な生活」を追い求める前に、「幸福とは何か」を考えてみなくてはならないことと同じかもしれません。
ちなみに、オリンピックの銀メダリストと銅メダリストの「幸せ度」の比較では、銅メダリストの方が上という調査結果が出ています。銀メダリストが金メダリストを「基準」とするのに対し、銅メダリストは4位を「基準」として考えるケースが多いためです。
ポーターら巨匠の代表作から、近年ベストセラーになった注目作まで、戦略論やマーケティングに関して必ず押さえておくべき名著の内容を、第一線の経営学者やコンサルタントが独自の事例分析を交えながら読み解きます。
日本経済新聞社編/日本経済新聞出版/2640円(税込み)